フラスコの休息

 好く晴れた日の昼下がり。陽射しも風も優しく、雑踏の音さえ心地よい感じがしてきます。そんな午後のひと時、階段下に置かれたベンチに腰を掛けて通り過ぎる人を見ていると、自分という存在が既に失われてしまっているかの感を受けます。
 往来の人々は風雨に色あせたベンチに座る身窄らしい男のことなどに注意を注ぎません。少しも気づいてはいないのです。人々は皆、自分のことで忙しすぎるので、取るに足りない風景の一つとなってしまっている男に目が留まるはずはないのです。彼等の眼にはいつもそこにある空のベンチが映っているのです。きっと往来を見送っている内気な霊はこういう風なものなのだろうと想像したりして。
 今日の僕にとってはただ穏やかな午後という時間だけがあります。これが最後の時間かもしれないなと、そして、こんな時間の中で終わるほうが良いのだろうとも思えます。
 ここで僕が大きな咳払いをするか、奇行にでもでれば少しは関心を引くのでしょう。誰も僕自身には関心をもちはしないので、つまらない行動で示すしかないのです。そんなことでしか自分の存在をアピールできないことを改めて思っていると、僕の生きてきた時間すべてが「そんなこと」で埋め尽くされていたような気がします。
 先日、手術を受けました。僕としては3回目の、同一疾病では2回目ということなります。麻酔から覚めるのと鈍痛が戻ってくるのとほぼ同時なのでしょうが、自分では目が覚めたことのほうが早く感じられ、それだけ感覚が鈍っていた証拠なのでしょう。
 「麻酔をしますね。体の力を抜いてゆったりとしてください。聴きたい音楽があれば言ってください。」
 そう医師の声がし、手術室にはパッヘルベルのカノンが流れていたことまでは覚えています。次に目を開けた時には薄暗い個室にいて、酸素マスクが当てられ、左腕には点滴がされていました。右側には心拍数と血圧でしょうか、デジタルの数字と波形の線がピッピッピッという耳障りな音とともに流れていました。尿道にも管が入っていたのですがその時には気づきませんでした。
 手術自体の危険度は低く、大したものではなかったのですが、看護師によればそれでも5時間ほどかかったようです。それが標準であるのか、予想外であったのかはわかりません。特に尋ねるほど関心はありませんでしたので。
 麻酔の効果が徐々に薄れることで感じる痛みは、まだ自分が生きている確証になります。リストカットと何の違いもない現象です。生の存在を見つけること、動いている心臓を確認することで得る安心というものは苦痛と切り離せないものなのかもしれません。生きている実感というものは夢心地の幸福よりも、耐えきれない苦痛のなかでのほうが感じられるものなのでしょう。
 漱石は病床からみる世間を硝子戸の中と呼びましたが、僕にはそれほど複雑なものがありませんので、外側よりも内側の不便さを嘆くのがせいぜいで、言うなればフラスコの中くらいなものでしょう。
 今回の手術で自分が死ぬとは思ってはいませんでしたが、それでも事故は避けられませんので、その前にどうしても二人の友人のことを書いておきたかったのです。
 柏木さんと粕谷君のことです。このふたりが特別だということではないのですが、書いておかないと後悔するような気がしたのです。もっとも万が一、死亡していたとして、その後の自分が感情を持ち合わせているのかは甚だ疑問ではあります。漫画や小説のように浮遊して何かを訴えるというような情景が僕にはどうしても描きだせません。ですから、死後の後悔というより、死を前提とした後悔ということなりますでしょうか。言葉が矛盾し始めているけれど。
 そういうわけで今日はほんの少しだけ風に当たってみました。術後、まだ本調子というわけではありませんが、そうそう休養を取っては居られません。最低限の生活行動をとらないと社会的に迷惑をかけますし、個人的にも怠惰に陥ります。体を慣らしていかないといけません。
 そうして、ちょっとだけ疲れて取る休息のうちに、自分の存在と不存在を想像させる一瞬をみつけたりするのです。それもきっと幸せのうちなのでしょう。






 
 
 
 
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