The Sensitive Plant ( Laurence Housman) - 19世紀末の挿絵 -

 Laurence Housman (1865 - 1959)

 「19世紀末の挿絵」のラストは、リッケッツ、ビアズリーと共にイギリスのアール・ヌーヴォを代表するローレンス・ハウスマンを取り上げることにしました。

 Laurence Housman arabian night  1907 Arabian Nights(Hodder&Stoughton,1907)

 ローレンス・ハウスマンは、1865年7月18日にブロムズグローヴ(ウースターシャー)で生まれました。彼の父、エドワード・ハウスマン(1831–1894))は、非常に保守的で厳格な事務弁護士でした。母親はローレンスが5歳の時に死別しています。以後、彼は他の兄弟(アルフレッド・エドワード・ハウスマン、ロバート、バジル、ハーバート、クレメンス、ケイト)と共に父親に育てられます。
 ローレンスは美術をランベス美術学校と王立アート・カレッジで学びました。
 絵画のみではない彼の多岐に渡る才能はベイリー・ギャラリー、新英国芸術クラブなどで早くから示されました。
 彼が手がけた挿絵としては「Goblin Market」」(1893)、「The Sensitive Plant」(1898)、妹クレメンスが書いた小説「The Were-Wolf」(1886)などが挙げられます。
 文筆方面では2冊の詩「Green Arras」(1896)、「Spikenard」(1898)を発表しました。
 1900年に「An Englishwoman's Love-Letters 」を発表した時は大きな物議を引き起こします。それは商業的にも非常に成功し、著作権使用料で£2,000以上の報酬を受けたと言われています。更に、この時期にはマンチェスター・ガーディアンのための芸術批評家としても働いていました。
 1906年、ハウスマンは、劇「プルーネラ」を制作するために、H・グランビル・バーカーの活動に加わりました。
 1907年には婦人参政権運動のために、献身的な社会主義者であり平和主義者であったヘンリー・ネヴィンソンとヘンリー・ブレールスフォードと交友を深めます。これは彼の活動に大きな変化をもたらしました。
 彼の伝記作者キャサリン・クッキンは「ロレンスとクレメンスは、ケンジントンのエドワーズ・スクエア・ペンブルックシア・コテージへ引っ越し、これは社会主義者の活動本部(Suffrage Atelier)のための拠点となった」と述べています。
 第一次世界大戦の間、彼はシルヴィア・パンカーストと協力して彼女の新聞(The Workers' Dreadnought)に寄稿しました。
 1916年には、彼は国際連盟を支持し巡回講演に随行してアメリカ合衆国を訪問しています。また彼は性的心理学と独立労働党の研究のための英国協会のメンバーでもありました。
 視力が衰え始めた1920年代からは挿絵などの制作を止め、脚本などの文筆業と社会主義活動に専心します。1937年に彼は自叙伝を発表しました。
 ローレンスは 平和誓約共同体(the Peace Pledge Union)の強力な支持者でした。1945年、組合はロンドン・シャフツベリー通りにHousmans Bookshopを開き、それは平和主義に関する情報発信の主要拠点となりました。
 彼は、婦人参政権に反対し性差別を容認する保守的な人々をひどく嫌悪したと言われています。
 1955年、芸術と政治運動の両面で彼をサポートし続けたクレメンスが死去し、ローレンスを悲嘆の底に落とします。そして、ローレンス・ハウスマンは1959年2月20日にサマセット・グラストンベリーのバトレイ病院で亡くなりました。

 Princess Badoura Princess Badoura London 00 Princess Badoura 01
 Princess Badoura (London Hodder and Stoughton 1913 ) 

 ローレンスは自己の詩集や小説などの他に「アラビアン・ナイト」の翻訳や再話を手がけてもいます。
 1913年に刊行された“ Princess Badoura ”はその美装も見事ですが、エドマン・デュラックが素晴らしい挿絵をつけています。

  “ The Sensitive Plant ” (1899年)

 Sensitive Plant 1899 Sensitive Plant 1899 00
 New York:E.P. Dutton&Co,1899

  邦題「ねむりぐさ(含羞草)」は「プロミーシウスの解縛」と共に出版されたシェリ(Percy Bysshe Shelley)の九篇の詩のひとつです。ローレンスはこの詩集のために11枚の挿絵を描き、その木版は妹クレメンスの手によって彫版されています。

 Sensitive Plant 01-02 Sensitive Plant 6&23

 「園に一株の眠り草、清冽な風は銀の露を伴う。光によって目覚める葉の扇、そして彼らは夜の口づけでそっと閉じてゆく。」(“The Sinsitive Plant” 第一部第一節)

 パーシー・ビッシュ・シェリ(1792-1822)は徹底した無神論者でした。
 マルクスは彼を指して「シェリが不運な事故で命を落とさなければ、彼はイギリスの社会主義運動の偉大な先駆者になったであろう」と述べています。
 ローレンスが、イギリスの労働者階級にもっとも影響を与えた詩人として稀有な存在であるシェリの作品を選んだのは単なる偶然であるはずがありません。
 その背景を少しだけでもお伝えできればと思い、前述でややくどくローレンスの社会主義活動のご紹介をしました。その詳細については数多くの専門書がでておりますのでご興味があればご一読いただければと思います。またシェリについては別の機会に触れることがあるかと思いますのでここではスキップさせていただきます。 

 Sensitive Plant 24&36 second part 29 36

 「薔薇は今しも水浴の身支度を済ませた妖精のごとくに、彼女の沸き立つ胸の奥まで顕かにした。衰え行く空気にたえまなく折り重なり、彼女の美と愛の魂を露わにした。」(“The Sinsitive Plant”第一部第八節)

 シェリの詩は現実感や官能性といったものからは遠く、ロマンティックな青年の熱情と清潔さに溢れています。ローレンスの挿絵はその青年の愛に対する憧憬と苦悩とを微細な線で美しく描きだしています。それはシェリとローレンスの理想世界の実現に対する情熱が共鳴し生みだしたと言えるかもしれません。   

 second part 40 51

 最後に神保菘さんの翻訳による“The Sinsitive Plant”の結びをご紹介します。

 「ねむりぐさ」や、その外形が朽ちる前に、その枝の中に「精」のように座っていた者が、今この変化を感じたかどうかは私にはわからない。
 あの「貴婦人」の優しい心が、星が光をふりまくように愛をふりまいた。
 あの姿とはもう結びついていないのか、喜びを置いていったあところに悲しみをみたかどうか、私には推測できない。
 だがこの誤りと無知と争いの世、つまり、実在するものがなく、すべてはらしく見えるものばかり、我々はみな夢の亡霊。
 そういう世では死そのものが、他のすべて同様贋物にちがいないと認めることが適当な信条で、考えてみれば楽しい信条ではないか。
 あの楽しい庭、あの美しい貴婦人、それにあそこのあらゆる楽しい姿と香りは、実は決して死んではいない。
 変わったのは我々、我々のもので、彼等ではないのだ。
 愛や美や喜びに死も変化もないから。
 彼らの力は我々の諸機関に勝る。
 これらは存在が不確かゆえに光が射すとたまらない。

 対訳 ねむりぐさ
 (神保菘「対訳ねむりぐさ」大阪教育図書、2002年初版)  

 次はウォルター・クレインを再度取り上げて20世紀初頭の挿絵に入りたいと思っています。が、最近、体調が思わしくないため少し間を置かせていただくかもしれません。


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