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ネコのコネ

 吾輩は猫である(上) 上巻・口絵 (中村不折・挿絵、大倉書店、明治42年第16版)

 「吾輩は猫である。名前はまだない…」ではじまる夏目漱石の名著「吾輩は猫である」。
 通読したことがない方でもこの書き出しはあまりにも有名なので知らない人はいないと思います。

 上巻・扉 

 漱石はこの本の上巻の序で「固より纏った話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上に於いて左したる影響のあろう筈がない。然し自分の考えではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆(しょし)が頻りに催促するのと、多忙で意の如く稿続々余暇がないので差し当たり是丈を出版することにした」と書いています。
 漱石の言うとおり、どこから読み始めても読み終えても良いこの小説は、その後、断片的に切り離されて「色鳥」などの作品集に短編として収録されたりしています。

 中巻 中巻・扉 (中巻、明治40年第6版)

 小説の主人公は「猫」です。その猫の目を通して明治という時代を語っていきいます。
 そして最後は、甕に落ちて死んでしまうという落ちがついています。

 「…出られないと分かり切っているものを出様とするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿げている。もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれ限り御免蒙るよ」と観念を決め込んで「吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏…有難い有難い」と結ばれます。

 しかし、公知の通りに大変人気のあった小説ですので、書店側としては諦めきれないところがありまして、漱石に続編をさらに書くよう申し入れを行いました。
 それに対して漱石は次のように下巻の序に書いています。

 「『猫』の下巻を活字に植えてみたら頁が足りないから、もう少し書き足してくれと云う。書肆は『猫』を以って伸縮自在と心得ているらしい。いくら猫でも一旦甕に落ちて往生した以上は、そう安っぽく復活できる訳のものではない。頁が足らんからと云って、おいそれと甕から這い上がるようでは猫の沽券に関わることだから是丈は御免蒙ることに致した。」

 下巻 下巻・扉 (下巻、明治41年再販)

 さすがは夏目漱石です。
 一旦往生したからには、生き返ったり、助けられたりして永遠に続編がでるようでは「あの感動を返せ!」と叫びたくなる読者も少なくはないでしょう。
 まるで某宇宙戦艦のように、「新たなる…」とか、「永遠に…」とか、「パート2とか3」とか、「完結編」のあとに「復活編」があったり、実写版は無かったことにしておいても、死んだはずの人が冷凍保存されて後の医学で蘇ったりなどと、無節操に続編を制作し失笑をかうのは愚かを通り越して哀れと言うより、興味を失すると言うものでしょう。
 「さらば…」と言って感動的に別れを告げたのですから、そのままにしておけば良いのです。
 けじめは大切です。
 余談ではありますが、明治41年9月14日に飼い猫が死んだ時、漱石は門下生数名にあてて会葬葉書をだしています。

 「辱知猫儀 久々病気の処療養相叶わず、昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致し候。埋葬の儀は車屋をたのみ蜜柑箱にいれて裏の庭先にて執行仕り候。但し主人『三四郎』の執筆中につき御会葬には及び申せず候。 以上  九月十四日」
 
 会葬葉書

 で、漱石は確かに続編を書きませんでした。書きませんでしたが「続編」は存在します。
 それによれば「烏の勘公が行水をつかったり、水葵を喰い散らかした水甕におっこちて、吾輩はもう駄目だとおもったから、天璋院様の御祐筆の妹のお嫁の先に行ったおっかさんの甥の娘だと云う二絃琴のお師匠さんのとこの三毛子の法事に聞き覚えた南無阿弥陀仏を唱えて、甕の縁を無暗にがりがりと引っ掻くのを止めたのだが、猫と雖も麦酒を飲めば酔っ払い、飲んで時が経てば酔いはさめる…」と言うことで甕から這い上がって八万八千八百八十八本の毛についた雫を身ぶるいして払い落したそうです。
 しかしこの猫、元の飼い主のところではなく、別の飼い主に拾われ、お世話になることに。
 主人は毬栗頭で時代遅れの「八の字髭」を生やして、無愛想で常に偉そうにしている入道風体で、逆に奥方は気の優しい良くできた和美人となっています。
 毬栗頭で八の字髭のこの主人。どこかで覚えはあるような容貌ではありませんか?
 僕はこの主人に似た人物をひとり思い浮かべました。
 この方です。
 写真をご覧ください。

 森鴎外

 そう、鴎外先生です。
 漱石さんを永遠の(一方的な片思い的)ライバルとしておりました愛すべき森鴎外先生です。
 何かと言えば夏目さん家の金之助さんに言いがかりをつけて、日々のネタを提供するにことかかなかった森さん家の林太郎さんです。
 もちろん小説中の登場人物としての外見イメージだけで、人物そのものをモデルとしているわけではありません。ただそうやって読んでみると面白さが加わるということです。
 本のタイトルは「贋作 吾輩は猫である」。作者は夏目漱石の門下生でもありました内田百閒です。
 表紙を見ていただければ分かるとおり、「吾輩は猫である(下)」の表紙を模してあります。
 堂々と「贋作」(にせさく)と銘を冠した別人の手による例外的な続編。ウイットに富み、ちょっとアイロニーを利かせた文章で、鴎外に限らず読者側が其々に思い浮かべる人物像を当てはめて読めば更に面白い小説です。
 機会があれば、師匠譲りの鋭い諷刺眼を通した百閒猫の生き様をちょっと覗いてみてください。楽しめると思います。
 猫のコネクションが生んだもうひとつの名著です。

 贋作吾輩は猫である 奥付 (内田百閒、新潮社、昭和25年初版)



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