紫郷生「女優妙子」

 時にはマイナーな作品を紹介してもいいのかな?と、そんな気持ちで取り上げます。

 女優妙子 (越元東陽堂、明治45年再版)

 紫郷生の「女優妙子」です。
 明治45年1月1日に初版が発行され、その9日後の1月10日で再版されていますので、当時はそこそこ人気のあった小説ではないかと思われます。
 しかし、作者については何もわかりません。「泉」とついておりますし、巻末には泉斜丁の「木遣り」の広告が載っています。そんなところから泉鏡花がらみかとも思われますが全くわかりません。発行所は、越元東陽堂となっています。この書肆も不明です。唯一、特約店の岡村書店だけはわかります。明治末から昭和初期まで両国にあり、実用書を主体に児童書まで幅広く自社で出版販売をしていました。竹久夢路や濱田廣介の本も出しています。けれども、どこからあたってもこの作者には行き着きません。で、調べるのは早々にやめました。

 さて小説のなかみですが、少女が類稀な才能をもって演劇を目指すといった女優誕生の物語ではありません。というか、狭義での「芸能役者」という意味はまったくありません。寧ろ、仮面を被って世を忍ぶといった意味合いで捉えてもらったほうがいいです。
 それから、このタイトルに「女優」とありますが、明治末とはいえこの言葉はそれほどポピュラーには使われていなかったようです。女性の役者は文字通り「女役者」とか、「女芸人」などと呼ばれるほうが馴染みがありました。明治の小説においても「女優」という言葉はあまり使われていませんね。
 この「女優妙子」から遡ること20年ほど前に、森鴎外が「舞姫」の中で使っているのが僕が読んだ中では一番古いものです。これについては自信がなかったので国文研究をしている知人にヘルプのメールを送ったところ次のような返信がありました。
 「女優というと言葉の起源はわかりません。いつ、だれが、どこで最初に使ったのかも不明です。ただご指摘の通り鴎外の舞姫で使われているのは事実で、これが最も古い小説中での使用だという研究者もいるようです。ただしこれが鴎外の造語である確証は全くありません。当時、一般的ではなかったかもしれませんが、一部の業界用語などで使われていた可能性の方が高いと思われます。明治時代としては耳に新しい言葉であったことは確かです。」
 ということで、インパクトのある流行り言葉としてタイトル付けに「女優」という言葉が使われたのでしょう。この物語中でも「女優」とは呼ばれていません。「女俳優」(ルビは「おんなやくしゃ」)とされています。従って「じょゆう妙子」ではなく「おんなやくしゃ妙子」なのかもしれません。

 物語は満開の堤、隅田の向島から始まります(子供の頃に親しんだ場所なので、この舞台設定だけで僕は個人的に愛着がわきます)。 

 …桃が散る、櫻が咲く、春の向島は霞に煙って、隅田の流れに花の筏が浮かぶ、弥生も既に末近い夜の十時といふに、小松島の岸から䌫(もやい)を解いて、ゆるく下流に漕ぐ一艘の猪牙船があった。
 満都の人は櫻に狂ふ、晝の墨堤は花の山だが、夜に入るとげつそり淋しくなる、撞きだす金龍山の鐘に逐われて、向ふ鉢巻、脱いだ肌の勇しさ、上流に客を送つた流し船とあつて、舷を噛む水の音も自然に涼しい。…

 こんな感じの講談調のリズムで書き出されて登場するのは序盤の中心人物となる「船頭の興三吉」です。
 この興三吉、吾妻橋の手前を折れて向島に入る隅田川の支流にかかる枕橋付近で「お客様」(若い女性)が川に浮いているのを拾いあげます(当時、船頭の隠語で溺死者を「お客様」と呼んだようです)。この娘が「妙子」でした。この妙子は駿河台にある名家「豊原家」の息女。何のわけがあってか隅田川に身投げをしたわけです。しかし掬い上げられた妙子は運よく蘇生して、この後、月島の興三吉夫婦の家にやっかいになります。
 一方、豊原家では身投げ騒動が沸き起こり八方くまなく手を尽くして捜索にあたります。しかも曰く付き。というのもちょうど一年前の同じ日に、妙子の姉である豊原家次女「眞留子」が相思相愛であった華族・橘家の勝彦との破談から心身を病み、小指を食いちぎって文をしたためた後、発狂して失踪。櫻をひと枝手折り、胸に破談となった相手の勝彦の写真を抱きしめて、同じ隅田川で身投げをしております。ですのでこれも祟りか、因果な病かと騒がれます。このふたつの自殺騒動を巡って物語はややミステリータッチに展開して行きます。

