谷崎潤一郎「春琴抄」

 本を改めて手にとる動機と言うのものは様々にあります。僕がこの「春琴抄」を思い出したのは、ここ最近、マスマコミを賑わせた体育会系の体罰事件でした。
 愛の鞭と暴力の境目を考えているうちに何となく浮かんできたのが、この春琴抄のなかにある「人形浄瑠璃血まみれ修行」の記述でした。
 そこには三代目越路太夫の眉間には師匠から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された時に受けた傷があるとの、大阪朝日新聞昭和八年二月十二日の記事を借りた叙述がありました。その他にも谷崎潤一郎はいくつかの苦修行の例をひいています。
 愛弟子の成長を願うもどかしさから一時に噴出した怒りは愛情とも言えなくはないでしょう。それが行き過ぎなければ。
 問題があるのは暴力に酔いしれてしまうこと、指導の実体が嗜虐性を帯びてくることの危険性です。指導者は自らの絶対的地位を力によって誇示しなければならないという錯誤です。
 そんなことを思いながら本棚から引っ張り出してきた一冊でした。

 初版は昭和八年、創元社から刊行されています。装丁は非常に凝っていて、本体は黒漆塗りの表紙に金彩で題が書かれており、紙秩でくるまれています。当時の販売価格は壱円九十銭でした。

 春琴抄
「春琴抄」(創元社、昭和8年初版)

 「春琴抄」は映像化もされておりますし、高校などで代表的文学作品として覚えなければならない作品ですので題や粗筋をご存知の方も多いかと思います。
 眼病により失明して音曲を学ぶようになり天才を開花させた春琴と「手曳き」として身の回りの世話をしていた丁稚の佐助の様子を第三者がルポルタージュする記述形式で書かれています。マゾヒズムの耽美的極地として語られることの多い作品でもあります。

 春琴抄、扉 扉&目次

 この作品を印象付けてしまうのは、やはり佐助が目を失うくだりでしょう。
 屋敷に侵入した何者かにより春琴は顔に熱湯を浴びせられ大きな火傷を負い、そのために顔を隠し衆生から隠れ住もうとします。その春琴を思う佐助は自ら両眼を針で突き刺し盲目となり、春琴への真実を誓うのです。

 谷崎潤一郎はその場面を次のように描写しています。

 …それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きているやうになり何時包帯を取り除けても差支えない状態に迄治癒した時分或る朝早く佐助は女中部屋から下女の使ふ鏡台と縫針とを密かに持って来て寝床の上に端坐し鏡を見ながら我が目の中へ針を突き刺した…

 佐助は自分の目を突き刺した後、それを春琴にうったえるわけですが、その場面には悲劇性の欠片もありません。むしろ両者間には満足感のみが漂っているように描写されています。

 …程経て春琴が起き出でた頃手さぐりをしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて言った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助は此の世に生まれてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった…

 書出&奥付 書出し&奥付

 人は純愛を留めるには記憶に頼るしかないないのでしょうか。その記憶を得るために身を投げうつことが真実にできるものなのでしょうか。一時の感情の高揚にまかせた挙動を悔やむことなく、愛をつくせるものなのでしょうか。僕には理解ができません。
 僕が記憶にとどめているのは僕自身に代償を払うことなく、ただ「思い出」と言われる懐古的な感傷のみの世界で、その世界でしか過去を語れません。佐助のように自分を棄てて相手と同化する喜びに浸るという恍惚の時間を味わったことは一切ありません。それ以前に僕は本当に人を好きになったことがあったのだろうかと殺風景な記憶を探るのみです。

 佐助が望んだものは春琴と世界を同じくすることだったのでしょうか。究極的なマゾヒズムに自らを浸すことで得る自慰愛だったのでしょうか。
 僕はこの「春琴抄」を読み返すたびに変わらない印象を持つのです。それは相手に対する純愛の物語ではなく、むしろ自己愛に徹したがための結果であり、究極のナルシス的マゾヒズムの一例なのではないかと。
 ただ、もし佐助が春琴の望みを叶えたとすれば、それは「佐助にだけは醜くなった自分をみられたくない」という彼女の思いの一点だったのかもしれません。

 春琴抄・秩 春琴抄・紙秩









 

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