「かなりや」と詩集「砂金」

 高校生だった頃、近所に住んでいたご婦人からローラーカナリヤを一番い頂いたことがあります。
 「別々の籠に入れて並べておけば良く鳴きますよ」と言われたものの、隣に慕うものがいるのに寄り添えないままにしておくのは不憫にも思えて、結局は同じ籠にいれたままにしておきました。
 そう話しましたら「それでは鳴き声を楽しめなくてよ」と笑われたりもしましたが、ひとつ籠の中でも彼は好く囀りました。日によっては半日ほども歌い続けていたこともあります。
 けれどもその年の冬、僕は肝臓を病んで2カ月あまり入院することになり、自分で面倒をみることがかなわくなったため叔母の家に預けることにしました。
 叔母も「あのカナリヤは一緒でもよく鳴くのね」と感心しておりました。
 が、ひと月程経った時のことです。
 天気が好かったので日光浴をさせようと軒先に吊るしておいた籠に、どうやってか猫が飛び付き雄が盗られてしまったのです。
 落ちた籠に残され一羽になった雌には傷などはなかったと聞きましたが、その後、2週間もしないうちに死にました。
 退院して部屋に戻った僕は、陽のあたる窓際に置いてある籠をみて一回だけ彼らの名を呼んでみました。
 カナリヤは美しい声で囀ります。その声に惹かれるのは今も変わりませんが、あの空になった籠が置いてあった風景を思い出すと再び飼う気にはなりません。

 かなりや 「かなりや」(詩集「砂金」より)
 
 僕にとってカナリヤはあまり明るい印象がありません。むしろ蔭残な記憶の色の方が強いとも言えます。
 例えば川端康成の「掌の小説」中の「金糸雀」。
 それから、西條八十の「遠き唄」中の「かなりや」。
 この「かなりや」は、成田為三が曲をつけ童謡としても親しまれています。
 実は僕は幼いころこの歌が怖くて仕方がなかったのです。
 優しさと不思議な残酷さを併せ持つ詩と覚えやすく美しいメロディの名曲ですが、何か暗い異界の夢のような、終始心を塞ぎこませるような気がして、この歌を聴くたび歌うごとにどこか僕を怖気づかせるものがありました。
 この歌の最終節で月夜の海に流されて行くカナリヤがどうしても死骸にしか思えなかったのです。
 誰かからそう聞いたのか、それとも、それを思わせる場面を何処かで見たのか、それはわかりません。
 とにかく理由はわかりませんが、僕には死したカナリヤとしか結び付かなかったのです。
 その死のイメージを思い浮かべたまま幼少の僕はこの歌を聴き、口ずさんでいたのです。
 つまりその恐怖心は、それを止めることができないほどにこの歌に執着もさせました。
 この作者が西條八十であり、彼の処女詩集「砂金」に収録されていたことを知るのは高校生活半ばのことになります。
 
 「砂金」は大正八年に西條八十が尚文堂から自費で出版しました。
 初版当時の奥付は「著作者 西條八十、発行者 著者、発行所 尚文堂」となっており、増刷以後は「発行者」が「飯尾謙藏」となります。

 僕が持っている第十一版の見返しには八十の直筆で詩が一節添えられています。

 「わが杯は大ならず されどわれは わが杯にてのむ ― アルフレッド・ミュセー 十二年七月九日 八 十 」

 砂金(見返し) 「砂金」(見返し)

 自分は自分以外の何者でもなく、それを受け入れて生きていかねばならいないと言う真摯な姿がこの言葉から汲み取れ、気に入っているフレーズの一つでもあります。

 ところが、この詩集「砂金」所収の作品からある都市伝説が生まれました。
 ネットなどでも話題になっているのでご存じの方も多いことと思われます。
 「トミノ地獄」と言う詩です。
 この詩を音読すると悪いことが起こると言うのです。また、ある劇団がこの詩を元に劇を上演したところ怪我人が出たとの噂もあるようです。
 
  姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは寶玉(たま)を吐く。
  ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
  鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱總(しゅぶさ)が気にかかる。
  叩け叩きやれ叩かずとても、無限地獄はひとつみち … 

 詩はこのように始まり、中間では地獄を巡るトミノの様子を描写し最終節では、

  地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。
  地獄ござらば来てたもれ、針の御山の留針を。
  赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。

 という形で結ばれます。

 この詩を音読したから祟られるなどと言うことは僕は信じてはいませんし、あり得ないことでしょう。
 例えば毎日この詩を音読しつづけて、そのうち一回でも何か事が起きたとして、それを祟りというのは馬鹿げています。
 偶然を必然に結びつけるために「祟り」を持ち出すなど短絡的にもほどがあると言うものです。
 現に僕は読み上げたからとて一度も怪我や熱など出したこともありません。
 強いてあげるなら、買った馬券が外れたくらいのことはあったかも知れません。
 それがここに言う不運や祟りだというのなら蚊に刺されても怨念のせいとなります。
 と言う事で一先ず都市伝説は置いておくことにして、確かにこの詩は異様な雰囲気を醸し出してはいます。
 「トミノ」とは誰を、何を指すのか?
 姉はなぜ鞭でトミノを追うのか?
 妹が恋しいと泣くトミノは男なのか、女なのか?
 疑問に思うことはこの数行の中に山ほどあり、八十は何の解説も付していません。
 解釈は各人各様に分かれ、統一の見解など生まれるはずもありませんが、「祟り」の印象については「砂金」の「自序」にそのヒントはあるかと思います。
 彼はその中でこう記しています。

 「故国木田独歩氏が少年時の私に聴かされた言葉の中に『昔から人の死を描こうと企てた作家は多い、がいづれも其人物の死の前後の状態、若しくは其臨終の姿容を叙述するに止り、当の「死」其物を描き得た者は絶えて無い』と云ふのがあった。この言葉は今でも私の耳に強い響きとして残っているが、私が今日像現しようと努めてゐるのも、独歩氏のこの所謂「死」其物の姿に他ならぬ、即ち閃々として去来し、過ぎては遂に捉ふることなき梢頭の風の如き心象、迂遠な環境描写や、粗硬な説明辞を以ってしてはその横顔をすら示し得ない吾人が日夜の心象の記録を、出来る得るかぎり完全に作り置こうとするのが私の願ひである…」

 八十はこの詩集のみならず、「見知らぬ愛人」「美しき喪失」においても繰り返し死の心象を捉えようと試みています。
 「トミノ地獄」を読んだ読者が「死の心象」を無意識の中に感じ、それが「祟り」を生み出したとしたなら八十の試みは確かに実を結んだと言えるのでしょう。
 それからもうひとつ言わせていただけるなら、都市伝説の祟りとはそれを願う人が生みだしているものなのです。
 怖いもの見たさに祟りを願う連鎖から蜚語が流布された結果「祟り」が生じるのです。そうして集まった念が生みだすと言ってもいいのかもしれません。

 砂金(表紙) 詩集「砂金」(尚文堂、大正11年第11版)
 
 
 
 
 
 
 
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