或る友人の話

 粕谷裕幸。
 彼はほんとうに無口な質だった。半日一緒にいてもまったく彼の声を聞いた覚えがないというのが大袈裟ではないくらい寡黙を形にしたような男だった。
 話をする時には真っ直ぐに相手の眉間に視点を合わせて向き合い、すべての意識を話すことに向けるかのように動作を止め、無駄口の多い僕と違ってゆっくりと言葉を取り出すように話した。
 親友という仲ではないし、友達というにも距離は遠かったと思う。しかし単なる知り合いと片付けてしまうほど軽くもない、ちょっと不思議な立ち位置にいた。
 彼は僕が大学時代に通った喫茶店のウェイターをしていた。僕はそこの常連というわけではなかったがジャズとクラシックに拘ったその店はレコードの数が半端無く揃っておりリクエストでかけてもらうことができた。当時、ボロアパートに音響機器を持っていなかった僕が唯一聴きたい曲を選べる場所だった。
 今から思えばあの店も変わってはいた。喫茶店なのに終日禁煙。煙草を吸いたい客はドア外に置かれたベンチで喫煙をするために出なければならない。そこにはマスターの喫茶の香りに対する固執があった。
 「うちは音楽と香りの店だから」というのが口癖。
 店内には6台の4人掛けの丸い木製テーブルが置かれ、テーブル中央にはプラスティックホルダーに挟まれた手描きによるアルバムリストがあった。マスターの一押し(お気に入り)は赤ペンで記されており、欄外には、レコードの持ち込み可と追記されている。
 そして最も変わっていた点は「店内では声を押さえて会話をしてください」という但書があったこと。これに反すると店外に出されることも実際にあった。つまりどこまでいっても「音楽と香り」のための店だったのだ。
 そんな店だったから粕谷君にも勤まっていたのかもしれない。
 そして土日休業。
 気が向いた週末の夜には、マスターが店奥のアップライトピアノでレパートリーを披露した。そのピアノのよこでウッドベースを弾くのも粕谷君の役割のひとつだった。
 ライブはいつも唐突にはじまった。誰に聴かせるためではなく、閉店の少し前にCLOSEの札をかけるのが始まりの合図で、1曲で終わることもあれば、深夜まで続くこともあった。粕谷君によれば客の有無にかかわらなかったようだ。曲目の紹介もなければ挨拶もない。ただ曲が流れるだけのライブ。拍手は不要。客は居ても良いし帰るのも自由。マスターの気が済んだら終演。打ち合わせもなくマスターが次々に繰り出す曲に粕谷君は戸惑いもせず見事に合わせた。
 その彼から恋の悩みを打ち明けられた時には、思わず「粕谷君、具合でも悪いの?」と真剣に聞き返してしまった。
 彼には妹がいた。といっても実の妹ではなく、彼の母親の失踪した親戚のこどもであったらしい。巡り巡って彼の両親が養女としてあずかることになった。幼い頃には遊んだ記憶もあるし写真も残っている。しかしすべては8年前の出来事で、再会した女の子は13歳になっていた。
 彼の妹として同居することになって2年半が過ぎた。最初はお客様だった少女は次第に彼にとって特別なものとなり、その好意は少女にも伝わって行った。
 しかし、妹なのだという意識が彼の恋心を罪悪に落としていき、彼を更に無口にした。顔を合わせるのも苦しく、同じ家で逃げるようにして生活するほかはないのだと言った。
 何も起きてはならない。どうにもならない未来なのだという気持ちが彼の口から溢れだした。
 民法第734条では「直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」と定めているが、彼女は姪にあたるらしいからこの限りではない。法律上は何の問題もないことは、法学部の学生である彼も承知していた。
 彼の思いを堰き止めていたのは信頼の一語であったのだ。
 血は繋がっていなくても妹として引き取られて来た少女に対してそれ以上の感情を向けてはいけないという、彼の戒律であった。
 粕谷君は「これは相談ではない。ただ聞いてくれさえすればいい」と言った。それは懺悔に近いものだったろうと思う。
 僕には想像もできない苦しみで、いくら推測してもその痛みをとらえることは不可能だ。
 翌日、僕は「打ち合わせ」と称して彼の実家を訪れた。ヴァイオリンとウッドベースによるジャズの練習というのが表向きで、妹に会って欲しいという彼の頼みが真であった。
 手作りのクッキーとお茶を運んできた彼女は僕たちの練習にじっと耳を傾けていた。僕はあまり注視するのも憚られるので気を紛らすふりをして彼女に目を向けた。
 そこにはキラキラとした目で、兄である粕谷君だけを追っている少女の姿が確かに映った。
 彼女は恐らく知らなかったと思う。彼が用意して来た楽譜は丁寧に写譜された"I will say goodbye"であったことに。
 僕たちは、いや、粕谷君はその曲を何度も繰り返した。
 そして、しばらくして後、彼は大学の近くの下宿屋に引っ越した。大学を卒業した彼はオーストラリアに職を求めた。以後の消息は知らない。しかし一昨年に職を辞して帰国したという彼は、どこでどう知ったのか僕に連絡をよこした。3か月ほど前のことだ。
 「僕の秘密を知っている唯一の人間に、僕がどう生きたのかを少しばかり伝えたくなっただけさ」と笑った。
 妹さんはどうしているのかとは尋ねなかった。
 寡黙と誠実とを守り抜いた粕谷君が癌で亡くなったのはつい先日のこと。葬儀にはいかなかった。来ないでくれというのが彼の望みであったから。
 彼はついに結婚というものをしなかった。
 彼の生涯の恋愛はあの少女に向けられていたのだ。
 ひとつの恋愛はその肉体の滅びと殉死するのであろうか。それとも思いは留まる人のどこかに残っているのだろうか。
 あのソファーに座って兄を目で追っていた少女はその恋をどうしたのだろうか。
 僕には知る由もない。そして、知るべきではない。
 「恋なんてささやかな童話の終りのように閉じてしまう。続きなんてありはしない。」
 ファミレスになってしまったあの店の跡地で彼は最後にそう言った。
 粕谷君は僕の記憶に僅かに残る、ソファーに腰かけて輝く瞳で彼を追っていた少女の姿を今一度思い出させ、そして、そのままにしておきたかったのだろうと思う。



 
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