風船

 綱のうへの少女

 「紅茶をカップに注ぐときはゆっくりと注ぐといいよ。香りがとんでしまわないように。」
 誰かに言われたことがある。それが誰だったのかはもう忘れてしまった。

 銀のケトルのお湯が沸くのを凝っと待っている。
 僕しか居ない部屋。
 空気が動いている。
 アルコールランプの炎が時折大きく左右に揺れる。
 どこかしらでコトコトと何かが鳴っている。
 風の音なのか、水の音なのか、時計の刻音にも似ている。
 正体がつかめない。
 遠くなのか近くなのかも判然としない。
 それでも音は途切れなく聞こえている。

 僕は以前にも似たような音に耳を澄ませたことがあった。
 それを思い出そうとしてお茶の用意をし始めた。
 読もうとして出してきた本は表題を晒したまま進むことなくテーブルに置かれている。
 開かれない物語は閉じ込められた記憶そのもの。
 僕は始まらない物語とは別の、もうひとつの頁を捲った。

 アールデコの名残を醸す薄暗い図書館。
 そここに下手な改修がなされているのが惜しまれた。建物の美しさよりも実用を優先した結果だろう。けれど全体としては理想的に保存された廃墟にいるようで、僕はいつでもきまった席に座った。
 ここにいると殊に雨の降りだしそうな曇天の日は、お伽噺が始まるような想像に囚われる。
 降り出した雨。
 傘を持たない僕を、誰かが迎えに来てくれそうな気がした。
 そんな「誰か」は存在しない。
 待っていても来るはずがない現実は決して動くことがない。
 
 紅いゴム風船を持った男と小さな女の子の姿が不意に浮かんだ。
 僕の実体験ではなく、何かの小説の一場面。
 女の子は主人公の妹で、丁度、売られて行くところだった。
 兄の記憶は、妹よりも妹の頭のうえでふわふわと揺れている風船を刻み込んだ。
 その光景は妹の消息を知った時から幻視となって彼の日常に憑りつき、ことあるごとに懊悩させた。
 そして妹を救い出すという兄のロマンチシズムは、ひとつの死の音を叩く。
 
 僕は司書の女性に尋ねてみた。
 「そんな小説があったはずなのですがわかりませんか?」
 彼女は途方に暮れた。
 折よく返却本を抱えて入ってきた男性のほうへ歩んで、彼に何か耳打ちをした。
 僕の質問を伝えたのだろう。
 彼は僕のほうを見て、しばらく考え込むようにしていた。

 「それってサーカスの女の子の話じゃなかったかい?」
 「そんな気がします。」
 彼は莞爾として「片岡鐵兵だね」と言う。
 「それが読みたいのですが…。」
 「ここにはありませんが、個人的に持っているので明日なら持ってこられますよ。」
 「ぜひお願いします。学校が終わったらここにきます。」

 彼は僕のことを知っていると言った。
 どこの高校かも、学年も、住んでいるところも。
 そして僕の名前を呼んだ。
 僕はその理由を尋ねるのは愚かなことだと感じた。
 その後、僕たちは図書館の控室で本の話に耽り、やがて館長さんも加わって川端康成、横光利一、片岡鐵兵について長い時間語った。

 石を繰り抜いたような窓の外ではエニシダの黄色い小さな花が雨に打たれて揺れていた。

 彼が約束通り携えてきた本は、現在、僕の手元にある。
 送別にプレゼントしてくれたのだ。
 受け取った時はもうそのことを忘れかけていたのだけれど、僕は彼が一年以上も前のことを覚えてくれていたのが嬉しくて、本当に嬉しくて、少しだけ涙目になった。

 僕は現実の本の扉を開く。
 どこかで相変わらずコトコトと音がしている。
 ダージリン・ファーストフラッシュをカップに注ぐ。ゆっくりとのぼりたつ香りの形をイメージしながら。
 玄関先のエニシダが咲き始めた。この花が咲きだすと僕はもう初夏に立っていると感じる。
 紅茶を口に運んだあと、茶葉が切れたので買いに行かなくてはと思った。

 エニシダ



 ☆ ☆ 「綱のうへの少女」片岡鐵兵 ☆ ☆

 昭和2年5月20日、改造社から発刊された短編小説集。
 表題作は内向的官能に支配される主人公と貧困という題材を扱った新感覚主義の手法を用いた作品。作品思想の根底に、やがて片岡が参加することになるプロレタリア文学への予兆が感じられる。
 
 綱のうへの少女(初版)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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平凡

