川端康成

 紫陽花 
 七夕、笹の葉、千羽鶴。
 織女、牽牛、天の川。
 いずれの言葉で始めても何か書けそうな気がします。
 今日は七夕。
 予報では蒸し暑い一日になりそうです。 
           
 上野公園を過ぎて不忍通りをぐるっと回るように進み、池の端ホテルを越え、もう少し行くと左手に本郷へと向かう小さな坂道があります。森鴎外の「雁」にも登場し、池内淳子主演のテレビドラマの主題歌で有名にもなりました「無縁坂」です。
 僕がこの坂を初めて通ったのは小学校に入る前の事であったでしょう。当時、東大病院に入院していた妹の見舞いに連れられた帰り道。母と姉と共に不忍池、上野広小路へと下ったことを記憶しています。
 東大は大学紛争の名残と新たな争議の最中であったのか、60年安保に関する抗議看板と病院職員の待遇改善を要望する貼り紙などが混在していました。子供の目にはその意味すらわからず物珍しく眺めたものでした。
 東大病院にはいくつかのアーチ状通路がつくられており、そこを通り抜けるようにして入院棟に入ります。その通路の1つに天井画、壁画が描かれていました。漆喰は幾分煤けて、ところどころ経年により剥離していました。しかしながら、天女の絵は鮮やかに観てとれ、薄衣を纏い舞う姿は幻想的で、それゆえに僕にある種の怯えさえ生じさせました。殊に雨の日や曇りの日には、ぼうっと照らし出されたその絵が尚更に恐ろしく見え、走り抜けたものです。
 今なら笑い話になりますが、東大病棟内の階段に置かれたブロンズ像も僕を大層怖がらせました。僕にとって東大病院はそのまま幽霊屋敷のようなものだったのです。唯一、三四郎池を除いては。
 病院棟を野球場の方へと周り、風化した煉瓦塀の階下にある生協の前を行きすぎると木が生い茂った林のようなものが見えてきます。三四郎池はその奥にありました。夏目漱石の「三四郎」ゆかりの池ということで名付けられたと聞いています。僕が亀やタイコウチを初めて捕まえたのもこの池でした。
 また大学構内には銀杏が多く、そのどれもが子供にはひと抱え以上もある立派な木立でした。秋には見事な大粒の黄金色の実がなりました。僕はそのぎんなんを拾って持ちかえり、貴重なおやつにもしました。
 その頃の僕にとって、東大病院はお見舞いの場と同時に、小旅行にも似た場所だったのです。

 こんな思い出話を。

 昭和45年頃なのか、その翌年だったのか、季節も春だったのか、秋であったのかも覚えてはいませんが、陰鬱な病棟から出てひとり銀杏の下で遊んでおりました。
 膝を抱え銀杏の根元にある蟻の巣から幹に沿って続く、その果てもないような飴色の行列を眺めていました。
 すると男性が近づき話かけてきたのです。
 「何を見てるのかな?」
 僕は不意をつかれた戸惑いと恥ずかしさから顔をあげることもせず答えました。
 「アリ、アリを見てる。」
 「蟻ね」と少し言葉を区切った後、「近所の子?お見舞いかな?」
 「妹のお見舞いに来た」と答えて僕は顔を上げました。
 男性は濃いグレーの背広を着ており、白髪混じりのやや乱れたような髪、そして、ぎょろっとした目で僕を見降ろしていました。
 「蟻は面白いかい?」
 「うん。」
 「どこが面白いのかな?」
 「行列をして働いてるとこ。」
 男性は、僕の隣にしゃがみこんで一緒に蟻の行列を覗き込みました。
 「行列はどこまで続くと思うかい?」
 「夜まで、ずっと。木を登り続けて、帰って来ないアリもいるんだよ。死んじゃうまで続いてる。」
 僕は、恐らく男性の質問にどう答えて良いかわからなかったのだろうと思います。本心からの返答であったのか、照れ隠しのようなものであったのか、いずれにしろ曖昧に答えようとしたのです。
 男性は、僕を見て、蟻を眺めて、再び、僕の方を見て言いました。
 「そうかもしれないね。」
 その時、少し離れた先に一台の黒い車、ハイヤーが停まり、若い男性が彼の元へ急ぎ走りきて「先生、お車のご用意ができました」と告げました。
 彼は「わかった」と短く答え、立ち上がると僕に向かってこう言ったのです。
 「蟻は帰ってくるために働いているのかもしれないよ。」
 僕はその意味が全くわからず、その不思議な男性の後ろ姿をただ見送りました。

 その男性が川端康成であることを知ったのは、昭和47年 4月16日の彼の自殺のニュースによってです。
 「蟻は帰ってくるために働いているのかもしれないよ。」
 単純に帰巣をさしたのか、別の意味があったのか、彼の言葉の意味は今も僕にはわかりません。そこに意味などなかったのかもしれません。
 不確かな記憶の中で、一言が色彩を強めていつまでも心に残ることがあります。この一言が僕にとってそのひとつであったことは確かです。

 伊豆の踊子 署名


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