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ピノッキオの鼻

 「はだしのゲン」の閲覧禁止論争を見ていて、僕が子供の頃に社会問題にもなった「ピノキオ事件」を思い出しました。有害図書の論争とともにうっすらと記憶にあったこの問題を、僕が「知識」として扱ったのは事件から10年以上もたった大学の研究論文でのことでした。

 1976年11月、ある人物が「オールカラー版 世界の童話」(小学館)を子供に読み聞かせていたところ、作中にある「びっこのキツネ」「めくらのネコ」という表現に対し「五体満足で利口な主人公を期待される子供像として描いている反面、他の障害を持つキャラクターを社会の落伍者として描いており、差別を拡大助長させる童話であり看過できない」と出版社に抗議しました。
 小学館側はこの抗議を受けて自社から出版していたピノキオを収録した書籍5種のうち4種を「差別的表現があった」と認め自主回収しました(「国際版少年少女世界文学全集」には、指摘を受けた表現は無いという理由で回収しませんでした)。
 この人物はその後、「障害者差別を許さない―まず『ピノキオ』を洗う会」を結成し、小学館に対し①国際版の回収、②回収方法に対する具体策の提示、③自己批判の文章の提出、④自社全出版物の点検と報告を要求しました。しかし小学館側は国際版の回収には応じず団体側と対立。
 その結果、同団体はマスメディアに向けて「ピノキオにおける差別表現撤廃」のアピール行動を展開し、社会問題として提起しました。それらの活動は図書館を相手取り「差別図書に関する啓蒙行動」を起こし、当時、日本で出版されていた11社38種のピノキオの本の閲覧禁止、並びに、出版各社に対し回収を要求しました。

 団体側の主張は概ね次の通りです。

 ≪表現に対する主張≫

 この童話は、一貫して勉強すること・働くこと・親孝行していい子になることがしあわせに通じるのだと教えている。操り人形のピノキオが最後にゼベットじいさんに、親孝行することによって五体満足な人間の子供(いかにも元気でりこうそうな少年)になるというラストシーンはそれを象徴的に現わしている。
 そしてその裏返しとして、親不孝したり、なまけたり、悪いことをしたものは、自らの身体にそれ相当の罰を受けなければならないことが随所にちりばめられている。
 たとえば―
 *親の言うことを聞かない子―足が燃えてしまう(一生いざりで歩かなくては・・・)
 *めくらのねことびっこのきつね―似合いの不幸せ仲間
 *まぬけおとしという名の町―毛の抜けた犬・とさかもなくなったニワトリ・飛ぶことのできぬチョウチョ・しっぽのなくなったクジャク・はずかしそうなこじきやびんぼう人のむれ。
 *嘘をつくと鼻がのびる。
 *ばかさわぎ・きちがいさわぎ・つんぼになってしまいそうな「おもちゃの国」で遊びほうけていると―慈善病院に行くことになる・耳がのびてロバになる―見世物小屋に売られて―ビッコになり―タイコ屋に売られる。
 *嘘をつき悪いことをしたねこときつね―ほんとうのメクラになり、しっぽまでなくす。

 そして、最後の場面で、ピノキオが「あやつり人形だったときのぼくったら、なんておかしなかっこうだったんだろう。でも、いまはいい子になれてうれしくてたまんないや」とつぶやく一方で、めくらの猫の毛がなくなり、おまけにしっぽまでなくなったきつねが「なにかおめぐみくださいませ」ともの乞いしている場面は、まことに対照的な場面である。めくら・びっこは、もともと乞食をするぐらいしか生きていくことのできない不幸せものであり、きつねやねこのように悪事をはたらくと不幸せなものの仲間入りをしなければならないことをまことに「教訓的」に述べているのである。即ち、確かにこの作品は、ピノッキオの冒険を描くことが中心ではあるが、しかし、その冒険を引き立たせるために配された障害者は、すべて因果応報の罰を受けた人生の落伍者としてしか登場していない。

