窪川(佐多)稲子「くれなゐ」

 くれなゐ
(中央公論社、昭和13年初版、署名)

 「元日の東京驛は、もう十時をすぎてゐた。半分扉をおろしたやうながらんとした静けさである。元日の夜の落ち着いた憩ひとうふよりはむしろ、今朝がたまで續いためまぐるしい忙しさに埃つぽく疲れている空気があつた。高い圓天井のしたにかかつてゐる大時計にさへ今夜はわびしさがある。十時五十五分の明石ゆきの改札が始まつても、待ち受けたざわめきも起こらず、人々はひとりひとりどこからか出て來ては、急ぎ足に入つて行つた。」

 物語は元日の夜の東京駅の描写からはじまり、主人公の明子が長男の行一と友人の岸子を連れだって国府津へと向かう車中の様子へと続いていきます。
 この物語は窪川稲子の特徴であるプロレタリア小説ではなく、彼女の実生活における夫婦の愛情のありかたを描いたものです。しかしその中身は夫婦愛の美徳や慈しみとは全く無縁ですし、読後の清涼感もありません。
 夫婦がともに作家であることによる苦悩、作家である前に女であるという本質、夫の求める妻の像など負の感情の泥濘と言えるものを書き表した作品です。
 但し窪川稲子はここで単なる夫婦の危機を綴った暗澹たる暴露話をするのではなく、あくまでも小説として注意深く言葉と描写を選んでいます。そのために諍いの場面が甘いと感じられる部分もありますし、谷崎潤一郎や伊藤整が拘泥した現実の男女の愛憎の表象となる性描写といったものも避けています。そうしたことから現代的な小説を読みなれている方からすると間延びして感じるかもしれません。

 この作品の主題は夫婦で小説家でいること(作家として認められた妻とこれから認められようとする夫)の葛藤であり、作家であっても女であるという感情から逃れられない現実です。単に共働きということではなく、芸術を目指すもの同士の難しさにあるのです。それは、高村光太郎に対する智恵子に通じるものがあるかもしれません(幸いにも窪川稲子は自己崩壊への道は辿りませんでしたが)。

 「…明子の場合には、單に座る場所が無くなつたといふことではなくて、家の中の重心が廣介にすつかり移つてゐる感じなのであつた。それは作家としての明子の生活の根本が浸食されてゆくやうな不安がともなつてゐるのであつた。廣介の意志に關わりなく男と女の一軒の家の中で要求されてゐるのものの力でもあつた。いつまで、女、女、女、といふことにかかづらはねばならないのであろう、明子は泣きたい思ひで、暗く黙りこくる日がおおくなつた。…」

 この小説ではあまり露骨には出ていませんが、夫が妻に社会的に先行されることの焦燥ゆえに新しい恋愛に走る心理というものがあります。男性側から書かれた小説であったならその部分がもっとクローズアップされたかもしれません。展開によっては中心となる人物を途中で入れ替えたほうが深刻さが伝わったのでしょう。それでもこの小説からは、妻(明子)側から見た夫の理不尽さ、解析しきれない自己矛盾による葛藤は、読む側に伝わってきます。

 「わたしたちはこの十年間をお互いに好く暮らして來たとおもふのよ。二人ともここまで成長したといふことはさう言へるでせう。勿論二人の努力であつたとおもふわ。それはずゐ分ひどい努力だつたとおもふの。それがね、ここまで來たとき、二人が一緒に暮らしてゆけない矛盾をつくつてゐたんだとおもふと、そのことでは、私の詰まつてゐる気持ちは、どうにも抜け様がないの。」

 「くれなゐ」は単純に言えば、夫婦でありつづけようと、かつ、作家として共に好くなろうとして続けた努力や忍耐が、結局はお互いを追い詰め、作家生活のみならず夫婦関係をも崩してしまうことに行き着くという、全ては悲劇的な矛盾であったという話です。
 
 互いを思うがゆえに意図とは反する結果へと導いてしまうことはよく見受けられます。「こんなにもしてあげているのに、どうしてわかってくれないのか」と。
 たとえ相思相愛だったとしても、現実は片肺飛行なのかもしれません。人の思いはリットル升では量れないので、どちらが大きいのか、等しいのかを比べることはできません。
 恋愛は不安との、そして、結婚は不満との戦いなのでしょうね。どこまでいっても人は個別である以上、妥協を強いられるものなのかと思うとやりきれない感じがします。



 

 
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