佐香厚子「片寄波」

…この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人びとにはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料(ねた)不足を託つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお挑え向きの、したがって高みの見物席の弥次馬諸公にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因(もと)になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない智恵をずいぶん絞った。…

 という書出しで始まる井上ひさしの「吉里吉里人」。
 この吉里吉里という地名は岩手県上閉伊郡大槌町に実際にあります。
 小説のなかでは独立国を目指した吉里吉里ですが、ここには世界でも珍しい海岸があります(ありました、と書いた方が良いのか迷っています)。
 波板海岸という寄せる波だけで返す波がない海岸です。
 この波は「片寄波」と呼ばれ、その原因については、砂が細かいために寄せている間に吸い込まれてしまい、視覚的には返す波がないように見えるのだと言われています。
 僕がこの「片寄波」のことを知ったのは昭和59年の初夏のことでした。
 その夏が暑かったのかどうかを思い出すことはできませんが、その存在を知り、三陸へ向かったことは確かです。
 僕にこれを教えてくれたのが、昭和59年6月に発売されたプチコミック7月号に掲載されていた佐香厚子さんの「片寄波」と言う作品でした。

 片寄波ー佐香厚子 プチコミックS59-7

 
 主人公の窪川元美は大手広告代理店に勤めるOL。優秀で美人、ガードが堅いと言われる彼女。しかしその家庭は複雑で、元美が幼い頃、母親は弟だけをつれて愛人のもとへ去り、以後、厳格な父親の手によって育てられます。
…おまえにはしあわせになってもらいたい。あの女のような生き方だけはしてほしくない。…
 その父の願いの裏側で元美は同じ会社の上司である倉沢隆と不倫関係にありました。
 ある晩、六本木のバーで倉沢と待ち合わせてた元美は松崎史也というフリーライターに出会います。
 松崎は倉沢の背任問題のスクープを追いつづけ、その情報原のひとつとして元美に近づいたのですが、次第に彼女に惹かれて行きます。
 物語は、元美の妊娠、堕胎と倉沢の妻の出産を経ていくことで、倉沢の嘘が見えてくることになります。そして、ついに倉沢と別の愛人関係にあった女性からのリークで倉沢は失脚します。

 この物語、単純な不倫物と片付けられない要素が多く見られます。
 父親の母に対する確執と不作為による復讐。
 離婚が成立しないことで法的に不存在となる弟。
 自分だけを置いて出て行った母に対する憎しみと、捨てきれない母への愛情。
 それらを繋いでいる「片寄波」です。

 波というものが起きる原因としては様々なものがあり、「これです」と限定できるものではありません。
 地震や海底火山もありますし、台風によるものもあります。けれどその元をたどって行けば地球自体の動き(自転、引力)とそれによる風の影響と見ても差し障りはないでしょう。
 その地球によって生み出される波。
 普通は寄せて返すを繰り返しますが、ここでテーマに選ばれているのは「返らない波」なのです。見返りのない波とも言えます。
 それは自分の見えないところで生まれ寄せられてくる感情のように受け取れ、そしてまた、遥か遠くから絶え間なく注がれる愛情とも。
 ここでは愛情の余韻を感じさせる終わり方で描かれています。

 現在、波板海岸は3.11の震災の影響で地盤が沈下し、その性質が多少変わってしまったような話を聞きました。自分でも確かめてみたいとは思うのですが、僕が初めて見た打ち寄せるだけの波の不思議さを失いたくないという思いもあり訪ねられずにいます。
 絶えることなく寄せてくる波は、ただ砂に吸い込まれ、それ自体が無力であるかのようにも感じられますが、確かな海の息吹は存在していました。
 僕はその波を見た時、「神様みたいだ」と思ったのです。
 特定の信仰をもたない僕がそんなことを感じたことが自分で可笑しくて、少しだけ笑ったのを覚えています。

 

 

 
 
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