室生犀星、或いは、鉛筆

  僕の娘は終日鉛筆を削り、削っては折らして泣いてゐる。
  机の上に悲しい鉛筆の心がころがってゐる。ねえ、鉛筆は
  心を少し出して削るもんだよと僕も悲しそうにさういふ。
                  「鉛筆」(室生犀星、『文藝林泉』より)

 なぜ僕が自分のクラスでもないその教室にいたのかは思い出せない。
 友達を待っていたとか、探し回っていたとかあるだろう。持っていたものを落とし、それが転がりこんだということも考えられる。
 或いは、別の何かにそこへ引き込まれてしまったのかもしれない。
 そう、引き込まれたという方が今にして思えば正確な表現だと言う気がする。
 放課後の掃除もとうに済み、児童のあらかたは下校し教室には残っていず、校庭からはわずかに何人かが遊ぶ喚声が遠く近く聞こえていた。
 間もなく最終下校を知らせるチャイムが鳴ろうとする、そんな時刻であったように思う。
 大きく開かれた窓から西陽が刺し込む。
 安っぽい使い回しの机は整然と並べられ、その天板のラッカーが夕陽を反射していた。それはまるで、いつか博物館で見たシトリンの原石のような色だった。
 夏まであとわずか。
 夕暮れは夢を見させる。
 これもそんな夢の続きだったろうか。
 その女の子は鉛筆を削っていた。
 彼女一人を残した、何もない教室で、ボンナイフを手に、鉛筆を削っていた。
 夕日に薄茶色の髪が融け、逆光に縁取られた姿態は一枚の影絵のようで、人を感じさせるよりも風景として完成されていた。
 「あっ」と彼女が小さな声を発した。
 僕は誘われるように彼女の元へ歩み寄り、手元を覗き込んだ。
 左手の薬指の第一関節と第二関節とを縦に繋ぐようして白い絹糸のような線が走り、しばらくするとぷつぷつと血が滲み出てきた。
 綺麗な血だな、映画みたいだ。僕はそう思った。
 彼女は艶やかな小さな唇を開けて傷口を吸い取った。
 僕はゆっくりと背の鞄を降ろして、中からバンドエイドを一枚取り出し、差し出した。それは肌色に似せた、何の模様もない、ごく庶民的なもので、とても彼女の指には似合いそうもない気がした。
 「つかう?」
 僕はたぶんそう言って渡したと思う。無言だったかも知れない。
 彼女も「ありがとう」と言ったのか、それとも黙って受け取ったのか、それも定かではない。
 ただ彼女がそれを指に巻いたことは憶えている。
 彼女が僕を見上げた。
 瞬間、角膜と虹彩を通り抜けた何かが網膜にぶつかった。そんな感触が確かにした。痛いのではない。眩しいのでもなかった。何かが当たったのだ。
 その衝撃に僕は驚き、狼狽し、視線を彼女からそらして教室のドアの方を見た。
 誰もくるはずはない。
 彼女は「あなたは私が嫌いじゃないの?」と言った。
 その意味がわからず、僕は彼女のもっと別の言葉を聞き逃したのではないかとさえ疑った。
 何に答えろと言うのか。とても長い数秒間が過ぎた。
 「私、こんな髪の色をしているでしょう。外人に間違われたり、染めてるって言われること多いの。それに引っ越すことも多いし。自分でも知らないうちに変な噂が広まっちゃって。外人の妾の子だとかね。孤児院にいたとか。外人の汗の匂いがするとか。何でよく知りもしないうちからそんな事を言われるのか、全くわからない。こっちに来て三カ月もたつのに…。本当は運動だって得意だし、授業の時も皆みたいに手を元気よく挙げて答えたい。でも目立つともっと言われるでしょう。だから、じっとしているの。でも、そうすると今度は、お高くとまってるとか、お嬢様ぶってるだとか、成績を鼻にかけてると言われるの。どうしたらいいかわからないよね?」とかすかに笑った。
 それは諦めともとれたし、自嘲とも思えた。
 僕は彼女のことを知らない。彼女が同じ学年にいたことさえ知らなかった。
 一学級48人、1組から6組まであり、クラス合同の授業などもないし、他クラスへ出入りすることもない。何よりも僕には社交性がなかった。情報が入るべくもない。
 「友達、いないの?」
 その直後、言葉の迂闊さを僕は圧倒的に後悔した。
 もう僕にはどうすることもできない。吐いた言葉を巻き戻せもしなければ、それを上手く取り繕う言葉も出てきはしなかった。
 彼女はスカートを握りしめて俯き、大粒の涙をいくつもその上に落とした。
 (ごめん)と謝ればよかったのだろうか?
 それは対処として適切だったかもしれない。でも僕は、徹頭徹尾、無能で、笑っちゃうくらい何も持ち合わせてはいなかったのだ。
 しかし僕の有能無能の如何によらず、彼女は自力で平静さを取り戻した。
 薄い桜色のハンカチを取り出して目を拭いた後、スカートに残った涙の痕を染み抜きをする仕草でそれを押し取った。
 
