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「白蟻」 小栗虫太郎

 変容、変貌、転生と言ったものは古来より信じられてきましたし、それが人知を凌ぐ神の業として畏怖を植え付け、俗習を越えて権力を維持する方便ともなっていた時代があります。
 僕はオカルト的なものは信じない質ではありますが、山などに入り込んでいると、偶々見かけた樹の洞や奇態が人を想像させ、一瞬の怖れを抱かしむることがあります。特に寄生木のごとくは、気を許したはずみに道行く者にも絡みついてくるような不思議な生命力をもっています。
 小栗虫太郎と言う作家はその樹の奇態や土を通じて生命の変貌を主題とした小説を書きました。
 彼の作品は、比喩的、象徴的であり、引用も多く、また独特の専門用語(特に精神医学的な)を多用します。従って読みにくい印象を与えてしまう欠点があり、何にもまして場面転換が急で、読解力というよりも寧ろ注意力を試される作品です。
 それと当時の検閲に引っ掛かって削除が多いのが更に作品全容を分かり難くしています。そういう意味においては初版はあまり読書には向いていないかもしれませんが、装丁が素晴らしい!怪しげな雰囲気を簡潔な色合いで伝えてきます。この装丁を手掛けたのは、挿絵画家でもあります松野一夫です。

 「白蟻」(ぷろふいる社、昭和10年初版)

 白蟻 小栗虫太郎

 小栗虫太郎はこの作品について初版の序で次のように書いています。

…かやうのなことを、作者として口にすべきではないであらうが、自分が書いた幾つかのなかでも、やはり好きなものと、嫌ひなものとの別が、あるのは否まれぬと思ふ。わけても、この「白蟻」は、巧拙はともかく、私としては、哀惜措く能はざる一つなのである。私は斯こうした型式の小説を、まず、何よりも先に書きたかつたのである。私小説―それを一人の女の、脳髄の中にもみ込んでしまつたことは、ちよつと気取らせて貰ふと、かねがね夢見てゐた、野心の一つだつたと云へるであらう。…

 小栗の言う「私小説」とは、今日、僕たちが使っている意味とは大きく異なっています。ここにおいては、登場人物の個人的視点においての小説という意味に近いと受け取ってください。
 基本としては、「瀧人」(たきと)という女性が落盤事故をきっかけとして夫と別人が入れ替わったのではないかとの疑心を抱き、その原因を変容と転生とに求めるものです。
 主人公の長い独白が主となり、それと呼応するための執拗な情景描写が全体を埋め尽くします。この作品を楽しめるかどうかは、小栗が提示する情景を想像することができるかにかかっているかもしれません。
 作者はこの序の後段において「白蟻」をドイツ歌曲に譬えています。それは小説の形式をとっていても、この作品が叙事詩でもあることを示しているのです。

 物語は次のように始まっています。

…秩父町から志賀坂峠を越えて、上州神ヶ原の宿に出ると、町を貫いて、埃つぽい赤土道が流れてゐる。それが、二子山麓の、万場を発してゐる十石街道であって、その道は、しばの間をくねりくねり蜿々と高原を這いのぼってゐく。そして、やがては十石峠を分水嶺に、上信の国境を越えてゆくのだ。ところが、その峠をくだり切ったところは、右手の緩斜から前方にかけ、広大な地峡をなしてゐて、そこは見渡すかぎりの荒蕪地だつたが、その辺をよく注意してみると、峠の裾寄りのところに、僅かそれと見える一条の小径が岐れてゐた。
 その小径は、毛莨や釣鐘草や簪草などのひ弱い夏花や、鋭い棘のある淫羊藿(イカリソウ)、空木などの丈たけ低い草木で覆われてゐて、その入口でさえも、密生してゐる叢のような暗さだつた。したがって、どこをどう透し見ても、土の表面は容易に発見されず、たとい見えても、そこは濃い黝ずんだ緑色をしてゐて、その湿つた土が、熱気と地いきれとでもつて湧き立ち、ドロリとした、液のやうな感じを眼に流し入れてくる。けれども、そのやうに見える土の流れは、ものの三尺と行かぬまに、はや波のような下生えのなかに没し去つてしまふ。が、その前方――半里四方にも及ぶなだらかな緩斜は、それはまたとない、草木だけの世界だつた。そこからは、熟れいきれ切つた、まつたく堪まらない生気が発散してゐて、その瘴気のやうなものが、草原の上層一帯を覆いつくし、そこを匂ひの幕のやうに鎖してゐた。しかし、ここに何よりまして奇異なのは、そこ一帯の風物から、なんとも云えぬ異様な色彩が眼を打つてくることだつた。それが、あの真夏の飽和――燃えさかるやうな緑でないことは明らかであるが、さりとてまた、雑色でも混淆でもなく、一種病的な色彩と云うのほかになかつた。却つて、それは、心を冷たく打ち挫ぎ、まるで枯れ尽した菅か、荒壁を思わす朽樹の肌でも見るかのやうな、妙にうら淋びれた――まつたく見てゐると、その暗い情感が、ひしと心にのしかかつてくるのだつた。…

 ミステリーを紹介するというのは難しいもので、先の「本陣殺人事件」もそうですが、なるべく本筋に触れないようにしたいと思っています。結果がわかってしまうと好きでないと読めないものになってしまう恐れがありますので。

 僕が小栗虫太郎という人を知ったのは江戸川乱歩だったかの作品の後ろについている書籍紹介からでした。数行の紹介文からは内容はまったく読み取れませんが、「白蟻」という題と作者名に興味を惹かれ書店を探し回りました。

