大原富枝「アブラハムの幕舎」

 …今度、海のあるところに行きましょうか。どう?
 行きたいわ。もう長いこと、本当の海を見てないような気がします。…

 そんなフレーズが突如として頭を過り、部屋のリフォームのために本が詰め込まれたダンボール箱を「あれじゃない、これじゃない」と当たりながら一冊の本を引き出してきました。

 「アブラハムの幕舎」 大原富枝

 アブラハムの幕舎01 (講談社、1981年初版)

 昭和54年12月に発売された「婦人公論」(1月号)に掲載された「千石イエスよ、娘を返せ」の手記を契機として社会的な話題となった「イエスの方舟」事件を題材とした小説です。
 小説の流れとしては教団(聖書学習会)の主催者を中心にしたものではなく、家庭や会社などに身を置くことが出来ない女性を主人公として「なぜその場に足を運んだのか」「何が彼らを集団とならしめたのか」を追っていくスタイルをとっています。
 決してカルト教団を扱ったものではなく、また異端に身を沈める人々を描写したものでもありません。
 これは「人は何を以て漂白となるのか」を主人公の視線を通して、彷徨う「弱者」と呼ばれる人々を描いた小説です。
 
 …七月末の金曜日の午後、田沢衿子は両親の暮らしている小さい町へ行く郊外電車に乗り換えた。電車は空いていた。だらだらと衿もとに流れてくる汗を拭いた。ここまでにもう電車を三つ乗り換えている。
 始発駅の構内にはたくさんのレールが鉛色にぬめりながらぎらぎらと陽を弾いて川のように流れている。ところどころにポイントの瘤をくっつけたまま、集まったり拡散したりして果ては車庫の中に消えている。レールたちは一様に不機嫌におし黙っていた。触れると火傷しそうな熱が眺めているだけで田沢衿子の膚に伝わってくる。彼らの暑熱の痛みをみんな自分に引き受けてしまわなければならない心地がした。…

 この書出しのなかに示されている田沢衿子の心境が物語の全容を覆っています。

 人生とは定員一名の個室電車に乗っているようなものです。あくまでも自分の人生をたった一人で生きているのです。その個室に別人が入り込む余地などないし、有り得ない。しかし、そのレールは複雑に絡み合い、様々な個室電車と並走し、交差し、時にニアミスを繰り返し、或いは、接触し、衝突し、傷つきながら進まざるを得ないのです。
 始発地点も違えば終着地点も異なる電車たちが、ある偶然を介してひとところに集まることがあります。操車場であるか、車庫であるか、ほんの一時でも集まる場を必要とすることがあります。
 たとえば、夫婦、恋人、友人、家庭、学校、会社。そして、それらに馴染めないものも当然に出てきます。そして馴染めないものは、馴染めないもの同士でひとつの集合体を作るのです。それを結びつけているものが「弱さ」と呼ばれる信仰なのです。
 自然に集まった弱者の中に強者は存在しません。その中心にいるものは、すべての弱さを引き受けようとし、その能力をもたない、ただ「受け入れる」という一念しかない更なる弱者なのです。

 …「アブラハムの幕舎」はもう天幕が破れそうになっている。私が無力なのは初めからだ。無力なことはわかっている。無力なものばかりが集まってこの幕舎ができた。…

 何が人を弱者にするのでしょうか。もちろん弱者とは体力的弱者や経済的弱者ではありません。精神的に追い詰められて行く「心の弱者」です。
 その心の弱者の出発点とは何なのか。大原富枝は主人公・田沢衿子が身を寄せている「アブラハムの幕舎」の主催者・相川を通して次のように述べています。

 …秘密というものは人を隔離します。孤独にします。毒を発散するので自家中毒に陥るのです。…

 ここに言う「秘密」とは単なる内緒事ではなく、内に秘めるしかない、誰にも打ち明けることのできない葛藤のことを指しています。耐えることしかできない「弱さ」を指しているのです。
 「耐える」ということは、それが自発的な意思の力であれば「強さ」となりますが、極端に受動的なものとなれば「弱さ」でしかありません。防御ではありえないのです。
 防御とはそのバリヤーの境界面で内と外の圧力が釣り合うか、壁の力が強い場合のみ成立しているのです。かかってくる圧力の全てを跳ね返すことができずに、ただ流れ込まれるままに満たされて行くことは「耐える」とさえ呼ばないのかもしれません。そして、それはいつしか自分の精神に充満して決壊させます。 
 ダムであれば決壊を防ぐために放水するでしょう。その放水という術をもてないものたちが弱者なのです。

 「弱さ」とは「頑なさ」という一面を有しています。その頑迷さの所在が無意識と呼ばれる意識世界にあることも事実なのでしょう。
 無意識とは表層では認識していない自分の意思ではなく、自分でさえ認識できない深層の意思を指しています。弱さとはその無意識に拘束され、その無意識に縛られるがゆえに自分の置かれた心境を外部に吐露できないことを言うのでしょう。
 そして、それらの人々は置かれた環境も原因も異なるのに磁場をつくりあげ引き寄せられるのです。それらの理由は決して重なり合うことはなく、明らかにされることもなく、また集まった当事者たちでさえ理解しあえるものではないのです。それを相川はこう述べます。

 …信仰はわかった、などというものではないでしょう。私もわかりません。パウロが言っているのは大切なのは愛というものだ、ということでしょう。愛は絶えることがない、と言っています。…
 
 小説は聖書の言葉を頼りにするとともに、アンドレイ・タルコフスキーの映画「鏡」を象徴として用いています。映画に登場する「女」の置かれた政治状況、生活環境を巧みに交えながら、主人公とその幕舎の人々の「閉塞」を効果的に描いています。
 更に、主人公を女性として置くことによって「エロス」と「アガペー」という二つの愛の葛藤についても触れていきます。
 肉体の愛である「エロス」は執着を生み、時に怨恨となります。精神の愛である「アガペー」は不変であり、寛容であるのです。
 しかし人は触れることのできない愛のみでは生きて行くことはできません。寧ろ神様ではない以上、真実の愛(アガペー)など知ることはできないのです。だから実感(エロス)を通して愛を知りたがるのです。そこに男と女というふたつの身に分かたれた人間の寂しさ、悲しみ、罪というものがあるのでしょう。
 彷徨うことでしか満たされない「愛」というものも確かに存在しているのです。

 作中には、イザヤ書第二章22節の「汝ら鼻より息のいでいりする人に倚ることをやめよ斯かるものは何ぞかぞふるに足らん」という文言が繰り返し登場します。
 簡略に解するなら「世間一般の人間に依存し関わることをやめなさい。そんな者たちは取るに足りない者たちなのです。あなた方にはもっと拠るべき神という存在があるでしょう」と言っているわけです。
 これを聖書でいうところのヤーウェ神と捉えるか否かは別として、人知を超えたものを信仰することで世間を気にしないことができれば何と幸せなことでしょうか。

 主人公はそれを言葉を変えて次のように言います。

 …いつも他人とはある距離を置いているところに、弱い者の仕合せがあるような気がしていますから。私、孤独はそれほど怖くないのです。人間ほどは ― 人間の方がよっぽど怖いの。…

 この「アブラハムの幕舎」は、化生の身となることで生きる力を得た弱者と、集団となることで変質して行く弱者の姿を通して、それぞれの幸せの形を問いかけているのです。

 最後に、主人公の終章の会話の一節を。

 …でもね、不幸そうに見える仕合せってものもあると思うのよ。幸福そうに見える不仕合せ、ってものも世の中にはたくさんあると思うの。ちがうかしら?…

 アブラハムの幕舎02 (大原富枝署名)




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