
「近くて遠い場所」
不断の流れのなかにある日常にとって一月一日は暦の上の区切りでしかないのだけれど、晴れ渡った元日の朝陽を受けていると、今年はいつもとは違った年になるような予感が生まれてきます。
僕にとって昨年は決して良いものではなかったし、名残惜しむものもないのだけれど、漠然とやり残したような感が付きまといます。何をやり残したのかと問われれば明快に答えることも、答えたとしてそれが事実だとしても真実ではないことは解ってはいるのですけど。
昨年、銀座で味戸ケイコ先生の「あわいのひかり」と題された個展が開かれました。
味戸先生にお会いするのは約一年ぶりのことでしたが、かわらずに気さくで優しい口調で対応してくださいました。
20点以上の作品が展示され、ここ最近では最も大きな個展であったろうと思います。
荒涼とした空間に描かれた少女、そして惑いを流し込んだような色彩に表された作品たちは連作と呼んでもいいような一体感のなかにありました。
「あわい」とは狭間のことです。
例えば一日の時間で言うのならば夜と朝の間であり、昼と夜の間です。
描かれた時の多くは、一瞬の黄昏、逢魔が混ざり合う泡沫の時空。或いは、覚醒と眠りとの境です。
作品群を見ていると味戸先生がとらえようとしているのは時間の移り変わりよりも、現実と記憶の移り変わる瞬間なのではないかと思います。
出品作品のひとつである「近くて遠い場所」という作品が僕の手元にあります。
暮れてゆく影、広がる花畑にぽつんと座る少女。
彼女は花を摘む手を止めてしずかに夕暮れを見つめているようです。
スカートの上に集められた花たちは何を目的として摘まれたのでしょうか。花冠を編もうとしたのか、それともポプリのように香りを持ち帰ろうとしたのか、目的もなくただ徒に摘み取られただけなのかもしれません。
わかるのは、その仕草の風景は誰の記憶にも心あたりがあるであろうことです。
近くて遠い場所とは暮れなずむ里山のどこかではなく、この少女を見ているという記憶を指しているのでしょう。
思い出は甦るたびに触れられそうな、戻れそうな感触を携えながらも決して触れることはできませんし、戻ることも叶いません。
春から夏へ、夏から秋へ、明確な区切りはなくとも絶えず移り変わるうたかたの景色。それを見ていた自分の姿。確かに通り過ぎた時間。それが花を摘む少女の形で黄昏に置かれているのです。
不思議な親近感を漂わせるこの作品に味戸ケイコという一人の作家が抱く惜心が見て取れるような気がします。
信じられるのは自分の記憶であり、他人の介入を許さない世界。確固とした孤独がそこにあります。
孤独とは罪でも悪でもありません。孤立していることと同義ではないのです。
ひとりでいることは生きることの本質であり真理です。
孤に生きて、孤に死ぬ。
記憶とともに歩み、記憶を連れて死んでゆくのです。
死者は過去から現在までの時間でしか彷徨うことができません。生きている者はさらに現在から未来への時間を夢見ることができます。
昨日と明日の間は死と生の狭間です。僕たちは常に「あわいの時」の住人なのです。死者にあわいの地が与えられることはありません。生きているということがその混沌であり、老子の諭す「有る物は混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり。独立して改めず、周行してとどまら」ない場所なのです。
僕たちは囲いのない、常に開かれた混沌の中にある存在です。
極論するのならば、僕たちの存在自体が不定形な混沌そのものであり、自身の個に対する意識が辛うじて周囲と識別するための形状を保つに留まらせているのかもしれません。
そうしたなかで確実なものは、近くて遠い自分の記憶のみなのです。
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