
「私たちの最後が餓死であろうという予言は、しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨が言ったことです。ねえ、これが春満開の桜が言ったことだったのなら、どういう予言になるのかしら。」
極楽寺の小さな駅をおりて桜を目の前にしながら、君は何かに耳を澄ますために立ち止まるふりをしてそう言った。
「それは光太郎と智恵子のこと?それとも僕のこと?」
鶯がまるで肩口で囀ったかのように鮮やかに聞こえた。
「私たちにとっての仮定にきまってるでしょう。今さら彼らの心配をしてみても始まらないわ。」
「それなら」と僕は瞬間に思いついたままを口にする。
「僕が君の首を絞めて、君が僕にナイフを突き立てるっていうのはどう?」
君は目の前の埃をちょっと吹くように息をついてから応じる。
「それは心中なのかしら?」
「いや、たぶん事故だよ。予測された事故。」
「事故ね。事件じゃなくて事故。」
そして足元の桜の花びらをその細い指で摘み上げる。
「いいんじゃない。理想的な始まりだわ。」
成就院の階段の途中から見える由比ガ浜が好きだと君は言う。残念ながら僕はその石段を登ったことがないので、君の言う景色が思いつかない。
何故、僕たちはあの日、成就院に立ち寄らなかったのか思い出せないけれど、君の言葉とは裏腹に成就院を素通りして御霊神社へと向かった。
曲がり角にあるお店に入って、君は力餅の10個入り折箱を一つ買い求めた。
「10個も食べられないよ?」と僕が言うと、「ひと口サイズだから大丈夫」と君は笑う。
社殿前の遮断機が降りて江ノ電の緑色のフレームが通り過ぎる。
ここでも鶯の声が聞こえていた。
お参りを済ませてから小さな木製のベンチに座り、さきほど買った力餅の箱を開く。
「この時期は草餅に変わるのよ。知ってた?」
僕はそれを食べたことがなかった。
桜が散り、君の膝に、肩に、髪にとまる。
同じように僕にも。
「まるで初夏のようだね。暖かすぎて。しかも、どこかの森にでも入ったみたいに静かすぎる。」
僕が言う。
君はお餅の一つを器用に添えつけの楊枝で掬って僕に渡しながら言った。
「短い五十年の人生を、いろんな欲にけがれて暮らすのよりも、星になって長い長い幾千万年を、清く光るほうが幸せだと、あなただったら思うかしら?本当に美しいものは、筆をとめて描かれないままに終わった絵画の様なものだって意見に賛同できる?」
「それは何の話?」
「水谷まさるの『繪を描かぬ畫家』っていう童話の中での画家の言葉。前半はね。」
更に君は付け加える。
「穏やかな風景は人を純粋にさせるものなのよね。人って本来そういうものを持っているの。あなたも私も。だから、春、桜の下で、あなたが私の首を絞めて、私があなたの胸にナイフを突き立てるのも、その純粋さが美しさを増したせいだと思えるでしょう?そして、できるならそれは終わりではなく、始まりにしたいわね。さっきはそれを聞いて理想的な回答だと思ったの。」
君はそう言って微笑んだ。
あれから遥かに時は過ぎて、今年、僕は初めて桜の咲く季節に成就院からの由比ガ浜を見た。

☆ ☆ 詩物語集「薄れゆく月」水谷まさる ☆ ☆

初版は、昭和2年4月25日、大日本雄辨會から発行。
装丁並びに挿絵は、加藤まさを。
この詩物語集には「實を結ぶ枝」という序詩が挙げられており、収められた19編の詩物語を直線的に読み進めるのではなく、詩物語をひとつ読むたびに繰り返して序詩から入り、そして戻ってくることを望み、物語の結末によらず、すべての答えがこれに込められているのを読者に見つけてもらいたいと水谷は巻頭で述べている。
僕はここからそれまで知らなかった水谷まさるという人の作品を読み始めた。
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