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岡本かの子「金魚撩乱」

 金魚繚乱 「金魚撩乱」(地平社、昭和22年初版、小型本)

 金魚の眼はぽかんとした穴のようでもあり、昔懐かしい仁丹のようでもあり、日野百草丸の粒のようにも見えます。
 金魚と言うものは、何を考えているのやら、さては何も考えてはいなのか、表情を持たぬ眼を開いたまま、ぱくぱくと水泡を食べる様に口を動かし、水槽を右に左にと優雅に旋回しています。
 水の中をひらひらと尾を震わせて飄々と泳ぐところなどは良くできた玩具にも感じられ、小赤などが狂おしく乱れ散る花吹雪のごとく何十匹も一度に動く様をずっと見ていると気が違ってくると申しますか、ただならぬ思いにとらわれてくる気がします。

 金魚は約2000年前の中国で鮒の突然変異として生まれた緋鮒が祖だとされています。日本へは室町時代中葉に輸入され、身分の高い貴族、士族の愛玩動物として珍重されていたとのこと。
 一般庶民が飼育を楽しめるようになったのは近代明治以降のことで、それ以前は大名などやはり身分の高い武士や富豪に限られていたようです。
 それ故に下級武士の副業として金魚の養殖を藩として保護し、幕末から維新にかけては失職した武士の内職とされていました。
 奈良県大和郡山市が我が国における最大の金魚養殖地ですが、その起こりは享保9年(1724年)柳澤吉里の着任から始まるとされています。
 東京でも明治・大正以後、江東の深川、江戸川の砂町や大島を中心として一大産業として栄えました。永井荷風の随筆の中にもその風情は書き留められています。
 現在、金魚の種類は100種を超え、そのうち主に流通しているのは30種ほどだそうです。

 金魚の伝説めいた話としては秋山五郎が作出した「秋錦」があります。
 岡本かの子著「金魚撩乱」中でも引用されているので、僕が今更にここで取り上げるのは恥ずかしいのですが一応ご紹介しておきます。
 秋山五郎はオランダ獅子頭とランチュウを交配し新種の金魚を作りだしました。しかしながら当の秋山自身はそれを見ることはありませんでした。
 彼は育成に私財を擲ち没落し、ついには憔悴と妄想のために狂人と化して「赫耶姫、赫耶姫」と叫びながら失踪し、終には何処知れずとも果てたと言います。
 後に残された畸形の金魚は繁殖を繰り返して固定化することに成功し、鑑定をした松原新之助が秋山の一字をとって「秋錦(しゅうきん)」と名付けたそうです。
 
 何故、金魚が心を捉えるのでしょう。
 姿の愛らしさ、水の華の如くの癒しもありましょうが、やはり美しい生きた玩具的なものが征服欲を満足させるからではないでしょうか。
 金魚や薔薇と言うのは素人でも新種を生み出すことができます。
 自分の手によって今までなかったものを創出することの喜び、そして、その陶酔は何にも勝るものだと思います。
 そして更に薔薇などと全く異なるところは、金魚は生命を実感できると言うことです。
 人為的に創りだされたものが命をもって動き出す。
 その充足感はヤーウェ神が人間を創り出したのにも似ているでしょう。

 岡本かの子「金魚撩乱」は、愛する人・眞佐子への報われない感情への復讐として、その女性を永遠に捕える代替として新種の金魚を作出することに生涯を費やす男・復一の物語です。

 「生意気なことを云ふようだけれど、人間に一番自由に美しい生きものが造れるのは金魚じゃなくて。」

 その眞佐子の言葉は彼の生涯の覚悟となります。
 資産家令嬢と養魚場の倅。身分違いの恋愛は復一の盲執となり怨念となっていきます。
 彼は絶望的な恋愛に憑依された結果、その執着と征服欲を昇華する手段として金魚作りを選んだのです。

 物語冒頭、眞佐子から八重桜の花弁を投げつけられ、復一がそれを吸い込む描写があります。

 …復一は急いで眼口を閉じたつもりだったが、牡丹桜の花びらのうすら冷たい幾片かは口の中に入ってしまった。けっけっと唾を絞って吐き出したが、最後の一ひらだけは上顎の奥に貼り付いて顎裏のぴよぴよする柔らかいところと一重になって仕舞って、舌尖で扱いても指先きを突き込んでも除かれなかった。復一はあわてるほど、咽喉に張り付いて死ぬのではないかと思って、わあわあ泣き出しながら家の井戸端まで駆けて帰った。そこでうがひをして、花弁はやっと吐き出したが、しかし、どことも知れない手の届き兼ねる心の中に貼り付いた苦しい花弁はいつまでも取り除くことは出来なくなった。…

 この時に復一の中に生涯除かれることのない感情が確かに貼りついたのです。

 復一は世間から遠ざかり結婚することもなく眞佐子の姿を金魚に重ね、新種の金魚を創造することに全てを投げ打ち最終的にはそれを手に入れます。
 しかし、それは意図したものではなく金魚が自ら生き残る手段として選択を重ねた結果であったのです。

 「生き物は自ら種を保存する道を選択する。」

 映画「ジュラシック・パーク」の中にもあった台詞です。
 乱暴な表現になりますが、サラブレッドは乗馬・競馬によって種を繋ぎ、鶏は養鶏されることによって繁栄を維持でき、金魚もまた同じことなのです。
 可憐な姿態をもって、永劫満たされることのない人間の創造欲、飼育欲を利用し生き残ることを選んだのかもしれません。

 作中で岡本かの子はこう綴っています。

 …これを思ふに人間が金魚を作って行くのではなく、金魚自身の目的が、人間の美に牽かれる一番弱い本能を誘惑し利用して、着々、目的のコースを進めつつあるようにも考へられる。逞しい金魚…

 復一は全てを喪失したと思った瞬間に希望の光を見つけ、その光景から悟りと言うか、達観を得ます。

 「意識して求める方向に求めるものを得ず、思ひ捨てて放擲した過去や思わぬ岐路から、突几として与えられる人生の不思議さ…」

 執着を捨てることによって生み出されるものもあります。
 喪失の瞬間が新たな誕生・再生の瞬間と重なることもあるでしょう。
 また生命は人の手によって作り変えが容易になされるべきものではないのです。
 人の手によったと見えたとしても、それは生命が自ずから為せる業なのです。僕はそう思います。
 「金魚撩乱」は、僕が「岡本かの子」を知った最初の作品であります。
 金魚を見るたびにこの物語を思い浮かべ、その遊泳する様をいつも不思議に眺めているのです。
  
 巴里祭 「巴里祭」(青木書店、昭和13年初版)

 *「金魚撩乱」は、「巴里祭」に収録されています。

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