カステラ

 悪天候が去ったあと窓を開けて春の風を入れる。
 体が熱っぽい。怠さに溶けてしまいそうな身体をベッドに落とす。
 薬を飲むためには何か食べないといけない。面倒くさい。思うとおりにならない体調がその感情に拍車をかける。
 強すぎる風が障子をガタガタと鳴らすのを聞いているうちに、冷蔵庫に焼いたカステラの残りがあったことを思い出した。
 「あんなものでも食べないよりはいいのだろう。」
 そう思って階下へ降り、カステラの用意をする。
 そこで何を飲もうかと、少しだけ迷った。

 「珍しいわね。」
 「ん?何が?」
 「珈琲を飲んでるから。」
 「え?ああ、だって、カステラだからね。」
 僕は何も入れていない珈琲にスプーンを差し込んで一度だけかき回した。
 「カステラには珈琲?いつからそんなお洒落な好みができたのかしら。」
 君は唇の前で軽く指先を触れさせるように掌を合わせながら笑う。
 それから「桐の花が咲くまでにはまだ間があるわね」と付け加えた。
 その場所から街路樹などは見えなかったけれど、葉桜が初夏に弾みをつけようとしている季節で、桐にはまだ蕾もあるはずはなかった。だから僕は記憶の中にあるほろほろと散る紫色の花を思いうかべた。
 この時間の中で、僕は恐らく満たされていた。
 高校生の僕たちには一杯の珈琲と一切れのカステラさえ十分な贅沢だった。

 やはらかに誰が喫みさしし珈琲ぞ 紫の吐息ゆるくのぼれる

 いつ頃からだったろう。カステラには珈琲と決めたのは。君に指摘されて改めて振り返ってみた。
 それが白秋の一文の影響に過ぎないのはわかりきったことだったけれど、自分からそうし始めたのかも思い出せない。そんなに昔のことでもないのに。もしかしたら君がそういう仕草をしたのだろうかとも思う。有り得ないことではなかったから。
 けれど息をするのにも似た日常の行動において、得てして始点など見つかりはしない。大概はそんなものなのだろうと思った。
 日々は絶え間なく、誰かが指してくれなければ些細なことは滓となって沈み、底で石化してゆく。そうしてほんの少し忘れているうちに、僕たちは本当の理由を永遠に失くしてしまう。

 ケトルがチリチリと鳴きだす。もうすぐお湯が沸く。そうしたら珈琲を注ごう。
 風はおさまってきているようだ。
 僕は表紙を開く。
 
 五月が過ぎ、六月が來て私らの皮膚に柔軟なネルのにほいひがやや熱く感じらるころとなれば、西洋料理店の白いテエブルクロスの上にも紫色の釣り鐘草と苦い珈琲の季節が來る。・・・

 0418.jpg



 ☆ ☆ 抒情歌集「桐の花」北原白秋 ☆ ☆

 初版は、大正2年1月25日、邪宗門の第三版を出した東雲堂書店から発行された。
 白秋の歌論を随筆風に記した小品と折々の歌が収められており、各章の扉には白秋が描いたカットが貼られている。
 大正5年、阿蘭陀書房から刊行された随筆集「白秋小品」には本冊から「桐の花とカステラ」が再録されている。

 桐の花 桐の花

 白秋小品 白秋小品

 
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