恋人と別れる50の方法

 随分と懐かしい感じのするというか、かなり古ぼけた喫茶店だな、と単純にそう思った。店先に出ているKEY COFFEEというスチール製の看板も文字が薄れ、錆が浸食しきっている。留め金が外れていないのが奇跡だとしか思えなかったし、第一にこれをかけておくメリットも僕には理解できなかった。昭和の、と言えばレトロ感もあるのだろうが、単にさびれているようにしか眼に映らなかった。その印象は僕にほんの少しばかりの躊躇を与えたが、しかし、それ以上に僕の疲労感はピークに達していて休息を欲していたし、何よりもその閑散とした見かけが今の自分には相応しいとも思えた。
 珈琲マグノリアと書かれた木製のドアに手をかけるとカウベルが鳴った。そのまま押し開いて中に入ると、天井から下がっている薄暗いペンダントライトが期待通りのタイムスリップ感を出していてくれた。ローズウッドで統一された壁、カウンターにはサイフォンが綺麗に並べられており、上からカップがつるされている。テーブルは小さめのドローリーフ、材質は一応オークのように見える。テーブルには恐らくどこも照らしてはいないだろう小さな燭台型ランプが添えられている。僕は左側に5つ並んでいる席の丁度真ん中を選び、臙脂の布が貼られたツイストチェアに深く腰をかけた。へえ、意外にしっかりしているな、と思った。
 腰かけたはいいが店員がいない。どう声をかけたらよいものかと思っていると、カウンター後ろの低い扉がカタリと開いて男性が現れた。いらっしゃい、今、水をおもちしますよ。カウンター脇に置いてある水差しに手をかけグラスに水を注いで運んできた。男性の年齢は僕とそうかわらないように見えた。もしかすると10くらいは上なのかもしれないし、或いはもっと年上かもしれないが、それでも60には届いていないだろうと思えた。僕はアッサムティーとベイクトチーズケーキを注文した。
 彼は水が入っているだけのサイフォンに火を入れた。それから習慣化された安定感を湛えてティーポットを熱湯にくぐらせてから注意深く周りを拭き取ると蓋をあけてサラリとリーフティーを落とし込んだ。お湯は沸かしたてのほうがいいんですよ、と独り言のように呟いてから先ほどのサイフォンからそこに注いだ。水を沸かすためだけのサイフォンなのか、と少し感心して僕は運ばれてきたティーセットを眺めた。砂時計が落ち切ったらカップにあけてください、残ったものが濃いようでしたら差し湯をだしますから。それだけを言って彼はカウンターの後ろに退がって行った。それから彼がひょいと屈むようなアクションをとると同時に店内に音楽が流れ始めた。

 I met my old lover on the street last night.She seems so glad to see me …

 ポール・サイモンか、いい趣味だな、と僕は勝手に共感を抱いた。高校時代に必死でコピーしていた頃が懐かしい。頭のなかで自然とフレーズが繰り返され来る。" Still crazy,still crazy,still crazy after all these years. " 僕はまだ狂っている、なんてね。

 のんびりとカップに口をつけているとカランカランとカウベルが鳴りドアが開いた。その音は外で聞いた時よりもはるかにしっかりしていた。高校生のカップルが入ってきた。制服のままのところをみると近くの学校ではないのだろう。それとも今の学生はそんなことを気にしないのだろうか。彼らがここに入ったのが通学路の途中なのか、デートの行きがかりなのか、それは判然としないけれど僕にはそれはどうでもいいことだった。
 彼らは僕とは1台テーブルを空けた奥の席についた。彼女が何気なくテーブルに手をかけ、これってテーブルがひきだせるようになってるよ、珍しくない?と声を弾ませた。彼はそれにはほとんど関心がないようで、そう?とだけ答えた。それから彼女はソーダフロートとプリン、彼はコーラとホットケーキを頼んだ。腰かけた瞬間から彼は胸ポケットからスマホを取り出して眺めている。彼女は膝においた小さな包みを開いて可愛らしくラッピングされた箱を目の前においた。

 彼女が話しかける。合格しててよかったね、ちょっと遠いけど東京と千葉ならそんなでもないもんね。
 彼が応える。だね。浪人するよかましって感じ。カズからメールきてる。
 彼女が応える。うん。

 彼女は箱を左手の中に置いたままソーダ水のストローに口をつける。視線は彼を追っている。彼の注意は携帯の画面に注がれている。
 店内のBGMは " I do it for your love " に変わった。愛と君のために、という邦題がついている。ビル・エヴァンスがトゥーツ・シールマンスとアルバム「アフィニティ」で共演して以来、愛奏した曲でもある。
 …理想的になって考えると辛いし、涙もあふれてくる。北半球でも南半球でも愛は生まれ、そして消えてゆく。君の愛があればこそ… ポール・サイモンが歌う。
 僕は曲に耳を傾けながら彼氏に胸のなかで話しかける。ねえ、彼氏。メールよりももっと大事なものが君の目の前にあるよ。人はね、遠くのものばかりよく見えるし、それがやけに目立つのだけれど、差し伸べなければならない手はもっと身近にあるものなんだよ。手に入れたと思っているものは常に不安定なんだ。たとえば自由とか。たとえば恋とか。それらは突然に消えてしまうんだよ。

 僕の耳に規則的なパーカッションとシングルトーンが入って来る。曲が変わった。

 あれこれ考えてもはじまらないわ。彼女は僕にそう言った。
 理論的に考えれば答えは簡単よ。
 自由になりたいともがいている貴方に手を貸したいの。
 恋人と別れる方法は、きっと50もあるんだから。

