由起しげ子「語らざる人」

 …中井川摩耶子は横浜の小さなアパートに、今もつて誰とも結婚する気配もなく、耳の聞こえなくなった雪枝と二人きりで住んでゐる。
 病院の廊下をコトコト清潔で小刻みな靴音をさせて歩く、この親切だがどこか冷たくて怖いところもある中年の女医から、誰も過ぎ去った物語を想像することはできない。…

 由起しげ子は、当初、作曲家を志し山田耕筰に師事していました。しかし神戸女学院を中退した後は作曲から遠ざかり、画家・伊原宇三郎との結婚と別居などを経て、1945年に「婦人文藝」などで活躍していた神近市子らの薦めもあって文筆家になることを決意。1949年に発表した「本の話」が戦後第一回の芥川賞受賞作となり文壇に本格的に参入しました。
 以後、「コクリコ夫人 」(早川書房、1952年)、「女中ッ子・この道の果に 」(新潮社、1955年)、「語らざる人 」(大日本雄弁会講談社、1955年)、「今日のいのち」 (現代社、1956年)、「若い火 」(河出新書、1956年)、「生きる場所 」(大日本雄弁会講談社、1958年)、「愛のかけら 」(文藝春秋新社、1964年)などを送り出し、1969年12月30日に永眠しました。
 以前ご紹介した素九鬼子「旅の重さ」の原稿が由起しげ子の書斎から発見された事は、その時に述べたとおりです。

 由起しげ子の何が異彩を放っていたのかについては個々人において様々な見解があるでしょう。僕から見れば遠い過去の作品であった「本の話」や、この「語らざる人」が、発表当時の「異質性」とは大きく異なるのは当然です。
 戦争文学が苦手だった僕に、同年代の文芸作品群の中で由起しげ子が感じさせた異質さとは、そこに反社会性やプロレタリアの主張、戦争主体といった匂いがあまりせず、文体も荒々しい力を感じさせるものではなく、むしろ上品すぎる文体であったことでしょう。
 もし彼女が戦争文学やプロレタリア文学をなぞるような作家であったなら、恐らく僕はその作品を手にすることはなかったと思います。
 殺伐とした暴力や行き場のない若さの暴発といった色が希薄だったからこそ、由起しげ子の作品は当時の文壇で伸びることができたのではないでしょうか。ある意味では時流に反した作家であったとも言えると思います。

 語らざる人
 (大日本雄弁会講談社、昭和30年初版)

 冒頭に挙げたのは「語らざる人」の結尾です。
 これを読んだのは高校2年の春のことでした。神田の古本屋の店頭にあったワゴン・セールの中から拾い出した一冊です。内容を良く読みもせず、タイトルと書出しに惹かれて購入を決めたものでした。
 読み始めた当初は「美貌に恵まれた姉と比較される不美人の妹の話」だとばかり思い、やや退屈な感じでいましたが、主人公である中井川摩耶子の変転、恋愛における天と地の落差の大きさ、繰り返される人間不信と最後に掴み得た自分に縋るような信じる心がもたらしたカタストロフィ。そして、それらの過去の出来事をすべて覆い隠す様な結末の一節。それはあの頃の僕には斬新にも映り、物語における結末の一文の重要さを教えてくれたものでした。
 
 どんな人にでも物語はあります。傍からみれば、しごく平凡で面白味のないように見えても、他人からは想像もできないような過去を歩んでいることもあるのです。けれど当人は、それを決してひけらかす様に物語ったりはしないものです。その足跡には口に出すことで嘘になってしまうような、事実であっても誇張と取られてしまうようなものも存在するでしょう。
 人には物語がある。
 当たり前のことなのですが、それを改めて面と向かって突きつけられてみると、不思議な世界への窓に出逢ったような気がするのは僕だけなのでしょうか。

 くどいようですが、人には語りきれないそれぞれのドラマがあります。由起しげ子の「語らざる人」は、そう思いながらゆっくりと読み進めるほどに味が出てくる短篇であると思います。何度も読み返すことが苦にならない秀作です。

 …誰にも話したことはないが、摩耶子はたつた一度だけ、小さな盗みをしたことがある。…

 これが、この物語の始まりです。

 僕が由起しげ子の小説の中に感じるのは、救いを訴える必死さとでもいうのでしょうか。この「語らざる人」においても僕には、神様に手を差し伸べて救済を求める純粋な悲鳴が聞こえるような気がするのです。









 

 
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