窪川稲子「素足の娘」 ~ 劇場版「花咲くいろは」を観た夜に

 劇場版「花咲くいろは」を観て、昔のことをひとつ書いておきたいと思いました。

 「お兄ちゃん、つらそうだね」
 そのお婆さんは、自力で起きることもできない僕の顔を覗き込んで言った。薄眼をあけた僕はフォギーフィルターを通したようなぼんやりとした彼女の顔を見て「大丈夫ですよ」とだけ答えて目をつぶった。

 16歳の冬、僕は学校から帰宅するなり自分の部屋で倒れそのまま意識を失った。数週間前から体調は怪しかったのだが、ちょっとした疲れがたまっているのだろうくらいにしか思ってはいなかったし、食べたものを吐くのはストレスからくるもので僕にとってさして特別なことではなかった。
 だがこの日は違っていて歩行することも困難で、よく自宅に帰りつけたものだと思う。一歩ごとに眼前が歪み、嘔吐感と怠さから何度も路上に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
 結果、当時の国立習志野病院に救急搬送され、気づいた時には診察用ベッドに寝かされていた。なんのことはない単なる肝炎だったのだ。しかし医者は極めて固い口調で僕を叱りつけた。
 「こんなになるまで放っておいたら苦しいにきまってるだろが!まったく手遅れになったらどうするんだ。やせ我慢もほどほどにしろ。」
 とても医者とは思えない口調だった。しかし僕にはそれを不愉快に思う余裕はなく、ただ耳鳴りの向こうの音のようだったのを覚えている。
 「ああ、君、ベッド用意して。入院だよ、入院。どこでもいいから空いてるところにすぐ入れて!」
 そして僕は3日間だけ女性病棟に置かれることになった。

 入院当日はもちろんのこと、2日経っても変化のあろうはずはなく自力では体を起こすことも、食事を摂ることもできなかったし、口に入れたとしてもその場で吐き出してしまう状態だった。
 僕が臨時で押し込まれた病室は1人の少女を除きあとは高齢者の8人部屋だった。医者にしてみれば明らかに僕よりは彼女たちの方が深刻な病気を抱えていたのだろうが、彼女たちは入れ替わり立ち代わり僕の顔を覗き込みにきては声をかけていった。そして3日目の昼になって僕は個室に移動させられた。
 個室に移ってから2,3日経ったころだろうと思う。その頃には僕は少し体が楽にはなり、少々退屈を知り始めていた。そんな折、前の病室で最初に声をかけてくれたお婆さんがひょこっと入ってきた。
 「若いのに退屈でしょう。どう、少しは気分は良くなった?」
 「はい」
 お見舞いにきてもらうほど親しくもない彼女が何を目的にここに来たのか僕は訝しんだ。すると彼女は「あたしは入院している間に本をたくさん持ってきてたから読むかと思って」と切り出した。
 本…と聞いて僕は即座に反応した。
 「読書は好きです。ありがとうございます。」
 彼女は5冊の本をベッドの補助テーブルに並べた。
 佐多稲子「素足の娘」、司馬遼太郎「新撰組血風録」、池波正太郎「火の国の城」、水上勉「流れ公方記」、遠藤周作「ぐうたら社会学」。
 そしてその中から特に古びていた佐多稲子の一冊をとって「若いひとはこれからだから、この本なんてどうかしらね」と直に僕にそれを持たせた。
 お婆さんは若いころ出版社に勤めていて佐多稲子にも直接会ったことがあるらしかった。
 「たいした仕事もしていなかったんだけどね、本がすきだったから。それだけで入った会社だったけど、結局はお見合いをさせられて結婚して、2年足らずで辞めてしまったわ。もっとやらなくてはいけないこと、やりたいことも、あったはずなのにねぇ」と笑った。
 僕は「本をお借りします」と言ったが、彼女は「プレゼントするわ。気に入った本があったら大事にしてくれればいい」と目を細めて微笑んだ。僕は有り難くその本をいただき、彼女が部屋を出てすぐに読み始めた。

