言の葉の

 また日を空けてしまいました。体調を崩したことも、些事に追われたことも事実なのですが、本当の理由はもっと別の場所にあります。
 いつかこんな日がくるのではないかと思ってはいたのですが、文が書けなくなってしまったのです。君も知っているでしょうけれどそれは右手の故障のせいではありません。思い浮かばなかったのです。ただの一行も文章としてつながらなくなってしまっていたのです。そして、僕は放棄することにしたんです。
 このひと月以上もの間に僕に大切な小さな出来事がいくつかありました。そのひとつひとつは世間的には無に等しい出来事だったのですが僕にはとても嬉しいものだったのです。
 銅版画家のアルフォンス・井上先生からお電話をいただいた時には、予期していなかったので余計な緊張を生み満足なご対応ができませんでした。
 けれど「神戸の井上です」というお声を聞いた瞬間、感動にも似た感情が走りました。
 それから井上先生が現在、新作を手掛けていらっしゃることをお聞きし、不思議なことに安堵を憶えたのです。それはきっと終わらない作品に対する僕の憧れが生み出したのでしょう。
 
 君に言っておくことがありました。
 僕は業務以外では電子メールをやめることにしました。
 知人、友人宛には急用の時は電話、ゆっくりと時間をかけて良い時には手紙を書くことにしたのです。
 真っ白な便箋に向かって受け取り相手のことを思い浮かべて言葉を選ぶ事は思いのほか充実した時間を僕に与えてくれました。
 電子メールは早いし、書くのにも時間がかかりません。直ぐに消して書き直せますから。保存してあとで校正することもできます。しかし便箋の書き損じは捨ててしまうしかないのです。一通の便りを書くために何枚も無駄にしたこともあります。けれどその無駄も僕にとって大切なものであることに気づきました。
 僕は右手を故障してから字が極度に下手になりました。それを自覚して相手が読みやすいようにできるだけ丁寧に綴ります。すると相手が今近くにいるような気がしてくるのです。
 そうしてポストに投函し、返信を期待しているわけではないのですけど、やはり手紙が返ってきた時は何度も読み返してしまうほど嬉しいのです。
 僕たちは時間を短縮するという手段のみに囚われて、もっと大事なことがあるのを忘れがちになってしまいます。手紙を書くと言うことはそれを思い出させてくれるのです。そうしているうちに僕は言葉を思い出しました。書くことを思い出したのです。
 今回は一時的なものだったけれど、いつか本当に僕の心のなかで文章が途絶えてしまう日がくるのでしょうね。そのことを実感したひと月でした。

 林由紀子先生から頂いたお手紙の中に次のような言葉がありました。

 「私は脳の中の暗い小部屋から外に出たがっている者たちの幽かな羽音にいつも駆り立てられて創作を続けます。生まれる前から私と共にいる、その者たちは、私といっしょに死にます。その前に外にだしてやりたいのです。」

 僕の言葉はなんの役にもたたないのだけれど、きっと同じように外に出たがっているのだろうと思います。そして言葉を外に出すことで閉じられていた窓を開けることになるのです。
 鬱々とした暗がりのなかに明かりが射し込み、澱んでいた空気が入れ替わるのです。
 降りしきる銀杏の葉のように言葉は無為に散って行くのかもしれないのだけれど、誰かが、それを踏んだ時に崩れる微かな音に、雨に濡れた歩道に張り付いて彩りをそえている事に気づいてくれることがあれば十分です。それは僕の言葉でなくてもいいのです。誰かが僕に与えてくれた言葉でもあるのですから。

 熱と頭痛のなかでこんな夢を見ました。

 あなたは誰?
 僕は・・・。
 どこからきたの?
 昨日のほうから来て、今ここにいます。
 どこへ行きたいの?
 できれば明日のある方へ行きたいのだけれど、どうも道がわからなくて。
 道がわからないのは道があるからでしょう?道がなければ迷いはしないわ。どこを歩いても道になるのだから。道が分らないと言うことは、本当は選びたい道が決まっているの。ただ決心できずにいるだけだわ。私は昨日のほうからきて、今より先に進むことはできない。でもあなたは違うでしょう?あなたは迷うことができる。だから生きてもっと苦しんで、もっと悲しんで、そしてもっと美しいものを見つけてきて。約束ね。

 それは夢だったのか、幻聴だったかの区別がつかないほど短い時間のことでした。気づいたらそんな言葉が音として僕の記憶に残っていたのです。

 君は今年の交通事故の死者数と自殺者の数がほぼ同じなのを知っていますか。
 「昨日の交通事故死」は掲示されるのに、なぜ「昨日の自殺者」は知らされないのでしょう。連鎖を生むからですか。交通事故は抑止される可能性があるからですか。
 僕は自殺は止められると思っているんですよ。その人に窓の開け方さえ気づかせてあげることが出来れば。
 解決なんて必要がないのです。解消することができればいい。その方法はいくつもあります。ただ密室のなかにいるとそこがすべてだという毒に侵されてしまうのです。

 「言の葉の」という題で何か書いてくださいという依頼をある方から受けました。
 散るに悲しき言の葉のあまりてある思い、片言の字足らずでしか伝えられないものもあるのだと、そう感じながら書きはじめようかと思っています。
 小説家の結城信一さんがつぎのような歌を色紙に残してくれました。

 「一字ずついのち刻みて秋の暮」

 部屋の壁に掛けられたその言葉を眺めているうちに、僕の見ている景色は、もう冬になっていました。


 
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テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

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No title

otosimonoさんの記事は
いつも本当に刺激的です。
なんの役にも立たない文章というのは
たしかに巷間にあふれているけど
otosimonoさんの文章には
たましいの震えるような旋律があり
読むものの心をやさしく、つよく、ゆさぶってくださいます。
それでいてなんとも穏やかな文体なので
読んでいるだけでここちよいです。
久しぶりに読めてよかったです。
右手、お大事になさってください。

そうそう、いま、山梔を読み始めました。
以前紹介されてましたよね。
暇もあまりないので少しづつですが。
小笠原和幸も読みました。彼は「ヤバい」ですね。

偕誠様

 ありがとうございます。
 お褒め頂くにしては過分すぎる気がして非常に恐縮です。
 僕には取り柄というものがないので地味に言葉を積み上げて行くしかないようです。
 詩を書かれる方々を羨ましいと思います。少ない言葉で感情を織り込んでゆけることを時に妬ましく眺めることがあります。
 僕はどうも口数が多いので。

> そうそう、いま、山梔を読み始めました。
> 暇もあまりないので少しづつですが。

 山梔を少女小説に混ぜてしまうのはどうかと思いますが、そこには少女の眼差しがあることは事実です。少し冷やかではありますが。
 読書は書き手が書く速さと同じ速度で、というのが理想だと言われていますね。一気呵成に早く読み切るよりも、時間がかかってもゆっくりと読了するほうが寧ろ好ましいと言えます。
 「本も口も気が向いた時に開くものです。無理にひろげることはありません。」
 石垣りんさんにそう諭された記憶があります。

> 小笠原和幸も読みました。彼は「ヤバい」ですね。

 小笠原和幸は毒ですよ・・・。
 廃材置き場で遊ぶこどもたちの危うさがあります。大人なぶんだけもっと怪しくて危ないかも。
 
 間が空いてしまったので、偕誠さんのブログを毎日少しずつ遡って読ませていただいております。そして、やはり羨ましいと思ってしまうのです。
 
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