妹の禁忌

 疲れがとれません。頭痛もやむことなく続いています。仕事は増える一方で終りが見えてきません。仕事と時間には終わりがない、と今更ながら、倦怠ムード、いや、諦観モード、。
 
 ちょっと雑談。

 ある女性がおりまして、彼女には取り立てての欠点らしきものがありません。身のこなしも綺麗ですし、スタイルも、顔立ちも整っています。性格もなんら問題がない、というより寧ろ、気遣いのできる女性です。異性の友人も、同性の友人も多く、実際、慕われています。
 が、しかし、本人曰く、「恋人と続かない、いや、恋人にまで行き着かない。」
 決して、外目から見た印象では、彼女自身、軽薄多情なわけではありません。
 1年ほど前になりますが、その彼女からこんな相談を持ちかけられました。
 「私、運に見放されているのです。祟られていると言ったほうがよろしいかもしれません。」
 予期せぬ話題を振られてリアクションに躊躇していた私に、彼女は説明を加えて行きました。
 浮かれ恋の熱病なら、お医者様でも、草津の湯でも治るわけはありません。それがまして、恋にすら発展しない成り行きを「祟り」と称して、私に相談するなどもってのほかです。その手の相談に関してはスーパー役立たずですので。
 でも、話だけでも聞いてあげないと不義理、不人情と後ろ指をさされますから、「まぁ、紅茶でも飲みながらお聞きしましょう」となった次第です。

 地方に行きますと、様々な風習、伝承があり、その中に「禁忌」と呼ばれるものがあります。
 有名なものですと「雛飾り」ですね。3月3日を区切りにして、早くから飾り付け、雛祭りが過ぎたら、さっさと終う、そうしないと、その家の女の子が縁遠くなる、というものです。
 その他にも「足袋を履いて寝ると親の死に目に会えない」、「夜、口笛を吹くと鬼がくる」とか、「縁側で髪を梳くと物狂いになる」など様々あります。

 さて、今日は題を「妹の禁忌」としたわけですが、私には珍しく、先に題を置かせてもらって書き始めています(手前の話ですが、通常、私は題は後づけです)。
 題をお読みになられて、最近流行の「妹萌え」と思われた方、すみません、違います。ここにある「妹」は「いも」と読みまして、若い女性のことを指しております。
 「筒井筒、井筒にかけしまろが丈 生にけらしな 妹見ざる間に」に代表される「いも」のことです。決して「俺の妹がこんなに~」とか、「お兄ちゃんのことなんかぜんぜん~」とかのライトノベルの話でも、アニメの話でもありません。

 話題をもとにもどします。

 彼女の言う祟りとはこんな話でした。
 
 まだ幼少の折、故郷の新潟の祖父母の家に毎夏、遊びに行っておりました。
 ある年のこと、10の歳のころだと思い起こされますが、近所の男の子と野山を駆け回り、身に持て余すエネルギーを使い果たし、家に戻ってまいりました。
 空腹に祖父母を呼ぶも応えなく、父母も不在の様子で、何かお八つでもないものかと台所、居間のあたりをさがしておりました。
 すると、神棚に置かれたお供物数個が目に入りまして、そのうちの1つを頂戴いたしました。もとより押し菓子は好きなほうでしたし、お寺などで仏様からお分けしていただくことも多かったものですから、そこに罪の働く余地、疑いなど起こりようもありませんでした。
 帰宅した祖母に「神様からお菓子1つもらったからね」と伝えます。
 祖母はそれを聞き、「女の子が神様に捧げたものを食べるとお嫁に行かれなくなるっていうのですよ。困った子だね」と笑い、頭をなでてくれました。
 それは祖母の冗談だったのか、それとも、戒めだったのかはわかりませんが、私は心底、怖いと思ったのです。
 神棚に向かい「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝りました。それは、その夏の残りの滞在期間中、常に続けました。
 東京に戻ってからも祖母の話を思い出し、夜に泣き出したこともありました。その度に父も母も「迷信だから、冗談だから」と言って慰めてくれたものでした。
 しかし、それが祟ったのです。今となっては、そうとしか思えません。好きな人ができますと、見ているうちは良いのですが、いざ、付き合い始めると、遠く感じると言いますか、急に冷たくなったように思えるのです。それで、この歳まで恋人らしい恋人もできず、来てしまいました。

 私はこの話を聞き、「神の供物」について少しばかり時間をいただき調べさせてもらいました。
 確かに、彼女の祖母の言うところの禁忌は伝わっているようです。しかしながら理由は明確ではありませんでした。
 盗み食いをされたから、横取りされたから祟るのでは、あまりに器量が狭すぎます。そんなどこぞの中東あたりの神様ではあるまいし、日本の神様とはもっと大らかなはずなのです。禁忌には理由があるはずです。
 
 神様の供物と仏様の供物の違いからあたってみました。
 まずは、お寺で良くいただきます供物ですが、それは純粋に「お裾分け」です。仏様と同じものをいただくことによって、ご先祖様の有難味をいただく、分け合うと言う相互方向のコミニュケーションなのです。
 片や、神様に捧げられたものと言うのは一方方向のものでして、神様がお納めになるものです。ここに「巫道」と言う独特の移し身の思想が登場します。
 「巫道」は、巫女が神様と通じるための古代の禊、作法のことです。ここで論ずると長くなり、当初の意図を外しますので省きますが、簡単にその代表的な理念を述べると次のようなことです。
 神様へ通じるには、まず未婚の女子(妹)であること。次に、献呈された品々は巫女を通して神様に捧げられること、です。
 つまり、「嫁入り前の女の子が神様に捧げられたものを食べると縁遠くなる」と言うのは、2つの構成要素から成り立っていると考えられます。「妹」と「直接は捧げてはいけない献供品」です。
 おわかりになりますでしょうか?もとは別々であったものをくっつけたものです。先の禁忌は、直接の禁忌ではないと考えたほうが適切でしょう。「風が吹けば桶屋が儲かる」的な喩なのです。 もっと言うなら、この禁忌において「風」と「桶屋」は無関係です。いえ、「風」と「桶屋」は関係がありますが、「風」と「儲かる」には繋がりがありません。通過儀式的には、清浄な巫女を通じてのみ、清浄な供物を神に捧げることができる、と言うことです。だから「供物に触れるな」と。巫女と清浄な供物の関係が、いつしか、別の禁忌を生んだのです。
 神様に捧げるものは巫女を通す。従って、神様に捧げたものを通した妹(未婚の女子)は巫女になる。「巫女=結婚できない女性」から、転換された禁忌を生じたということです。
  彼女が「祟り」だと思っていたのは、深層心理にわだかまっていた「思い込み」、「暗示」に他ならなかったのです。自分で自分を縛りつけてしまっていたと言うことでしょう。
 ある意味では、彼女の祖母の言霊とも言えるかもしれません。

 彼女も聡明な人ですので、納得がいけば自分で枷は外せます。それでというわけではありませんが、めでたくこの9月に結婚する運びになりました。
 それも「運」と呼ぶべきものでしょうか?あとは皆様のご賢察にお任せ致します。

 
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