 素足の娘 箱 (装丁・佐藤敬、新潮社、昭和15年初版)

 …目覚めかけた私の耳に、雉の聲が入つてきた。 
 太い、威厳のある雉の聲であった。如何にも人に混つて、少なくとも人の歩くところをも悠々と歩いてゐるといふやうな雉の聲であつた。けれども雉の鳴聲のことだから重々しくはない。そとの明るい朝の光と、空の廣さとが分るやうな鳴聲であつた。
 -あゝ、違った土地へ來てゐた―
 と、私は急にその雉の聲ではつきり目が覺めた。…

 昨日、公開されたばかりの劇場版「花咲くいろは」を観に行った。
 映画の冒頭、緒花の母親・皐月がまだ高校生の頃、女将(緒花の祖母・四十万スイ)と喧嘩をして飛び出し、プールに飛び込むシーンで突然に「素足の娘」を思い出した。思い出したと言っても両者につながりがあるわけではない。

 映画のストーリーは、緒花が、連休限定で女将修行のため喜翆荘にやって来たライバル旅館の孫娘・和倉結名と物置を掃除していた際に、偶然、昔の業務日誌を見つけ、その中にあった母・皐月の言動を書きとめた伝六の一文を目にしたことから、緒花たちの現在と母たちの過去をフラッシュバックさせながら進行して行く。
 旅館、教師、板場それぞれの境遇と自分との間で常に闘いがある。その闘争は殴りあったりはしない。物理的に対立する暴力ではない。それだけに精神的に追い込まれることもある。
 希望と忍耐。叶えられる夢と願う夢との違い。「求める」と言うその切実な思いとそれを追う姿をテーマに掲げている。緒花には緒花の「輝きたい」と言う思いがあり、皐月には皐月の追いかけたい人の姿と夢があった。女将にも、菜子にも、民子にも。映画は丁寧にそれぞれが抱えている環境との戦う姿を描き出していた。
 登場人物個々のそれらは決して同じものではないけれど、同じ色をまとっていると思う。そして、何かを求めて成長しようとする過渡期の最も美しい姿もそこにまた同時に存在している。恐らくそんな印象が僕に「あのお婆さんのこと」と「素足の娘」を想起させたのだと思う。

 素足の娘・表紙 (装丁・佐藤敬、新潮社、昭和15年初版)

 「素足の娘」の主人公の少女は数えで15歳、満年齢で13歳である。貧しさから希望する女学校への進学もできず、家計の補助のため身にもつかない僅かな金銭のために手内職を強いられる。その中で「いつかは…」との思いが始終心を占め「場所が変われば新しい希望が生まれる」と胸を膨らませる。そんな折、瀬戸内の造船所で働く父に呼ばれて東京に祖母と叔母を残し単身で相生(おう)と言う港町へ赴く。そこでは今までの自分を知る者はなく、すべてが真っ白のなかから始まり、自分は自由を得て、少女らしい振る舞いを身に着け、恋をし、新しい自分を生きて行くことができる希望があった。
 しかし現実に用意された環境は彼女に更に別の足枷をつける。彼女が求める理想と環境との戦いは終わることがない。夢見がちな少女が身に起こった現実を受け入れて、それでも何かを求めて成長し行く姿には性別を超えた共感があると思う。僕は同じ世代にいる彼女の姿を思い描いて、この物語に没頭した。

 その文章も僕を惹きつけた。窪川稲子が描写する少女の最初の変化は、生理的な知識を持たない当時の僕にもすぐそれとわかる暗示的なものだったが、それは非常に繊細で詩情豊かだった。その記述だけでも僕には充分な価値があった。

 …目が覚めた瞬間、何かの反射作用のやうに、私は、丁度枕の上から目の向けられてゐる隣との境の襖の上に、ぱっと掌をひろげたくらゐの赤いものがにじむのを見たやうな氣がした。襖に赤いものが映つたのか、私の瞳の奥で赤い色が閃き、それを見たやうに感じたのか分らなかつた。丁度、ひどく頭を打つた時の瞳が靑い光を發するやうに、何か瞳孔自身が薄紅色をちらしたやうにも思へた。それは瞬間的なものだつたし、別に氣にとめたわけでもなかつた。…