 彼が彼女に言葉をむける。カズがね、カラオケにいるんだって。で、バカ騒ぎしてるらしい。写メ送って来た。
 画面を彼女に向ける。彼女は眉間に微かな翳りをみせてそれを受け取り、それから画面を見て笑ってみせた。
 彼は戻ってきたスマホにまた注意を向ける。なんかある?あれば送っとくよ。特にないわ。で、それってどこなの?さぁ?どこだろ、訊いてみる。w
 彼女はプリンをひとさじ掬い取って口に運ぶ。左手にはまだ小箱が握られている。彼の目の前ではコーラの泡が消えかけ、ホットケーキは既にその名の由来を失いかけている。
 ねえ、彼氏。ホットケーキはね。出来立てだからおいしいんだよ。手を携帯から離してつまんでごらん。僕はまた胸の中で呟く。

 彼女は言った。
 本当は嫌なのよ、おせっかいなんて。
 それに困るんだわ。貴方が迷ったり誤解したりしたら。
 だけどもう一度言うわ。でしゃばりだと思われても。
 恋人を置いてゆく方法は、きっと50もあるのよって。
 恋人を置いてゆく方法は50もあるのだから。

 彼女のソーダ水の気泡の向こう側に何かが見えるような気がした。グラスの中で弾けて行く果てしない繰り返しの中で僕はひっかかった何かを取り出そうとした。
 あれは何かの行事の後だったか、それとも最中だったのか。とにかく僕たちは学校ではなく地下鉄でふた駅離れた街の喫茶店にいた。彼女は僕に言った。もどらなくていいの?もどってどうするの?誰も気が付かないよ。自由解散みたいなもんだしね。でも何かやることはあるでしょう。じゃあ、君が戻ればいい。
 彼女が抜け出した僕のあとを何故追いかけてきたのかは知らない。捕まえて戻そうとしたのなら、学校から離れてこんなところまでは来ないだろうし、そのままエスケープするつもりなら、戻ろうとは言わないだろうし。それに僕たちは特別親しい関係ではなかった。
 
 背後からそっとでていけばいいのよ、ジャック。
 新しい計画を立てないさい、スタン。
 遠慮なんかすることないわ、ロイ。
 自由におなりなさい。
 ひょいとバスに飛び乗るのよ、ガス。
 くどくどと話し合う必要なんかないわ。
 鍵なんて捨てておしまいなさい、リー。
 そして自由におなりなさい。

 ねえ、どうしてクラスに協力しないの?生徒会とか、全体行事のときはあんなに頑張ってるじゃない?どうして?…君は僕を詰問するためにここまできたの?そうじゃないけど…。それじゃ、そんな話はやめよう。でも、気になるのよ。気になるって何がさ、理由?もし君が本当に理由を知りたいのならそれはたぶん無駄だよ、だって僕にもはっきりしないのだから。でも、どうしても理由が必要だっていうのなら、こんな言い方をしても許されるかな?僕は身近に人がいるのが嫌いなんだよ。監視されているみたいでね。同じことをやれと要求されることが。だからクラスメイトは苦手なんだ。つまり勝手で甘えん坊なのさ、これでいい?
 彼女はそれから何も言わなかった。喫茶店を出て地下鉄に乗るまで僕のあとをずっとついて歩いた。彼女が僕のそばを離れたことに気付いたのは列車のドアが閉まって、こちら側と向こう側に別れた時だった。
 
 つまらないことを思い出したな、と苦笑いをした。
 三叉路は気づかぬうちに目の前にあって、いつも意識せずに通り過ぎてしまう。そして振り返って思う。なぜ、もっと悩まなかったんだろう。どんな過ごし方をしても後悔はきっと残った。けれども軽すぎた道のりに残されている後悔は思い出にもならない。思い出にのこせるような悔いの過ごし方をなぜ、もっと真剣に僕はしてこなかったのだろう。
 
 彼女は言った。
 私とっても悲しいのよ、貴方がそんなに苦しんでいるのを見ると。
 できることがあればしてあげたい。
 もう一度貴方が微笑んでくれるように。
 僕は言った。
 ありがとう、感謝するよ。
 僕に教えてくれないか、その50の方法を。

 彼女は手にもった小箱を膝上の袋に戻した。
 ねえ、彼氏。彼女が帰ってしまうよ。たぶん、帰ってしまう。鞄から携帯を取り出して、おうちから連絡がきたとかなんとか言って。今、君がいじくっているメールよりも大切なものが目の前にあるんだよ。選択肢が近づいてきてるんだ。なんで気づかないの?
 彼女はついっと顔をあげてこう切り出した。合格祝いしてくれることになってるから家に帰らなくちゃ。遅くなると怒られちゃうから。

 ほら、彼氏、どうにかしないとダメだよ。彼女が帰ってしまうよ。

 彼はスマホから目を離してこう言った。
 そっかぁ、急ぎの用事あったんだ。そんじゃ、仕方ないよね。俺、これ食べてから行くから。

 カランカランとベルが鳴ってドアが閉まる。ちょうど僕が地下鉄であの子を置き去りにした時みたいに。
 店内にはまだポール・サイモンの歌が流れている。僕は紅茶を飲みきってから席を立った。
 
 彼女は言った。
 どうかしら、今夜、ふたりで考えてみたら。
 朝になればきっと光が見えてくるわ。
 そして僕は彼女にキスをした。
 たぶん彼女の言っていることが正しいのだろう。
 恋人と別れる方法はきっと50もあるに違いない。
 恋人を置いてゆく方法はきっと50もある。

 (Paul Simon " 50ways to leave your lover ")


  
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