 「俺が死んだらお前はどうする?」
 真向いの椅子をひき、腰を下ろすと同時に谷山が言った。
 「いきなりなんだ?悩みでもあるのか?」
 僕は彼の方を見ずに相手をする。
 「そうじゃねえよ。もし俺が突然死んだら周りの奴らはどうするのかなって思ったんだよ。」
 「それはお前の家族以外でってことか?それなら取りあえずは弔問には行くよ。通夜と告別式。」
 「いや、そういうことじゃなくて。」
 谷山はやや小声になって言葉を継ぐ。
 「寂しいとか、悲しいとか、ないのかなってさ。」
 僕は彼の質問の意図を全くつかまないままに答える。
 「そうだなぁ…、死に方にもよるけど、知らせを受けた直後は実感なんてこれっぽちもないかもしれないな。そして2か月とか、半年とか経って、お前に話したいことが見つかったとき、初めて実感するんだろうな。お前がいないって。」
 ほんの少し考え込む素振りをして「そんなものかな」と彼は言った。
 「そんなものだよ。わからないけどな。」
 彼は尚も僕の向かいに座り続ける。
 「変化って何なんだろうな。」
 「はぁ?」
 僕は頭に入らない文字を恨みながら、邪魔するな、早くあっちへ行けと心で呟く。
 「お前が読んでた本、凡庸だっけ?あれって特別なことはないのか?」
 「言っている意味がわからん。それから凡庸じゃなくて、もしかして平凡のことか?」
 「そうそう平凡。夏目漱石だっけ?」
 「二葉亭四迷。」
 「そんな奴は知らん。どっちだっていいよ。」
 「まあ、読まない人間にはかかわりのないことだから。」
 彼は恐らく僕と会話をしていない。自分の言いたいことを言ってるだけなのだ。
 「特別なことのない人間でも小説にはなるのかな?」
 僕は読み終えたはずのページをもう一度捲り直しながら彼に質問をした。
 「小説の主人公になりたいのか?」
 「そういうことじゃないけど、俺の毎日ってつまらないよな。何にもない。どうしたら面白くなるのかな?」
 「今朝、僕は5時半に合わせておいた目覚ましにたたき起こされ、目をこすりながら普段通りの一日を始めた。朝食は豆腐となめこの味噌汁にキューリのキューちゃん、納豆を32回かき回してからご飯にかけた。納豆は匂いが目立つので食後に濃い緑茶を2杯飲み、更に歯磨きをしてから家を出た。」
 「なんだそれ?」
 「今日の自伝の書き出しだよ。どう思う?」
 「普通?どこの家でも朝はそんなもんだろ。食べない奴もいるけど。それにしても早起きだな。お前、学校好きなのか?」
 「僕の事情は放っておくとして、まぁ、こういった日常から考えれば四迷は十分に特別な隣の芝生だよ。平凡なのは小説のタイトルだけ。どこまでが本当かは知らないけど、あの小説に書かれていたのが四迷にとっての日常だったってこと。」
 「よくわからないな。俺は何をすればいいんだろう?」
 彼の「よくわからない」と「何をすればいいのか」という言葉の距離の飛躍に僕は些か苛立ちを強めた。
 「僕に訊くな。僕はお前じゃない。ただ高村光太郎が面白いことを言ってるよ。この世は人生というより娑婆であるって。」
 「人生を生きていないってことか?」
 「意識しているかどうかってことだね。」
 「どうすれば意識できるのかな?」
 僕は本を読むのをついに諦めて彼に向かい合った。
 「お前は変えたいって思っているんだろう?それが意識するってことだよ。あとはその自覚をどれだけ維持できるかってこと。大抵の場合、意識は一時的な思い付きで終わってしまうからね。」
 「じゃあ、俺は成長してるのかな?」
 僕は仕方のない溜息をついてから答えた。
 「身長は伸びていると思うよ。」

 彼にあてた年賀状が「あて先に訪ねどころがありません」の印が押されて戻ってきたのは卒業後3~4年してからのこと。それ以来、音信はない。彼が人生の変革を試みたか否かはわからないが元気でいることだろうとは思っている。
 あの健全な短絡さが持続しているのであるなら、彼の「平凡」における笑いあう時間の比率は僕の日常より高いはずだ。
 そして僕にはあの時言おうとしたけれど言えなかったことがある。それには気恥ずかしさもあったのだけれど、言葉にする必要もないとあの時思ったことを覚えている。
 「一個人は大衆に対して特別である必要はない。自分が特別だと思えるごく少数の人が傍に居てくれるなら、それこそが最高の平凡だと思う。」

