原田康子「廃園」

 齢を経てからの空想というのは、若いころの空想と異なり熱を帯びていないと思ってしまうのはどうしてでしょう。どこか現実的で、悲観的で、厭世を纏って見えるのは邪推や算段が働きすぎるためなのでしょうか。
 ひとつの可能性、その根拠とも言えないようなわずかな心の引っ掛かりが妄想の連鎖を生み、それがあたかも現実に起こり得るかのように、自分で演出を加えてしまう。そして、それが事実の一端に辿りついた時、驚愕するのは、それらの一切を生み出していたのが日常の空虚さであったことです。
 日常の空虚さとは、自分では感じていない求める心が大きすぎて、現実がそれを埋め合わせることのできない隙間のことですが、人はその空虚さゆえに、時に残酷な悪戯を空想の世界から現実へと、その手管を伸ばしてしまうことがあるのです。暇潰しのような悪戯心が、結果として、自分自身を虚無に近しく荒廃させてしまう危険性があることを顧みずに。

 原田康子の「廃園」は、「夢」から始まります。

 廃園01 (筑摩書房、昭和33年初版)

 …わたしはなにかに追われていて、それが苦しく、声をあげようとして目が醒めた。掌やみぞおちのあたりが、つめたく汗ばんでいた。
 なんの夢をみていたのかしら、いったい。わたしはいつもと同じように、槇田と隣り合わせた寝床に入っていた。そのことがかえって、現実とは思えず、畳や、枕もとのスタンドや、灰皿や水差しが、ふしぎな青さをおびていた。あるいは、青っぽくみえたのは、夢の続きがそこにあったのではなく、未明の仄暗さのせいであったかもしれない。…

 物語は確信の無い妄想が引き金となっていきます。もちろん「確信の無い」と言うのは「事実を押さえていない」ということで、「謂れがない可能性」を指してはいません。
 「事実が無い」だけで「起こりうる可能性」が多分に内包されている人間関係のなかで、主人公が悪戯心で想像から発した演出を楽しむ様から一転して、それが既成事実に向かって行く様子を描いていきます。
 主人公と夫である槇田、槇田の恩人である簑島夫妻、そして、主人公と叔母夫婦の養子である「京太」。それぞれが思惑のなかで変容して輝きを失って行くのです。
 人が憧れるのは、自分が既に失ってしまった若々しさ、瑞々しさが生じさせる痛みであり、それらが湛えている脆過ぎる美しさなのです。
 しかし、それは突如として変質してしまうのです。まるで眠りのなかで見た夢の前半が明るく美しい風景であったはずが、目覚める前には暗い森のなかを鬼に追われているかのように。

 毎日の生活ではいろいろな愚痴や多少の不満は誰しもあるでしょうけれど、だからと言って不幸のうちに自分がいると確信している人はそう多くはないと思います。
 寧ろ、自分が不幸だと嘆けるほど幸福を感じているわけではなく、幸せだと言えるほど自分を騙せない、かつ、孤独だと言えるほど傲慢でもない「普通の人々」が大多数のはずなのです。
 そのあまりにも普通な私たちがちょっとしたことで疎外感を受けることがあります。それはある瞬間から唐突に感じられてしまうのです。たとえば、それまで違和感を感じていなかった周囲の風景や人々が自分とは全く無関係に感じてしまう。そうした隙間に危うい空想が忍び込んでくるのです。

 …空が青く、太陽が燃えているのに、わたしの周囲はふしぎなほどひっそりとしていた。鈍い海鳴りと、遠くの町のざわめきが、かすかにきこえる。それからどこかの家で鳴っているラジオ。あとな何の物音もしないのだ。近所の家々も、誰が何をしているのかひっそりし、私の家も庭も、わたしがいるだけで、やはりひっそりしている。庭があるので、よけい静かなのだろうか。…

 それは「人を知っている」ということについても同じです。
 自分は「その人の何を知っているのか」を不思議に思ったことはありませんか。主人公は夫に対しそんな感情を抱いています。
 
 …しかし彼の仕事は、わたしとは遠い距離にあるものだった。わたしの感じないものを感じ、考えられぬことを考える人。その人の皮膚を知っているということが、ときどきわたしにはひどくふしぎに思われた。…

 人には心の中核をなす自我が必ずあり、それとは別に自我を取り巻いている浮遊する空間があります。それを余裕と呼んだら思い上がりに過ぎず、だからと言って特別な名前がついているものでもない、そんな間があるのです。譬えにとれば家と庭と言えばわかりやすいでしょうか。
 家は人に譲れない自我そのものであり、庭は「情」を生み出す(或いは、植えて行く)場所。愛情や友情、万物に対する執着を含む場所。その庭が生み出すもっとも美しい空想が「愛」というものなのかもしれないのです。

 …愛、愛とわたしは心のなかで呟いていた。いまこの子が他愛なく口にし、かつてはわたしもいく度か捉われた愛、愛とは人間の憧憬や夢想がつくりあげた実体のないもの、生活や官能とは別物の、人の手がこしらえた蜃気楼にすぎない。…

 サルヴァドール・ダリの描いた「ナルシスの変貌」のように、自己の愛は破壊を生み虚無へと移り変わってしまうのでしょう。そこにまた美を見出す口実があったとしても、人は絵画のようには美しくは生きられないものなのです。

 …背中に粗い木の肌がはっきり感じられるのに、わたしは自分の家の庭の、木に凭れているのだとは思えなかった。わたしは何処かに立っていた。この庭ではない何処かの場所、しかも現実の土地にもない荒れた庭に。壊れかけた鉄門、枯れた丈高い雑草、春になっても芽ぶかぬ裸木、その木にわたしは凭れ、木とわたしと霧と風がもつれあって揺れていた。
 それはいつか何処かで見た庭のようだった。簑島家の前庭かもしれない、とわたしはぼんやりと考えた。しかし、あれは違う、あれは石の家だった、霧ではなく雪があった、それに誰かかがいた、わたしはその庭の住人ではなかった。…

 静けさだけが存在する庭。誰のもちものでもなく、誰もいない空間。乾いている心そのものが眼前の廃園であり、自分が身を置く場所。それを刹那的に忘れさせてくれるものに最後は縋るしかないというのであれば、その最後にあるものを「救い」と呼びますか、それとも「諦め」と呼びますか。
 物語は、主人公が虚無のうちに取り込まれるようにして終わりを迎えます。
 人の心を弄び、失ってしまった現実を容易くは修復できないでしょう。もとより起こってしまった事を「戻す」ことは不可能なのですから。

 この小説のなかには、僕が気に入っている美しいフレーズがあります。その一節の響きは春を信じさせてくれる力強さに満ちていると思うのです。

 …しなの木の枝先から滴り落ちる雫が、わたしの頬をぬらした。見上げると裸木の梢はつやつやと光っている。
 季節の微妙な変化に、わたしが軽いときめきを感じるのは、そんなときだった。また、硝子の破片のように薄くなった残雪が、小さな音を立てて崩れるとき、わたしは昏睡からいきなり醒めたような戸惑いをおぼえた。…

 終りが決められている小説とは違って、僕たちの現実はエンディングの「決まり」がありません。
 辛いからこそ、凍りついた大地を解かす春が来るのを夢見ることができるのはないでしょうか。楽天家だと笑われたとしても、そう悪いことではないと思うのです。
 空想の使い方にはいろいろあるのです。かの英雄が言ったように「人は空想から逃れられない」のですから。

 廃園02 原田康子署名




 
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