 物語前半は非常にリズミカルに生き生きとした言葉づかいで綴られ読むにも楽しいですが、後半は話が重くなることもありやや言葉のリズムに精彩を欠いた感じを受けます。
 話は最初から最後まで一点に絞られ、余分な伏線もなければ、話を攪乱するような余計な人物も登場しません。従って、わかりやすい。これが大事なところですね。下手に文学的になる必要はなく、純粋に講談や音曲を楽しむように書かれた作品として、大衆を喜ばせるには充分だったと言えます。
 この話のネタばれになりますが、すべては豊原家の秘書長であり、長女「志津子」の夫・富塚の陰謀であった、となります。恋愛と陰謀。これも当時必須の人気材料ではありました。

 …豊原家に発狂の遺伝がある訳で無い、それを態々あるように見せかけて、四角四面の鶴見(立花家秘書長)を動かしたのは、全く浅猿(あさま)しい横恋慕の為である、勝彦と眞留子との婚約を破談させて、眞留子が失恋の人となつた隙を利用し、巧みにこれを籠絡して、卑しい欲望の満足を得やふといふ総てが奴隷的根性から出た一個の狂言である。…

 発端は、長女・志津子の夫である富塚の横恋慕です。そして、妙子はそれを眞留子の自殺前に看破しますが、家のことや志津子の身の上を考えると公表することもできず、ひとり胸を痛めます。そして更に妙子も「勝彦を愛してゐた」というところに突き当たり、物語冒頭の自殺未遂をするという理由づけになっています。 

 この本には口絵が一枚ついています。
 豊原家の園遊会で密談を交わす富塚と鶴見。それを偶然通りがかった妙子が聞いてしまう場面です。

 女優妙子口絵 (女優妙子・口絵)

 明治という時代、人は人ではなく、家が人であり、意思は個人になく家長のみが意思でありました。その背景からすると相思相愛で結ばれるというのは極めて稀で、その稀な幸福が目の前で破れた眞留子の心痛。志津子の身の上を守るために沈黙を決めた妙子。その結果が眞留子の自殺を引き起こします。
 物語では更に妙子自身の恋心が加わり、自身の罪と行く末に絶望し自殺を図ります。そこを興三吉以下温情ある人々に命を救われ、尼僧になることを胸に秘めます。
 登場する女性は、あくまでも受け身であることが運命であるかのような明治女性の典型ですが、ラストはそれに一石を投じる形になります。
 その前に、父・豊原嘉造を見てみます。
 作中では、終始一貫して豊原嘉造の明治の家長らしい毅然とした大実業家、顔役としての姿、事件に対しては沈黙を守る姿がクールに描かれています。
 例えば眞留子の葬儀の場で仏前に勝彦の写真を掲げるのですがその理由は次の通りです。

 …今日権門に媚び、位階に追従して、頻りに機嫌は取つて居ても、明日になると仇敵もただならぬ間柄となるのぢゃ、結婚の如きもまた其れで一旦結むだ約束に対して、あくまでも之を守るのが武士道ぢゃに、当世は約束を捨つること弊履の如く、嫁取りを猫児の遣り取りの如く心得て居る、これが滔々として世に拡まりつつある悪風ぢゃ、…中略…、あの写真を仏前に飾つたのは、一に眞留子の霊魂を慰め、譬え橘家が如何にあらうとも、豊原の家だけは約束の精神を守る、形式上の約束は破棄されたが、その精神だけは保留するといふ考へで、殊更に俺が仏前に飾っておいた…

 理にかなった武士道ではありませんか。明治という時代と共に捨てさられて行く古の精神を貫こうとする姿勢と虚栄のない沈黙。真実を黙して語らず。じっと時を待つ。言い訳をすることに慣れきった僕には耳に痛い教訓です。

 結末としては大団円には至りません。むしろ気骨を秘めた悲劇とも言えます。

 …強いて尼になるといふを諭め賺して、暫く小松島に遊ばせておいたが、四五日経つと嘉造が別荘を訪れて、蘇生(いきかへ)つた妙子の手を握つた、富塚の罪を一時の出来心と見て俺も忘れるから汝(おまえ)も諦めてく呉れ、いづれは心の直る時期もあるであらうが、断じて富塚には相続させぬ、豊原家の財産は自然の消滅に任せて、俺は飽く迄も汝を保護するよ、虚栄(ほこり)の恋の絆を絶って習ふた芸が世渡りの女俳優(おんなやくしゃ)、これから外国へ修行に往け…

 最後の嘉造の言葉が重く響きます。

 …「俺も働けるだけ働いて死ぬから、汝も踊れるだけ踊って死ね!」…

 人生を踊り続けるには、足の痛みに耐え、厳しい日常に堪えることでしか為せないのです。代償もなく優雅さのみを保つことなど不可能なのです。
 今からするとありふれた題材で面白味もなく、完全に忘れ去られた小説ですが、誤字脱字や改行などの改訂をして、再話をすれば結構楽しめるものになるのではないかと思います(もとのままでも頭の古い僕には楽しめましたけど…)。

 ちなみに物語の書き出しにある「金龍山の鐘」は浅草寺(金龍山浅草寺)の鐘のことです。

 向島・枕橋 (枕橋付近・大正初め)



 
 


 

 
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