 平凡


 ☆ ☆ 「平凡」二葉亭四迷 ☆ ☆

 四迷が作品冒頭で述べるように「題は平凡、書き方は牛の涎」。
 当時、主流を主張した自然主義小説を皮肉って世に出した作品。
 明治41年3月28日、如山堂書店から発行。装丁・挿画は、河合秀忠と名取春川。

 平凡(如山堂書店刊)



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廢驛

 「このあたりから集落がはじまっていたんですよ。」
 そう言って上野さんは腕を広げながら振り返った。
 「それにしても高校生の研究レポートでこんなに本格的なことをするんですか?驚いたなぁ。」
 葉の落ちた静かな梢を振動させるほどに彼は愉快そうに笑った。
 研究レポートなどというのは嘘で、僕は単に見てみたかったのだ。人が捨てた町の跡を。何かの雑誌で読んだ小さな廃村の記事に興味をもったが、自分ひとりでするには情報が少なすぎたので役場に頼ることにした。それでも学習上の取材という意味は十分に遂げていただろうと思う。それくらいの事前の調べはしておいたし、高校の先生にも無理を言って協力してもらった。役場に電話をかけてもらっただけだが。
 動機のどこかに当時読み終えたばかりの田山花袋の「廢驛」が作用していたのは間違いないと思う。

 「すみません。ご面倒をおかけして。」
 僕は心底すまなそうに頭を下げた。
 「いえいえ、僕はね、嬉しいんですよ。こうして興味を持ってくれる若い人がいるってことが。そういう人たちがいないと記憶からも記録からも消滅してしまいますからね。」
 そして草を踏み倒しながら10メートルほど進み「ここらあたりが集落の中心でした」と言った。
 その距離の短さが集落としての規模を語っている気がした。
 秩父の山中に埋もれてしまった部落がまだ眼前にあるかのように彼は見渡す。別の同じような集落で幼少時を過ごしたという上野さんには、この時それが見えていたのだろう。市の職員となった彼は公務の傍ら郷土史の研究をしている。
 僕の眼には鉱山として栄えていた時代を彷彿させるものは何一つなく、廃墟と言えるものすら映らない。単なる荒れ野があるのみであった。
 「どれくらい前まで人が住んでいたのでしょう?」
 「つい12~3年前までは人がいましたね。」
 「この間みたいな感じじゃないですか。それでもうこんな状態になってしまうんですか?」
 「そうですねぇ、建物があるうちはまだしも、取り壊してしまうと自然が元に戻ろうとする力は凄まじいですよ。あっと言う間に覆われてしまいます。」
 枯れた荒れ野と化した小さな集落は、そうした時代が誤りであったかのように再び野に戻って行く。
 「冬じゃないとね、案内できないんですよね。夏は草が茂りすぎて歩けませんから。タイミングが良かったですね。」
 ここに来るまでの道のりを考えれば想像はつく。道と呼べるものは何一つなかった。
 カシャっと靴の下で何か砕ける音がした。
 屈み込んで探ってみると半分以上欠けている電球の残骸があった。
 近くにあった木切れをつかって更に掘り出すと、ガラス面に漸く読める程度に文字が残っておりMAZDAとあった。
 「何かありましたか?」
 上野さんが少し離れたところから呼びかけてきた。
 「電球です。マツダと書かれた電球の一部がありました。」
 「へえ、珍しいですね。マツダ電球は今の東芝のことですよ。」
 かつて小屋のような家が立ち並び、多くの人が居た。
 神社もあって、集会所もあった。
 泣いて笑って、事件も大小数えきれないほど起きただろう。
 それを伝える人はここにはもう存在しない。去った人々は散り散りとなり、どこかの町で別の生活に溶け込んでいる。
 この灯りの下に居た人々の記憶をこの電球の破片は覚えているだろうか。
 僕は破片を掌に乗せたままじっとしていた。その重さが記憶の質量であるかのように感じて。
 「あちらの方にはまだ集落として残っている地区があるんですよ。行ってみますか?」
 上野さんが言った。
 風が言葉を運んでくる。
 過ぎゆくものをして静かに過ぎゆかしめよ。
 多分そう言っている。
 僕は「お願いします」と頼んだ。

