柴田翔「鳥の影」

 鮮やかに太陽が照りつけ、その光が地表で反射する。
 立ち止まって見まわす景色はどことなく懐かしく、また見知らぬものでもある。
 そこにいる時には、風景というものは不変であると思い込んでいた。
 街並みも校舎も道路も、人ですら。
 しかし、それは幻想と甘えに過ぎず、風景は何かの拍子に一変してしまう。
 歳月と言ってしまえば簡略にすぎる。
 思い出の場所とは、不確かな記憶と新たなる不安の確認でしかないのかもしれない。
 通いなれた場所の面影は留めるものの、そこに通いなれた場所はもうない。
 途方に暮れて視線を落とす。
 地面を影が過る。
 ― 鳥 ― 。
 慌てて見上げるが既に姿はない。
 ただ影が過ったと言う何か言い知れぬ不安のようなものだけが残った。

 この小説を読み終わった時、そんなしこりのようなものを僕は感じました。

 鳥の影 (筑摩書房、昭和46年初版)

 「鳥の影」 柴田 翔

 「ここがお父さんの学校だよ」
 「ふうん」
 裕太は歩きながら、あたりの植え込みや校舎を見まわした。
 「広いなあ。ここ、ライオンや怪獣いる?」
 「いるさあ。お父さんたちは、ゴジラやマンモスとよく格闘したんだぞ。」
 「嘘だあ」
 裕太は、そう言いながら、つないでいる則雄の手を、力一杯振った。だが、則雄は、手だけはそれに合わせて振りながら、過去の記憶への急激な斜面を滑り落ちて行った。
 あの生徒集会所 ― 。あそこで彼らは、本当に怪獣たちと格闘したのではなかったろうか。…

 東京大学の名誉教授でもあり、「されど われらが日々」で芥川賞を受賞した柴田翔に「鳥の影」という短篇小説があります。
 かつての師・潮田の古稀祝賀会に出席するために、妻と子を連れて母校を訪れるところからこの話は始まります。
 「かつての師」とは言っても主人公にとっては単なる「つまらない国語の教師」であり恩義と言えるものも感じてはいません。彼の記憶に残っているのは潮田が珍しく授業から離れて譫言のように呟いた次の言葉でした。

 …人間は馬鹿なことをすることがある、が、その馬鹿なことのなかに人生はあるのだ…

 主人公はそう呟く潮田の目のなかに暗い挑発めいた光を見出します。それが彼の師に対する唯一とも言える記憶でした。
 主人公は大學卒業後、一流企業に就職し同期のトップを切って課長代理に昇進し、社内でも有望なエリートの存在です。社内での昇進、社会的地位を確実に手に入れるためには寸暇を惜んで仕事に打ち込み、その多忙の中に誇りと人生の充実を感じていました。その彼が一度は辞退した恩師ともいえぬ潮田の祝賀会に出席をしようと当日に思い立ったのは、家族サービスと表面上の義理を同時に果たすためだったのです。
 彼のその時点での生活は晴天のもとにあり、光は栄誉をたたえるように辺りを照らし、陰はその反射物として合理的に存在するものであり、得体の知れない翳りなど一点もなかったのです。
 彼が出席した祝賀会の席で主賓である潮田が会の礼を述べるために壇上に立ったとき、突如、苦しみに歪み倒れます。主人公は、それまで諦観の相でしょんぼりとしていた潮田の苦悶への豹変に「老いによってなおさら深く隠されていた奇怪な執念」の突発的な噴出を見出します。それは彼に「自分の足もとが不意に揺らぐような不安」を植え付けたのです。

 小説は、模範的企業人たる生活を送る者に押さえつけられていた情念が突如として規律的であった精神を浸食し、その結果、瞬時にして転落する様を描いています。主人公を取り巻く環境は、潮田の「人間は馬鹿なことをすることがある、が、その馬鹿なことのなかに人生はある」と言う言葉に帰結して行くのです。

 社会で生きて行くことは言葉では尽きせぬほどの苦痛と苛酷とを押し付けてきます。生活を守るためには、生き残るためにはそれに耐えなければならないし、あらゆるものに気を許すことなどできないのです。
 大企業であればあるほど仕事は職人芸であってはならないし、如何に優秀な人材がいたとしてもその欠損は常に瞬時に補われるものであるからです。
 つまり、仕事や会社が自分を必要としているというのは甚だしい思い上がりであり、自分が一方的にそれを必要としているというのが実態なのです。そしてそのことは表面には現れない不安を精神に繁殖させ、何かを契機として、自己の規律が抑圧し続けてきた情念に首を搔かれる瞬間が起こるのです。
 「出来心」或いは「魔がさした」という事件は、日々、新聞紙面やワイドショー、ネットを賑わしています。三面記事的なこの「転落」と言う簡単なふた文字のなかには、本人自身でも推し測れない複雑な心情と病巣が含まれているのです。

 …突然、隣に坐っていた裕太が、身を弾ませるようにして、外を見ると、
 「あっ、鳥だ」
 と叫んだ。
 その声に宏子も外を見た。しかし、鳥の姿は見えず、午後の汚れた光線に照らされてそこにあるのは、ただ埃りと排気ガスのなかに、びっしりと何重にも列をつくって、ひしめきあいながらのろのろと動いてゆく、いつもながらの東京の往還ばかりであった。…

 この小説のラスト・シーンは妙に生々しい実感を僕に与えました。ひょっとすると僕もこうなるかもしれない。それは何一つ特殊なことではない、誰にでも起こり得る可能性だからです。
 
 鳥の影 識語・署名  識語「春、窓、風」、署名


 
 
 
 
 
 
 
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