「このあたりから集落がはじまっていたんですよ。」
そう言って上野さんは腕を広げながら振り返った。
「それにしても高校生の研究レポートでこんなに本格的なことをするんですか?驚いたなぁ。」
葉の落ちた静かな梢を振動させるほどに彼は愉快そうに笑った。
研究レポートなどというのは嘘で、僕は単に見てみたかったのだ。人が捨てた町の跡を。何かの雑誌で読んだ小さな廃村の記事に興味をもったが、自分ひとりでするには情報が少なすぎたので役場に頼ることにした。それでも学習上の取材という意味は十分に遂げていただろうと思う。それくらいの事前の調べはしておいたし、高校の先生にも無理を言って協力してもらった。役場に電話をかけてもらっただけだが。
動機のどこかに当時読み終えたばかりの田山花袋の「廢驛」が作用していたのは間違いないと思う。
「すみません。ご面倒をおかけして。」
僕は心底すまなそうに頭を下げた。
「いえいえ、僕はね、嬉しいんですよ。こうして興味を持ってくれる若い人がいるってことが。そういう人たちがいないと記憶からも記録からも消滅してしまいますからね。」
そして草を踏み倒しながら10メートルほど進み「ここらあたりが集落の中心でした」と言った。
その距離の短さが集落としての規模を語っている気がした。
秩父の山中に埋もれてしまった部落がまだ眼前にあるかのように彼は見渡す。別の同じような集落で幼少時を過ごしたという上野さんには、この時それが見えていたのだろう。市の職員となった彼は公務の傍ら郷土史の研究をしている。
僕の眼には鉱山として栄えていた時代を彷彿させるものは何一つなく、廃墟と言えるものすら映らない。単なる荒れ野があるのみであった。
「どれくらい前まで人が住んでいたのでしょう?」
「つい12~3年前までは人がいましたね。」
「この間みたいな感じじゃないですか。それでもうこんな状態になってしまうんですか?」
「そうですねぇ、建物があるうちはまだしも、取り壊してしまうと自然が元に戻ろうとする力は凄まじいですよ。あっと言う間に覆われてしまいます。」
枯れた荒れ野と化した小さな集落は、そうした時代が誤りであったかのように再び野に戻って行く。
「冬じゃないとね、案内できないんですよね。夏は草が茂りすぎて歩けませんから。タイミングが良かったですね。」
ここに来るまでの道のりを考えれば想像はつく。道と呼べるものは何一つなかった。
カシャっと靴の下で何か砕ける音がした。
屈み込んで探ってみると半分以上欠けている電球の残骸があった。
近くにあった木切れをつかって更に掘り出すと、ガラス面に漸く読める程度に文字が残っておりMAZDAとあった。
「何かありましたか?」
上野さんが少し離れたところから呼びかけてきた。
「電球です。マツダと書かれた電球の一部がありました。」
「へえ、珍しいですね。マツダ電球は今の東芝のことですよ。」
かつて小屋のような家が立ち並び、多くの人が居た。
神社もあって、集会所もあった。
泣いて笑って、事件も大小数えきれないほど起きただろう。
それを伝える人はここにはもう存在しない。去った人々は散り散りとなり、どこかの町で別の生活に溶け込んでいる。
この灯りの下に居た人々の記憶をこの電球の破片は覚えているだろうか。
僕は破片を掌に乗せたままじっとしていた。その重さが記憶の質量であるかのように感じて。
「あちらの方にはまだ集落として残っている地区があるんですよ。行ってみますか?」
上野さんが言った。
風が言葉を運んでくる。
過ぎゆくものをして静かに過ぎゆかしめよ。
多分そう言っている。
僕は「お願いします」と頼んだ。
数年前、その時、上野さんが案内してくれた集落も安全面から全ての建物が取り壊された。そのことを知って一度訪れたことがある。小屋は壊され廃材と積まれ、建物があったところは地ならしされた段となり、撤去しきれなかった流しなどが数か所に残されていた。その光景は、僕には懐かしむ理由もありはしないのにセピア色の写真のような非現実に思えた。
もちろん今の僕には再訪しようという気持ちはない。
☆ ☆ 「廢驛」田山花袋 ☆ ☆

「無理をしても昨日歸れば好かつたな・・・・・・」収税吏の加藤は、窓の方をじつと見詰めるやうにして言つた。雪は降りしきつた。
昨夜寝る時にはまだチラチラ落ちてゐた位であつたが、今朝起きて見た時には、最早六尺以上にもなつてゐた。…
初版は、大正11年12月15日。発行は、金星社。
「廢驛」の驛とは鉄道の駅舎ではなく、宿場のことを指す。古くは収税機関を置いた場所を「驛」と言った。
物語は収税吏の加藤が仕事で立ち寄った寒村で雪に降りこめられ立往生するところから始まる。
花袋は秋田県の北中周辺を取材して、そこを舞台にすることを決めた。
交通に見放され、冬には雪に閉ざされ、外から人がくることもない。
同じ状態でいることは閉塞状態でいることとかわりなく思えてくる。そして人は生活の変化を夢に描く。
その画期的な変化への手段は時として悲劇を生むけれども、それらも風のなかの出来事であり、雨が土に滲みこんでわからなくなるのと同じように、人間の喜怒哀楽の軌跡はいつしか野に完全に覆われてしまう。
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