 数年前、その時、上野さんが案内してくれた集落も安全面から全ての建物が取り壊された。そのことを知って一度訪れたことがある。小屋は壊され廃材と積まれ、建物があったところは地ならしされた段となり、撤去しきれなかった流しなどが数か所に残されていた。その光景は、僕には懐かしむ理由もありはしないのにセピア色の写真のような非現実に思えた。
 もちろん今の僕には再訪しようという気持ちはない。


 ☆ ☆ 「廢驛」田山花袋 ☆ ☆

 花袋・廃駅

 「無理をしても昨日歸れば好かつたな・・・・・・」収税吏の加藤は、窓の方をじつと見詰めるやうにして言つた。雪は降りしきつた。
昨夜寝る時にはまだチラチラ落ちてゐた位であつたが、今朝起きて見た時には、最早六尺以上にもなつてゐた。…
 
 初版は、大正11年12月15日。発行は、金星社。
 「廢驛」の驛とは鉄道の駅舎ではなく、宿場のことを指す。古くは収税機関を置いた場所を「驛」と言った。
 物語は収税吏の加藤が仕事で立ち寄った寒村で雪に降りこめられ立往生するところから始まる。
 花袋は秋田県の北中周辺を取材して、そこを舞台にすることを決めた。
 交通に見放され、冬には雪に閉ざされ、外から人がくることもない。
 同じ状態でいることは閉塞状態でいることとかわりなく思えてくる。そして人は生活の変化を夢に描く。
 その画期的な変化への手段は時として悲劇を生むけれども、それらも風のなかの出来事であり、雨が土に滲みこんでわからなくなるのと同じように、人間の喜怒哀楽の軌跡はいつしか野に完全に覆われてしまう。
 


  
 
 

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カステラ

 悪天候が去ったあと窓を開けて春の風を入れる。
 体が熱っぽい。怠さに溶けてしまいそうな身体をベッドに落とす。
 薬を飲むためには何か食べないといけない。面倒くさい。思うとおりにならない体調がその感情に拍車をかける。
 強すぎる風が障子をガタガタと鳴らすのを聞いているうちに、冷蔵庫に焼いたカステラの残りがあったことを思い出した。
 「あんなものでも食べないよりはいいのだろう。」
 そう思って階下へ降り、カステラの用意をする。
 そこで何を飲もうかと、少しだけ迷った。

 「珍しいわね。」
 「ん?何が?」
 「珈琲を飲んでるから。」
 「え?ああ、だって、カステラだからね。」
 僕は何も入れていない珈琲にスプーンを差し込んで一度だけかき回した。
 「カステラには珈琲?いつからそんなお洒落な好みができたのかしら。」
 君は唇の前で軽く指先を触れさせるように掌を合わせながら笑う。
 それから「桐の花が咲くまでにはまだ間があるわね」と付け加えた。
 その場所から街路樹などは見えなかったけれど、葉桜が初夏に弾みをつけようとしている季節で、桐にはまだ蕾もあるはずはなかった。だから僕は記憶の中にあるほろほろと散る紫色の花を思いうかべた。
 この時間の中で、僕は恐らく満たされていた。
 高校生の僕たちには一杯の珈琲と一切れのカステラさえ十分な贅沢だった。

 やはらかに誰が喫みさしし珈琲ぞ 紫の吐息ゆるくのぼれる

 いつ頃からだったろう。カステラには珈琲と決めたのは。君に指摘されて改めて振り返ってみた。
 それが白秋の一文の影響に過ぎないのはわかりきったことだったけれど、自分からそうし始めたのかも思い出せない。そんなに昔のことでもないのに。もしかしたら君がそういう仕草をしたのだろうかとも思う。有り得ないことではなかったから。
 けれど息をするのにも似た日常の行動において、得てして始点など見つかりはしない。大概はそんなものなのだろうと思った。
 日々は絶え間なく、誰かが指してくれなければ些細なことは滓となって沈み、底で石化してゆく。そうしてほんの少し忘れているうちに、僕たちは本当の理由を永遠に失くしてしまう。

 ケトルがチリチリと鳴きだす。もうすぐお湯が沸く。そうしたら珈琲を注ごう。
 風はおさまってきているようだ。
 僕は表紙を開く。
 
 五月が過ぎ、六月が來て私らの皮膚に柔軟なネルのにほいひがやや熱く感じらるころとなれば、西洋料理店の白いテエブルクロスの上にも紫色の釣り鐘草と苦い珈琲の季節が來る。・・・

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 ☆ ☆ 抒情歌集「桐の花」北原白秋 ☆ ☆

 初版は、大正2年1月25日、邪宗門の第三版を出した東雲堂書店から発行された。
 白秋の歌論を随筆風に記した小品と折々の歌が収められており、各章の扉には白秋が描いたカットが貼られている。
 大正5年、阿蘭陀書房から刊行された随筆集「白秋小品」には本冊から「桐の花とカステラ」が再録されている。

 桐の花 桐の花

 白秋小品 白秋小品

 

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薄れゆく月

 極楽寺駅01

 「私たちの最後が餓死であろうという予言は、しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨が言ったことです。ねえ、これが春満開の桜が言ったことだったのなら、どういう予言になるのかしら。」
 極楽寺の小さな駅をおりて桜を目の前にしながら、君は何かに耳を澄ますために立ち止まるふりをしてそう言った。
 「それは光太郎と智恵子のこと?それとも僕のこと?」
 鶯がまるで肩口で囀ったかのように鮮やかに聞こえた。
 「私たちにとっての仮定にきまってるでしょう。今さら彼らの心配をしてみても始まらないわ。」
 「それなら」と僕は瞬間に思いついたままを口にする。
 「僕が君の首を絞めて、君が僕にナイフを突き立てるっていうのはどう?」
 君は目の前の埃をちょっと吹くように息をついてから応じる。
 「それは心中なのかしら?」
 「いや、たぶん事故だよ。予測された事故。」
 「事故ね。事件じゃなくて事故。」
 そして足元の桜の花びらをその細い指で摘み上げる。
 「いいんじゃない。理想的な始まりだわ。」
 
 成就院の階段の途中から見える由比ガ浜が好きだと君は言う。残念ながら僕はその石段を登ったことがないので、君の言う景色が思いつかない。
 何故、僕たちはあの日、成就院に立ち寄らなかったのか思い出せないけれど、君の言葉とは裏腹に成就院を素通りして御霊神社へと向かった。
 曲がり角にあるお店に入って、君は力餅の10個入り折箱を一つ買い求めた。
 「10個も食べられないよ?」と僕が言うと、「ひと口サイズだから大丈夫」と君は笑う。
 社殿前の遮断機が降りて江ノ電の緑色のフレームが通り過ぎる。
 ここでも鶯の声が聞こえていた。
 お参りを済ませてから小さな木製のベンチに座り、さきほど買った力餅の箱を開く。
 「この時期は草餅に変わるのよ。知ってた?」
 僕はそれを食べたことがなかった。
 桜が散り、君の膝に、肩に、髪にとまる。
 同じように僕にも。
 「まるで初夏のようだね。暖かすぎて。しかも、どこかの森にでも入ったみたいに静かすぎる。」
 僕が言う。
 君はお餅の一つを器用に添えつけの楊枝で掬って僕に渡しながら言った。
 「短い五十年の人生を、いろんな欲にけがれて暮らすのよりも、星になって長い長い幾千万年を、清く光るほうが幸せだと、あなただったら思うかしら?本当に美しいものは、筆をとめて描かれないままに終わった絵画の様なものだって意見に賛同できる?」
 「それは何の話?」
 「水谷まさるの『繪を描かぬ畫家』っていう童話の中での画家の言葉。前半はね。」
 更に君は付け加える。
 「穏やかな風景は人を純粋にさせるものなのよね。人って本来そういうものを持っているの。あなたも私も。だから、春、桜の下で、あなたが私の首を絞めて、私があなたの胸にナイフを突き立てるのも、その純粋さが美しさを増したせいだと思えるでしょう?そして、できるならそれは終わりではなく、始まりにしたいわね。さっきはそれを聞いて理想的な回答だと思ったの。」
 君はそう言って微笑んだ。

 あれから遥かに時は過ぎて、今年、僕は初めて桜の咲く季節に成就院からの由比ガ浜を見た。

 由比ガ浜



 ☆ ☆ 詩物語集「薄れゆく月」水谷まさる ☆ ☆

 薄れゆく月 薄れゆく月・挿絵01

 初版は、昭和2年4月25日、大日本雄辨會から発行。
 装丁並びに挿絵は、加藤まさを。
 この詩物語集には「實を結ぶ枝」という序詩が挙げられており、収められた19編の詩物語を直線的に読み進めるのではなく、詩物語をひとつ読むたびに繰り返して序詩から入り、そして戻ってくることを望み、物語の結末によらず、すべての答えがこれに込められているのを読者に見つけてもらいたいと水谷は巻頭で述べている。
 僕はここからそれまで知らなかった水谷まさるという人の作品を読み始めた。
 


 
 

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