 新天地で自分を可愛らしく見せたい、品良く思われたいと独りよがりの心の緊張を抱いていた彼女は、置かれた環境の中で次第に「人の、自分に對する取扱ひも敏感に讀みとつたけれど、また自分を、人の目で眺める習慣」を身に着けて行く。それは少女から若い女性へと移り変わる兆しだったのだと思う。 

 最終的に主人公は残して来た祖母たちの生活のため再び東京へ戻ることになる。しかし、そこにも彼女の人間性を無視した制度的な現実の壁が立ちはだかり、苦渋の生活を送る。それでも彼女は「何か」を懸命に求め続ける。

 …私は、しんしんと降りしきることで深い静けさへと引き込んでゆく雪に、激しい音を感じ、身内をほてらせてゐた。
 私を頼るやうな年寄りの表情にも私は何か言葉をかけねばならぬ、と思ひやり、明るい調子になつてしゃべり出すのであつた。
 「おばあさん、私がマンドリンなんて習つて、御苦労さまだと思つてゐるのでせうね。ごめんなさいさいね。だけど大丈夫よ。」
 「そりやァお前のしてゐることだから。」
 と祖母は私に合わせた返事をした。
 「いつまでもお稽古にいきやしないわ。少し弾けるやうになればいいの。楽しみなのよ。だつてねえ、仕方がないでせう、この位。だつて私、若いんですもの。」
 言ひながら自分で笑い出すと、祖母は彼女なりにその言葉を受けとつて、ほんたうにねえ、と濟まなさうに言ふのであつた。
 「ううん、そんな意味ぢゃないわ。」
 そんなこと覚悟してゐるのよ、と打ち消しながら、
 「今に、いいことあるでせう。」
 半ば、茶化すやうに言ひ放つた。が、その言葉には、年寄りを慰めながら、また自分の心の遥かな思ひも籠められてゐないことはないのであつた。
 ふと見上げると、街燈の周りに雪はぐるぐる廻るやうに落ちて、電柱も白くなつてゐた。
 「ひどい雪ね、大分積もるらしいわ。」
 気負いこんでさう言ふ私のはしゃいだ聲には、まだ子供が雪を珍しがるさういふ期待の響きがあるのだつた。
 「危ないわよ。」
 と、祖母にも言ひながら、私は自分の重くなった足駄をとんとんと蹴って雪をはじいた。…

 素足の娘・藤田嗣治装丁 (装丁・藤田嗣治、大泉書店、昭和22年初版)
 
 この最後の足駄の雪を払い落す主人公の姿に僕は彼女の希望を見たいと思う。重くなった雪を落としただけではなく、彼女の自由への手掛かりになるのだと信じたいと思った。
 「素足の娘」は窪川稲子の自伝的要素が強いと言われている。そこから遡行するなら彼女は自分の希望する未来をある程度手にいれたのかもしれない。しかし、作者は自伝とはしていないし、小説として書上げるに際して小説に相応しい組み立てをしているはず。やはりこれは結果から遡行すべきでない架空の物語なのだ。そう考えて改めて「花咲くいろは」に重ね合わせてみる。
 ヘンな話にはなるが、僕はこの「素足の娘」のなかの少女を「いろは」の舞台に投げ込んであげたかった。逆でもいい。緒花たちとの邂逅はきっと彼女に良い兆しをあたえるだろうと思うし、何よりも楽しいと思える毎日が訪れると信じる。そして「素足の娘」の生きる姿に世代を超えた共感を感じてくれるだろう。
 求めることの一途な美しさとかけがえのなさは当たり前に普遍である。僕にこの本をくれたお婆さんもそれを伝えようとしたのかもしれない。そして「気をつけなさい」と、若さは一瞬であるとの思いも込めて。
 
 菜子 押水菜子(劇場版「花咲くいろは」来場記念色紙)

 




 
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