瑞鹿山 円覚寺

 暗い話題はあまり好きではないし、書いていて気が滅入るものは読んでいても気が滅入る。といって今日の憂鬱を明日の楽しみと摩り替えて笑えるほど器用にもできていないので、やはり書いている今の気分はそのままのかたちで内容に反映されるもの。
 昔、鎌倉で出会った女の子はそんな時のことをこう言っていた。
 「落ち込んだ時は自分が落ち込んでいるのを心底認めればいいんじゃない?そうすれば情けなくて馬鹿馬鹿しく思えることもあるかもね。それでも駄目ならじっとしていればいいじゃないの。無理に動くからすべてがぎくしゃくするのよ。大声で笑ったからと言ってそれで晴れ晴れしくなるなんてありえないし、不安や寂しいのが消えるわけでもないでしょう?だから静かに落ち込んでいればいいのよ。できれば気分の良い場所でね。」

 その彼女と共に円覚寺に「駈込寺 東慶寺史」を著された井上禅定さんを訪ねたことがある。20年以上も前のことである。彼女と井上さんとの関係がどういうものであったのかは尋ねたことがないので僕には今もわからない。

 瑞鹿山 円覚寺
 
 北鎌倉の駅に降り立つともう円覚寺の中にある。ここはかつてはもっと深々とした杉木立があったらしい。円覚寺の境内と白鷺の池を分断するように鉄道が走っている。ここに無理を押し通したのは旧日本陸軍だった。それまでは池は円覚寺とともにあり、木立の影に抱きかかえられるようにもっと神秘的な姿をしていたのだろうと思う。
 ここ円覚寺は、躓く石も縁の端とでも言えるくらい同様に、腰かけた切り株にさえも所縁があるのではないかと思うほどに史跡に覆われている。その中でも白鷺の池にまつわる話は有名でもあり、伝説らしい伝説としての形を今に残している。
 円覚寺開山の祖、仏光国師無学祖元が鎌倉入りをした折、八幡宮の神が白鷺に姿を変えて祖元をここに導き池に舞い降りたと言う。池の名はその伝承から来ている。

 線路を横切り総門に至る。この門は見事で如何にも古刹らしい威容を湛えている。総門をくぐれば道は三方に分かれ、そのどれを辿っても興味深い史跡の道となっている。「円覚興聖禅寺」と掲げられた山門の楼上には観音様と十六羅漢が安置されていて、その門の左を通れば十王が祀られている閻魔堂があり、真っ直ぐに進めば釈迦如来坐像を安置した選仏場へ出る。右へ歩をとれば帰源院や国宝の梵鐘へと続いている。

 案内をしていただいた井上禅定さんに無学祖元に関するお話を伺った。うろ覚えで申し訳ないが大凡、次のようなものであったと思う。

 北条時宗が禅宗に帰依しここに大伽藍をもつ寺社を建立しようとした。当初の考えでは建長寺の住職であった道隆を招じいれる予定だったが建立前に没してしまった。そこで宋より招かれたのが祖元である。祖元は宋が元に侵略を受けた折、折能仁寺に難を逃れていた。しかし、そこにも元兵が押し寄せ読経していた祖元の首に剣をあて脅したところ、祖元は泰然自若とし平静を保ち「臨剣の頌」と呼ばれる喝を詠唱し元兵を退けたと言う。

 乾坤無地卓孤笻     乾坤、弧に笻を卓つる地なし
 喜得人空法亦空     喜得す、人は空、法もまた空なることを
 珍重大元三尺剣     珍重す、大元三尺の剣
 電光影裏折春風     電光影裏に春風を斬る

 「天地では1本の棹を立てる余地もない。喜びを得るのは人は空であり、法もまた空であるということである。珍重するのは元兵が持つ三尺の剣。されど、その剣を振るったとしても稲妻の瞬く間に春風を斬るようなものである。」(大意)

 また開山の説法が行われた時には、多くの白鹿が境内に現れ祖元を囲んだと言う話も伝えられている。山号の「瑞鹿山」はこの謂れから来ている。
 祖元は、非常に穏やかな人柄で凡そ怒るということがなく、禅に馴染みのない鎌倉の武士たちに根気よくその教義を説き、教育者として多くの門弟を育てたらしい。91歳で没した後は、仏光国師と贈名され、円覚寺開山堂の木像にその姿を伝えている。

 彼女は生前の姿を模した木像が嫌いだと言った。仏像は精緻なほど見ていて安らぐが、人物は木に魂が宿っているようで怖いのだという。見開かれた目も、閉ざされた目も同じく不安な心持にさせる、それは山道をうねって這い出している木々の根が、影を伝って不気味に絡みついてくるような妄想と同じ怖さがあるのだと言った。

 普段は拝観することはかなわない舎利殿に通された。舎利殿は日本最古の唐様建築物であり、四囲に巡らされた裳階のため二階建てに見えるが実は天井の高い一階建である。舎利とはお釈迦様の骨のことであり、実際に仏舎利を見ることは叶わなかったが、それにまつわる話を聞いた。

 鎌倉は実朝の代のこと、一人の宋人(陳和卿と言った気がする)がきて実朝に拝謁した。彼の言うことには「将軍は前世で育王山の導宣律師であり、私はその門弟でした」と言う。実朝は実は以前に見た夢に同じ景色があったことを思い出し、非常に訝しんだ。そこで実朝は宋人に自分を宋へ連れて行くことを頼み巨大な船を造らせた。しかし、その船は砂浜(材木座海岸だとも言われている)に船底をとられ進水することが出来ず、渡宋を諦めざるを得なかった。その代わりに二人の使者を宋に遣わし仏舎利を得るように命じた。実朝はこれを勝長寿院に祀り、次いで大慈寺に移し盛大な法要を行ったという。
 舎利殿が建立され仏舎利が納められたのは北条貞時の代になってからのことである。室町に時代を移し足利義持の頃、関東の管領であった足利氏満に「仏舎利を京へ持参せよ」の命が下される。拒めば不和と取られ兵乱に発展するやもしれぬとの判断から仏舎利は京へ送られた。後年に起こった応仁の乱により仏舎利は所在不明となるが、乱が収束した後、不意に空から仏舎利が落ちくだりて舎利殿へ納まったのだという。
 舎利殿背後には開山堂があり、その裏山中腹には無学祖元の墓があるとのことであった。

 僕たちは井上禅定さんに案内されてこのあと東慶寺へ行くわけですがその話はまた別の機会があった時に。
  



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