 小栗虫太郎のデビューについては巷間に通ったエピソードがあるので簡略に記すにとどめます。
 昭和8年6月に発売された「新青年」の7月号に掲載予定だった横溝正史の作品が急病のために原稿落ちとなり、その代替として採用されたのが小栗の「完全犯罪」でした。これは好評を博し、彼はミステリーの世界に躍り出て一気に人気作家の地位を得ました。救われた横溝と救った小栗とはその後も親交を保ち、「今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげよう」という約束をします。しかし、小栗は昭和21年2月10日、疎開先の長野県で脳溢血のため急逝。それはメチルアルコールによる飲酒が引き鉄だったともいわれています。

 小栗の描写は本当に独特で、読み難さと合わせて久作に並ぶかもしれません。
 推理小説や探偵小説としての整合性よりも、より詩的でオカルト的な書き方を追求していたともいえます。

…俗に腸綿踊りなどと申すものがござゐます。それは、今も申した心理見世物の一種なのですが、遠見では人の顔か花のやうに見えるものが、近寄つて見ると、侍が切腹してゐたり、凄惨な殺し場であつたりして、つまり、腸綿の形を適当に作つて、それに色彩を加えるといふ、いわゆる錯覚物の一種なのです。そうしてみると、腸綿がとぐろまいてゐる情態ほど、種々雑多な連想を引き出してくるものは外になからふと思われます。すると、あの時の鵜飼はどうだつたでしょうか。腹腔が岩片に潰されてしまつて、その無残な裂け口から、幾重にも輪をなした腸綿が、ドロリと気味悪い薄紫色をして覗いておりましたわね。ああさうさう、あのブヨブヨした堤灯形の段だらだけは、貴方にはご存知がないはずです。ですけど、私の眼にさえも、それは異様なものに映じておりました。多分それというのも、胆汁や腹腔内の出血などが、泥さえも交え、ドロドロにかきまざっていたせいもあるでしようが、恰度その色雑多な液の中で、腸綿のとぐろがブワブワ浮んでいるように見えたのです。…

 これは主人公の夫が入れ替わる瞬間を象徴的に独白した部分ですが、シミュラクラ現象とも、フラクタル効果ともとれる暗示がなされています。
 こういった描写は、主人公とその家族が食事をする場面においても取り入れられ、そこが常人の場でないことを読者にインプリントしようと試み、それは獲物の描写に拘ることから始まっています。

…騎西家の建物は、充分時代の汚点で喰い荒され、外面は既にボロボロに欠け落ちてゐて、僅かにその偉容だけが、崩壊を防ぎ止めているやうに思われた。そして、全体が漆のやうな光を帯び、天井などは貫木も板も、判らぬほどに煤けてしまつてゐて、どこをのぞいてみても、朽木の匂いがぷんぷん香つてくるのだつた。しかし、戸口を跨いだとき、滝人は生暖かい裾風を感じて、思わず飛び退つた。それは、いつも忌しい、死産の記憶を蘇よみがえらせるからであつた。しかし、そこにあつたのは眼窩が双方抉られていて、そこから真黒な血が吹き出ている仔鹿(かよ)の首で、閾(しきゐ)の彼方からは、燃え木のはぜるやうな、脂肪の飛ぶ音が聴えて來た。そして、板戸一重の土間の中では、恐らく太古の狩猟時代を髣髴とさせる――まつたく退化しきつてしまつて、兇暴一途な食欲だけに化した、人達が居並んでゐた。土間の中央には、大きな摺鉢形をした窪みがあつて、そこには丸薪や、引き剥がした樹皮などが山のやうに積まれ、それが、先刻から燻りつづけてゐるのである。そして、太い刺叉が二本、その両側に立てられてゐて、その上の鐵棒には、首を打ち落された仔鹿の胴体が結びつけられてあつた。その仔鹿は、まだ一歳たらずの犬ほどの大きさのもので、穽に挾まれた前足の二本が、関節の所で砕かれてゐ、かえつて反対のほうに曲つたまま硬ばつてゐた。それに、背から下腹にかけて恰度胴体の中央辺に、大きな斑が一つあり、頸筋にも胴体との境に小さな斑が近接してゐて、恰度縞のやうに見えるものが一つあつた。けれども、その二つだけは、奇妙にも、血や泥で汚されてはいなかった。しかし、それ以外の鹿子色をした皮膚は、ドス黒くこびり付いた、血に塗まみれてゐて、ことに半面のほうは、逃げやうと悶えながら、岩壁に摺りつけたせいか、繊維の中にまで泥が浸み込み、絶えず脂とも、血ともつかぬやうなものが、滴り落ちてゐた。それであるから、仔鹿の形は、恰度置燈籠を、半分から截ち割つたやうであつて、幾分それが、陰惨な色調を救つてゐるように思へた。…

 この後、主人公の瀧人は、自分の狂気と他者の狂気との真実を見定めるために自己の論理を尽くし、変容の正体を突き止めようとします。
 小栗はエドガー・アラン・ポーの持つ詩情に満ちた怪奇と幻想に憧れ、力強い陰影によって心を魅了するマーラーをはじめとするドイツ歌曲を思いうかべ、それらを自分の世界に再現することに尽くしました。「白蟻」の執筆中にはそれらの韻律が彼の頭のなかで鳴り響いていたのではないでしょうか。
 夢野久作が狂人による狂気を書いたとしたなら、小栗虫太郎は常人として描ける究極の狂気を日本語において書こうとしたのかもしれません。

 白蟻 奥付


 

 

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