 この作品は明らかに「五体満足にしてりこうな子」本位の思想に貫かれており、障害者差別をしらずしらずのうちに植えつけていくものにほかならない。

 ≪作品の社会的背景に由来する批判≫

 既成の枠を超えて自由かったつに行動するピノッキオの姿はまさに旧秩序の崩壊を示し、一方新秩序に合わぬ行動は次々にチェックされ、やがては親の言うことを聞き、勉強し、まじめに働くことによっていい子になっていく(出世。近代社会の可能性!)ピノッキオの姿にこそ、新しい社会を底辺で支える“よき労働者像”“新たな秩序”を見ることができるのである。
 「働かざるもの食うべからず」「一獲千金を夢みてはいけない」「コツコツ勉強し、働けばやがては五体満足な人間になれる」「怠け者は、ロバになる。こじきやびんぼう人のいるまぬけおとしの住人になる」
 こうした社会の中で、勉強の場からも、労働の場からも締め出された障害者が社会の余計者としてまぬけおとしの町におとされていくのは、まさに必然だったのである。たしかに、コロッディは一方でこうした社会の要請を描きつつも、たとえば「びんぼう人の群れの間を金持ちのだんなの馬車がとおっていきます。のっているのはきつねやどろぼうカササギや肉を食べる鳥なのです」と言ったり、「いい服をきているから紳士なんじゃない。汚れのない服をきてはじめて紳士といえる」とのべて新しい社会が生み出しつつあつた支配階級の実態を指摘しようとしているのも事実である。しかし、そのいずれも指摘するにとどまり、それ以上内容を展開し得ない。

 中心は、あくまで資本への貢献度で測られる資本制社会の肯定であり、貧しさの原因を資本の搾取に求めるのではなく、労働者の「怠け」「不勉強」にもとめる道徳の確立だったのである。…

 同年12月、上記の主張に関して図書館問題研究会が検討を行い、次のような回答をしました。

 ①「図書館の自由」を基に回収措置は言論に対する封殺行為であり許せない。
 ②本作は、弱点を克服し成長する子供の可能性を描いた作品であり、「めくら」「びっこ」という言葉で障害者差別に結びつけるのは拡大解釈で作品の意味を汲んでない。
 ③回収を行えば障害者差別が無くなる道理も無く、「言葉だけで何かを変えよう」という幻想に繋がりかねない。個々の企業に対する脅しが差別の撤廃にはならないし、体制も変わらない。

 加えて「図書館の自由に関する宣言」を改訂し指針として通達します。当時の資料の記述は下記の通りです。

 …図書館の自由の概念として、塩見昇は「基本は図書館利用者(国民あるいは住民、その社会の構成員)の読み、調べ、探索する権利を図書館の機能を通して保障するために図書館が保持しなければならない自由であり、責務である」と述べている。

 図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。

 第1 図書館は資料収集の自由を有する。
 第2 図書館は資料提供の自由を有する。
 第3 図書館は利用者の秘密を守る。
 第4 図書館はすべての検閲に反対する。

 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。…

 この考え方の基本は憲法における基本的人権の「知る自由」に根差しており、それを保障する場として顕現したもののひとつが図書館という存在です。
 図書館は、不特定多数の市民が各々の興味に従って読書し、必要な資料を入手し、全ての資料を自由に利用できるための施設です。そして、その書籍や資料内容の取捨判断は個々に委ねられるべきものであるはずなのです。

 単語表現(言葉)をなくすことが差別をなくすことに直結するわけではありません。それは行き過ぎれば、ジョージ・オーウェンの「一九八四年」にあるような、言葉を抹殺し思考範囲を狭めて行く“ニュースピーク”の誕生を促しかねないかもしれません。
 かといって「言論、表現の自由」を盾にして何もかもを認めるというのでは、表現の濫用による暴挙を野放しにすることになり、到底容認できるはずもありません。そこに良識というものがあっても良いはずです。

 差別を取り除いていくのは、直接に本を手から取り上げることではなく、その内容を善悪や道徳に鑑み取捨選択する見識を与えることなのではないかと思います。外貌からではない内へ目を向けさせること、そのための親であり、教師であり、教育であると思うのです。
 そして今、本当に必要なのはトップダウンによる「教育」という圧力ではなく、受け止める側から発現する「学び」に対する意欲であるのです。社会は知らず知らずに成長して行く毎に「学び」に対する意欲を失わせてはいないでしょうか?僕自身がそうであったように。

 最後に「はだしのゲン」についてですが、僕は「はだしのゲン」の信奉者ではありません。かといってそれを貶める側でもありません。僕自身、あの作品に対しては残虐さ、恐怖、嫌悪を感じます。しかし、それは突き詰めてみれば作品に対してではなく「戦争」というものの表現に対してのものなのです。事実としての戦争は画では描けないくらい悲惨なものであったはずです。それを誰かが伝えねばならなかったのだとしたら、そこには手に取るだけの価値はあると思います。
 
 そして僕はもうひとつ、別のことを思うのです。
 現在の図書館は果たして「自由」を保障しているのでしょうか?

 どうもつまらないことを書きすぎたようです。
 ご不快の念をお掛けしましたら心よりお詫び申し上げます。

 蛇足ですが同年に閲覧規制の検討対象となった作品は「ピノキオ」だけではなく、次のような著作も含まれていました。

 森村誠一「凶水系」(角川書店)…記述内容
 手塚治虫「ブラックジャック」(小学館)…黒人差別

 また「ちびくろサンボ」が出版業界の自主規制によって回収されるのは1988年のことです。




 
 
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