結城信一「文化祭」③

 ○「山毛欅(ぶな)」(昭和48年十月、群像)

 「山毛欅」は珈琲店の主人との交流を淡々と描いた短篇です。

 お伽噺というのは現実には起こりえない夢物語だと言う人がいます。
 現実はもっと殺伐として殺風景なのだと。
 現実に生きている僕たちにしてみれば、小説や映画、アニメのようなミラクルやファンタジーな現象は実際には起こりえない事と考えます。 
 それは確かにその通りなのです。
 朝、登校途中に息を切らして駆けてくるパンを咥えた美少女と衝突する可能性も、秋葉原で人工衛星らしきものがビルの屋上に墜落してくることも、宇宙人に誘拐されたことのある可憐な従妹と同居する可能性も、「あるわけがないこと」に括ってしまっても差し障りは生じないでしょう。
 ただお伽噺や奇跡とは、かぐや姫やイエスばかりに与えられたものではありません。
 お伽噺は誰の中にも存在するのです。それは現時点から生まれるものではなく、過ぎて行ったものから生まれ来るものですから。
 気づきもしないうちに誰もがお伽噺のなかを通り過ぎてきているのです。
 たとえば、青春と言ったら古臭いと笑われてしまうでしょうか。
 僕はまだ老醜を語る年齢に達しているわけではありませんが、それでも確実に老いてきていますし、少なくともあの特別な時間のなかで生き生きとしていた張りはもうとっくに失われています。
 感傷というのは、若さが生み出す美しい陶酔ではありません。センチメンタルな季節とは思春期のみに許された特権ではなく、寧ろ老いて行く者にこそ相応しい糧なのかもしれません。
 死はどこに向かっているのか、死とはどういった時間なのか。
 僕はここのところ不意に考えます。
 永い間、手に取ることのなかった結城信一の小説を改めて読み返す気になったのもそんな気持ちがあったからなのだと思います。
 
 …その木が枯れはじめた。植木屋に相談してみると、木の弱りだといふ。弱りと言つても、原因は病気ではなくて、風だと思ふ。仲間と一緒に生えてゐればいいが、一本立ちでゐては、辛いことだと言ふ…

 その一本になった時に思いかえす過去こそが、死に向かう現実なのではないかと思うのです。遡ることによって死に近づくのだと言ったら「したり顔」と捉えられ非難されるかもしれません。
 それでもそう思わせるものが結城信一の小説のなかにはあるのです。
 
 「落ちるものは落ち、還らざるものは還らず。」

 小説「山毛欅」のなかで結城信一はそう綴り、そして、その後に更に続けます。

 …不思議なことは、これまで見えなかつたものが見えてきたり、忘れ去つてゐたものが、三十年、四十年過ぎた今、突如として鮮やかに生き返つてくることです。…これは、もう、死に直結してはゐないでせうか。私の毎日は、謂わば滅びの支度です。…

 身辺小説は大作には結びつかないかもしれません。
 それは小さく、地味で、淡々としていますから。しかし、だからこそ丁寧に綴りあげられた物語は、まるで遺書のように感じられるのです。
 結城信一が生前に残した本は12冊です。それらに、慎重に生命を注ぎ込むようにして「滅びの支度」を続けていたのでしょう。
 青春を戦争で磨り減らし、生残った彼が過ごした日々は、帰宅の無い旅路であり、一本だけになった木であり、過ぎ去った古い記憶を拾い集めて行く彷徨であったのだろうと思います。そしてその終着は「人が死んでゆくとき、愛の思ひのほかに何が残るか」ということにあったのです。
 



スポンサーサイト

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

コメントの投稿

非公開コメント

sidetitleプロフィールsidetitle

otosimono

Author:otosimono
全く役に立たない独り言です。

sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitleFC2カウンターsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR