心中の華

 「華講会」という法会があります。
 丁度、今日がその日にあたります。行事としては特に祭祀的なものではなく、いたって内省的な法要です。
 浅草寺の行事紹介では「心中の華を開かしむるの意ともいわれ、過去の罪過を懺悔し、心を清浄にする布薩会」のこととあります。
 「布薩」というのは、新月祭と満月祭の前日に行われた罪を告白懺悔する集まりで、起源はバラモン教の儀式に求められるとの説があります。半月に1回行われるものを略布薩、年に1回行われるものを大布薩(広布薩)と分ける場合もあるようです。
 この「華講会」を、いつ頃、私が聞き知ったのかは記憶にありませんが、「はなこうえ」という響きと「心中の華」という文言の美しさから、頭の片隅においてありました。
 「心中の華」と書くと「此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬ふれば、あだしヶ原の道の霜。一足づつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなれ」と近松門左衛門や人によっては太宰治を類推する場合もあるかもしれませんが、男女の逃避行の末、命を絶つことを意味してはおりませんのでお間違いなく。「しんじゅう」ではなく「しんちゅう」ですので老婆心ながら追述しておきます。
 心の華。この華は蕾と言いましょうか、固く閉じ、その内に様々な「行い」を秘しています。そのひとつが「罪」です。深奥にあるこの華の自己を見つめ開くことによって、自らの罪を告悔、懺悔し、身を清めるとは、とても静謐で美しい譬えです。
 人は自ら能動的積極的にできることと、場を与えられなければできないことというのものが、どうしても存在します。そのひとつが無意識的、或いは、無作為に重ねた罪の贖いでしょう。
 車で帰宅する途中、「緑の牧場から食卓まで」と大きく書かれた養豚場のコンテナと並走していました(豚の立場になれば「揺り籠から墓場まで」ということになりますか)。檻のように三方を太いパイプで囲われ、2階建てになっていました。それぞれの階を3部屋に仕切り、1部屋に5頭ほど、2階は見えませんでしたが、同じくらい積んでいたのでしょう。
 豚たちは、この暑さにダレているのか、それとも元からそうなのかは知りませんが、かなりのんびりとした様子に見受けられました。窮屈そうではありましたけれども。
 勝手な憶測ですが「精肉加工所」へ運ばれるのだろうとそれを眺め、あと数時間の彼らの寿命を想像したりしていました。
 他の動植物の命を犠牲にして食を得ることを罪であるという気持ちはありません。我々からすれば当然の成り行きですから仕方のないことです。しかし、もし私がそのことで罪を問われることがあるとしたなら、それは私が「他の命」を忘れた時でしょう。
 すべてを当然として食し、捨てる。それが命であったことさえもわからず、錬金術的に生み出されたものとして取り扱うなら、それは罪であるのでしょう。
 常に贖罪する、懺悔するなどというのは無理ですし、すぐに習慣的な偽善になり下がります。ですから、年に一回くらいは、為した行為の如何なるものが罪なのか、無意識に重ねたものを、自分がどこかで犯したかもしれない罪を懺悔するというのもおそらく必要なのです。
 無責任な懺悔ですが、「どこかで嫌な思いさせてしまった方々、ごめんなさい」です。
  


 
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