名前のないうさぎさんからメッセージをいただいたのは7月の半ばころで、学生さんたちにとっては夏休みに入ろうかとする時期でした。
「文芸部のみんなと話していて一度、otosimonoさんをゲストでお呼びしてはいかがかという話がでて、ご迷惑でなければお引き受けくだされば幸いです」というものでした。
僕としては「ご迷惑」なのですが、その後、顧問の先生からメールをいただき、電話で何度かお話をさせていただいているうちに、「では一度、遊びに行かせていただきます」ということになりました。
学校行事と僕の予定がかみ合わないため、蝉しぐれは焼き芋の売り子の声に変わり、ついにはジングルベルの歌にまで至る始末。ようやっとお伺いできたのが今月14日の月曜日でした。
当初、「何か小説とか、書くことに対する話」と言われていたのですが、僕は人前で講釈が打てるほどの技量を持ち合わせていませんので、その線はお断り申し上げてフリートークにすることで落着しました。
名前のないうさぎさんの学校は都心から少し離れた私立で僕も名前をお聞きしたことのある高校でした。
部員はイラスト部と合併する形で部員7名。男子2名、女子5名で構成されていました。顧問はまだお若く、2年前に教職に就かれたばかりのフレッシュな女性教諭でした。
最初に「イラストと文芸はどんな比率になっているんですか?」と僕。
「イラ部があの子と僕で、文芸がその他です」と副部長をつとめる男子生徒が指さし確認をしながら教えてくれました。
「えーっ、その他はイラ部でしょう?ねー」っと同意を促す声が一部からあがりましたが主軸は主観による位置問題なのでスルー。
「では自己紹介をしましょう」と先生がリードをとる形でフリートークはスタートしました。
滑り出しは質疑応答から。
「Tさんは昔、記事とかを書いていたんですよね?なんでやめたんですか?」
おおっといきなり胸に痛い質問。いい左ジョブを打ってくるなと感心。
僕は少しうろたえながら「我儘だったからかな。書くべきことを自分の書きたいように書けなかったと言うことです。まあ、実力不足です。」
「書きたいようにかけないってどういうこと?」
「うーん、つまりね、記事には目的があるんですよ。僕が書いていたのは紹介とか、ショートコラムとかでしたけど、自由に書けば良いというものではなかったんですね。たとえばある観光地を紹介して欲しいという依頼がきますよね。依頼主としては、なにがなんでも褒めて欲しいわけですよ。人を呼ぶためにね。でも、実際に取材してみると取り上げるものが少なすぎたり、もっと困るのは不愉快な思いをすることが多かった場合ですよね。お料理を頼んでみたらランチ・セットは作り置きを温めてもってきたようなもので、ア・ラ・カルトは非常に手が込んでいてその落差があまりにも大きすぎたりね。おまけにスタッフの態度も感に触ったりすることもある。そうすると僕は思った通りに書いてしまわないと気がすまない。どんなに周りが褒めていても自分がおいしくないと思ったらその通りに書いてしまうみたいなことです。けれど、それでは通用しないんですよ。常識ですね、仕事ですから。融通がきかない質だったんですよ、僕は。だから書くのをやめたんです。商業記事に向いていなかっただけのことです。」
「今、同じような紹介記事を書くとしたら、やっぱり同じようになりますか?」
「今はね、悪いことよりも良いことを優先するようにしています。つまらない小説でも最初の一行から結びの一行まで拾うところがないという作品はありえないですよね。どこか一部には共感なり、惹きつけるものがあります。僕はそれを抜き出すようにしています。だから付箋とメモは手放せないんです。これは読み物だけではなく、見たり聞いたりするものも同じです。」
「どうしてそんな風に変わったんですか?」
矢継ぎ早の質問は人を崖際に追い詰めますね。素直な分だけこちら側の逃げ道がなくなります。
「たとえば手作りのお店に入るとするでしょう?そこで何かを手に取ったとします。ハンカチでもいいし、コップでもいい。大概は感心よりも疑問のほうが多いと思うんですよ。なんでこんなものがこんなに高いの?これってあれのコピーだよねってね。それは完成したものだけをみているからで、そこに至るまでの時間を顧慮していないからなんです。単純なものであっても、コピーであっても人の手によるものには時間が懸けられています。もちろん僕たちが購入するのは完成品ですからそれ自体に価格に見合った主観的な価値がないと意味がない。でも、時間を知るという意識を持つことで見えなかったものがその物の中に見えてくるんですよ。僕はそういったものを取り上げたいと思うようになったんです。ですから皆さんも失礼だとか思わないで素直に『これってなんでこんなに高いんですか?』って訊いてみてください。きっと知らなかったことに出会えます。すると相対的にみていたものが主観を生み出すんです。自分だけの思い入れみたいなものですね。つまり、気に入るということです。でもセールストークには丸め込まれないように気をつけてね。僕はその手の反省は経験豊富なので。」
面白かったのはある小説について女子生徒が話した時のことです。それは遠距離恋愛をテーマにした作品でした。
「遠恋ってすごく苦しいと思うんです。好きな人が見えない場所にいることで信頼が揺らいで行く、疑心が痛みを生んで、ついには裏切りへの想像を働かせてしまう。スマホとか、メールとかあっても、それがある分だけ不安になることがあると思うんです。すぐ送れるから、すぐ返ってこないと心配というか。ごまかしがきくツールでもありますから。私は遠恋の経験はありませんけど、両想いであっても片思いよりももっと辛い悩みがそこにあると思うんです。」
僕は良い意見だなと思って聞いていましたら、ある男子生徒が。
「東京と札幌だろうが、ブエノスアイレスだろうが大したことないよ。俺の遠恋のほうが厳しいし。」
「ええっ!」と一同。
「初耳!Kの彼女ってどこに住んでるの?っていうか、いたの?」
「当たり前じゃん。好きな子くらいいなくて高校生活が送れるかよ。」
「で、どこに住んでるのよ?」
「二次元だよ。」
…歴史を振り返ると、人間はたくさんの過ちを犯して現在に至ってきたことがよくわかる。「今の日本は最悪だ!」などと言われたりしているのをよく耳にするが過去の歴史を振り返ってみれば今の日本は充分良い方だと思う。昔はそういった批判さえできない時代があった。批判をしただけで厳しい罰を与えられ、処刑された。
「(一部の)政治家や官僚が、血税を無駄に使っている」というのも、たしかに私もそう思うがそれにしても昔はもっともっと酷く、それこそ生きていけないくらい税を取られたり税が払えなかったが為に厳しく罰を受けたりした。
そんな日本史上の汚点のひとつに豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけて行われたキリスト教の弾圧がある。そして長崎はその中心舞台であり最も激しく迫害が行われた地であった。…(遠藤周作「沈黙」)
あ、いえね、この時の間をうまく言い表せなかったものですから…。遠藤先生、ごめんなさい。
そのほかにもイラストのこととか、音楽のこととか話はあっちへホップ、こっちへスキップしながら進みました。
ひとりひとりが自分の好きなもの、嫌いなものに思い入れをもっているのがすごくよく伝わってきました。肯定することによっても否定することによっても影響を受けてゆく柔軟な世代が羨ましく、その姿が生意気に見えてしまうのは彼らが精いっぱいに背伸びをしてつかみ取ろうとしてるからなんですよね。
でも、気になったことがひとつ。
小説でも絵でもその解釈にこだわりすぎかなと思いました。
受け取る側に大切なのは「解釈」することはでなく、「わかる」ことなんですよ。
僕はかつて人の描かれていない風景画が好きでした。歌声の入っているオペラが苦手でした。人の姿も歌声も邪魔なものだと感じていたんです。けれど最近は道に描かれた人たちの声を想像してみたりするんですよ。すると身近な感覚が生じてきます。オペラも旋律だけではなく声が入ってはじめて表情が豊かになります。
それはそれらが作られた時代背景とか、作者の生立ちとか、置かれているアレゴリーを分析したのちの解釈的なものではなく、個人としての共感が生まれ、その時の自分の心に生じた印象、感情移入の結果が「わかる」ということなのではないかと思います。
的外れでもいいんですよ。自分が好きな理由を見つけられれば。試験ではないのですから。
名前のないうさぎさん、お招きいただきありがとうございました。楽しい時間を過ごせました。
文芸部の皆さん、春の号が届くのを楽しみにしています。
それではまたいつかお会いしましょう。
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