 その日から時々ではあったけれど僕と彼女は一緒に下校するようになった。
 他の誰かに悟られないよう、話をすることも振り向くこともなく、互いの距離をあけて、彼女が先に立つこともあれば、僕が先を歩くこともあった。とにかく一定の距離を保って二人で校舎を出た。
 彼女の家のほうが僕の家より遥かに遠かった。それは非常に都合の良いことで、僕は家に鞄を置くと自転車に跨り、できるかぎり(彼女の歩く速度を計算にいれて)遠回りをして全力で彼女の家の方へ向かった。
 僕たちは居場所を探した。
 町なかの公園や商店街などは知り合いの目も多いので避けるのは当然だったのだけれど、人目を忍ぶより何よりも僕たちにはそれらの場所が自分たちに相応しいとも思えなかった。
 隅田川の堤防沿いを下流に向かって、言問橋をくぐり、吾妻橋を抜けて、ここまでくれば互いにクラスの誰とも会う可能性はないというところまで歩いた。
 ある時、「川べりに降りてみたい」と彼女が言った。
 それから、そこが僕たちの居場所になった。
 護岸点検用の梯子を伝って堤防を越え、川の畔に降りて話をするのが好きだった。
 川は決して清水ではないし、数えきれないほどのゴミが浮遊し、溝臭さもあったけれど、それでも水のある景色は非日常を感じさせてくれる。
 彼女は本の話をすることが多く、正確に詩を暗唱し、物語の粗筋を的確に伝え、自分の感想を述べた。そこには曖昧な部分がひとつもなく、魅力的な表現が其処此処に散りばめられていた。
 そして、聴いているだけの僕に瑞々しい感性を注ぎ込んでくれたのだ。
 人の頭の中は、こんなにも蔵書を蓄えることができ、心を惹きつける表現を生み出せるものなのかと脅威に感じたのを覚えている。
 「釣りキチ三平」か、「リトルの団ちゃん」くらいしか本を読まなかった僕にはそれはとても新鮮だったし、彼女の饒舌な様をみるのが何にもまして嬉しかった。

 その日、彼女はいつものように一遍の詩を暗唱してみせた。

  雪といふものは
  物語めいてふり
  こなになりわたになり
  哀しいみぞれになり
  たえだえにふり
  また向こうも見えぬほどにふる
  村の日ぐれは
  ともしびを数えているうちに深まる
  雪は野山を蔽い
  野山も見えずなる
  こなになりわたになり
  哀しいみぞれになり
  きれぎれにふりつひに歇んでしまう  

 室生犀星の「信濃」だと言い、「もうすぐ夏休みっていうこの季節に全然似合わないね」と笑った。
 それから僕に「旅びと」と書かれた一冊の古い本を渡した。
 「これね、おばあちゃんが私にくれたの。今の『信濃』が載ってるから後で読んでみて。お父さんの実家って長野の小諸なの。室生犀星って軽井沢に疎開していたことがあってね。いろいろなところで信州の話が出てくるから何か身近な感じがして。信州の冬ってすごく淋しくて厳しいんだけど、この人は囲炉裏の火のような温かみで風景を見ているの。すごく大好きなんだ。これは3か月遅れの誕生日のプレゼントね。」

 そして夏休みが来た。

 彼女は父親の実家のある長野で夏を過ごすのだと言って町を離れ、八月の初めそこから暑中見舞いのはがきを一枚送ってよこした。返信はしなかった。
 僕と言えば何かをするわけでもなく、だらだらと毎日を過ごして、夏休みの宿題も潔く放りだしたまま2学期を迎えた。
 けれども、彼女は長野から帰ってくることはなかった。
 そして、唐突過ぎるその知らせは僕の全身の動きを止めた。
 クラスが異なる僕に連絡網がまわるはずもなく、僕と仲が良かったことなど誰も知らないのだから、教えてくれと言うほうが無理だったのは理解している。
 2学期の始業式の朝礼で校長が取ってつけたような軽い弔辞と交通安全に対する意識を高めるように全児童に力説した。
 「とても残念なことですが6年X組の…さんが交通事故で亡くなりました。… … この様な悲しいお知らせをもう二度と私にさせないでください。皆さんは交通ルールを守って、くれぐれも事故に遭わないよう車には注意してください。」
 残暑が厳しく、湿気が強く感じられ、僕は吐き気をもよおすほど気分が悪くなった。それでも立っていられたのは、倒れることさえ出来なかったからに相違ない。
 僕はその日帰宅してから、彼女がプレセントしてくれた本を初めて開いた。
 「信濃」のページには少女雑誌の付録の栞が挟み込まれていた。
 外では相変わらず蝉の声が弛まずに聞こえ、隣家のクーラーのモーター音が絶え間なく低く鈍く鳴り続いていた。
 
 その後、僕は希望通りの進学は出来なかったものの一応は高校には入学した。
 勉強も学校生活もやる気がおきず、駿河台、神保町辺りをふらついていた時、古書店で「旅びと」を見つけ、同じく棚に並んでいた犀星の「文藝林泉」を手に取った。
 そして、「鉛筆」という詩で目をとめた。

 「鉛筆は心を少し出して削るものなんだよ。」

 僕の中で、初夏の夕暮れ、シトリン色に染め上げられたあの教室が甦った。 
   

 旅びと   「旅びと」(臼井書房、昭和22年初版)

 文藝林泉 「文藝林泉(見開き扉)」(中央公論社、昭和9年初版)

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