雑談の中

 今日(1月17日)の昼休みに「好きな作家」の話がでまして、それぞれに思い入れのある作家さんの名前を思いつく限り出し、またその各々の作家さんについて寸評を加えて話が盛り上がりました。
 今の若い人たちは読書離れとか言われていますが、結構、本を読んでいますよね。それはライトノベルの発行部数を見てもわかるとおりです。若い人たちに訴えるにはライトノベルを利用するというのは良い手かもしれません。
 筒井康隆さんが「ビアンカ・オーバースタディ」を書いたように、他の作家さんも自身の作品を理解してもらうための、または手に取ってもらうためのステップとして利用してゆくのには賛成です。
 ライトノベルの読者が読解力に欠けているとか耳にすることがありますが、そんなことはないと思います。いつだったか某カメラ量販店のベンチで高校生が「BACCANO」(成田良吾)について激論を交わしていました。禁酒法時代のアメリカ、世界恐慌の後遺症、第一次世界大戦までのシカゴなどの話題にまで及んでいて、その勉強ぶりはなかなかのものでした。小説に惹かれて何かに興味をもった時に生まれるパワーの強さを垣間見た瞬間でもあります。

 ビアンカ・オーバースタディ (星海社、2012年初版)

 好きな作家ですけど、僕にもあります。但し、無条件にその作家の作品が好きかと問われたら「否」と答えざるをえません。本当のファンと言うものは贔屓の作家が駄作を書いても、それを非難しつつも次作への期待と擁護をするものでしょう。
 たとえば「灼眼のシャナ」が「長すぎてだらだらしている。最終巻は戦闘シーンに終始して物語の本筋に迫っていない」とか、ある知人は言いつつも0巻から22巻まで読み通しました。
 僕は最後まで読めませんでしたが、彼は原作並びにアニメの大ファンでして、新刊が出るたびに事細かに教授してくれました。そういった意味では僕は熱烈に好きな作家というのは無いのかもしれないですね。

 それから音楽も読書も同じですが、その時々によって受け取り方が変わってきます。「以前は理解できなかったが今ならわかる」とか、「あの時は嫌いだったけど今は好き」とかですね。「前は好きな作家だったけど、今はなー」といったものも当然ありますよね。
 それから、その作家と出会ったきっかけ。これは意外と重要です。僕はもともと読書家ではないし、作文なども嫌いですし、放っておかれたら本など手に取りもしなかったでしょう。それが以前書いた通りの紆余曲折あって本に馴染んできたわけです。
 
 で、何を書かんとしているのかと言うと太宰治です。
 太宰の作品を知ったのが教科書にあった「走れメロス」からという人は少なくないと思います。僕もその一人です。この「走れメロス」ですが「なんでこんなのが教科書に載ってるの?つまらない」と言うのが僕の感想でした。それでも教科を担当した教師が「太宰は奥が深いんだ。メロスだけではわからないと思うし、この作品は太宰を理解するためには不向きな作品でもある。『人間失格』や『斜陽』『津軽』を読む機会があったら読んでみなさい」と力説していました。そこで見栄っ張りの僕は太宰に挑んだわけです。結果は案の定、太宰嫌いを招きました。

 それからウン十年経った今、太宰の小説を手にしてみますと、その書き出しからの惹きつける強さに感動すら覚えます。言い方が悪いですが、現代作家とはひと味もふた味も違う筆力を確信させられます。

 朝、食堂でスウプ一さじ、すつと吸つてお母さまが
 「あ。」
 と幽かな叫び聲をお擧げになつた。
 「髪の毛?」
 スウプに何かいやなものでも入つてゐたのかしら、と思つた。
 「いいえ。」
 お母さまは何事もなかつたように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の満開の山櫻に視線を送り、さうしてお顔を横にむけたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあひだに滑り込ませた。

 これは「斜陽」の書き出しではありますが、朝食のワンシーンのみならず、主人公の置かれた家庭環境、母親の優雅さ、自身の生い立ちまでもが垣間見られる美しい描写です。
 一行にかける重みの違いとでも言うのでしょうか。そう言った異質なものが伝わってきます。もちろん、現代作家が無責任に一行を疎かにしているということではありません。
 現代には現代にあった表現というのがありますし、作家には各々独自の感性がありますから、「これが正しい」というものではありませんので。ただ僕にとって、先に挙げた太宰の文には「惹きつける異質な力」があるというだけの話です。
 会話のなかでも僕がそのことを言いますと「あたりまえですよ。今の読者は考えてよみませんから。とくにラノベは」との笑いが起きました。

 斜陽 (「斜陽」新潮社、昭和22年初版)

 今と昔では描写の範囲も変わってきています。
 たとえば心理描写とか。
 かつての小説の多くは場の雰囲気や会話の描写から心理を読み解くという傾向が強かったのですが、現在の小説は心理描写を懇切丁寧に書いていたりします。どちらが良いということではありませんが、小説の中の仮想世界に対し、読者は傍観者として立ち会っています。感情を移入するというのは隙間が必要なのです。その隙間とは推測と想像のことです。懇切丁寧な心理描写は読者にとって楽なのです。主人公の身にならなくても済みますから。また書く側も書いた方が楽なのです(書くための苦労はあります)。心理を推し測ってもうらうために、あえて心理描写をはずし、解釈の余地を残すというのは非常に難しい。
 未完の完と言うのがあります。これはリドルストーリーのみならず結末のある小説にも言えます。読者が物語に入り込む余地を与える。そのために不完全な部分を残しておくのです。昔の小説を読んで「心理描写が少ない」と感じることが多いのはそのためなのでしょう。きれいに収まってしまう物語は読むに易いですが印象に残らないことが多いのです

 読者参加の余地について例をあげるなら「あの人にお礼を言いましたか?」
 そういう文が単にあったとします。
 ここに言う「あの人」は誰にでもいる「あの人」ですし、「お礼」の起因についてもすべてに当てはまるものなのです。おごってもらったとか、教えてもらったとか、助けてもらったとか、何でもいいのです。漠然としておくことによって他者が入り込む余地がある。そのことが大切なのです。「僕には『あの人』も、『お礼』も存在しないよ」と言う方は稀だと思います。そこにある「あの人」と「お礼」の関係は種々様々な読者の背景を呼び起こします。感情移入はそこから始まるのではないでしょうか。

 僕はライトノベルの巧拙を問うつもりはありません。読者が面白いと思って支持があるのならその作品はそれで良いと思います。ただ送り出す側が「ラノベ読者のレベルが低い」と考えているのだとしたら誤りです。読者の想像力や推察力を喚起できない送り出す側の技量が読者の力を引き下げているのです。

 ひとつだけ付け加えておきますが、丁寧な描写が読者サービスだとしても、その描写が作品の中核を担うものであることは事実ですし、作家にとって省くことの難しさも、書き綴ることの難しさも同様の苦労を伴います。それこそ「空気を握りつぶして水を絞り出す」ようなことなのです。

 それから僕がこのブログで小説をご紹介するにあたっては、物語の粗筋よりも本文の調子を重要視しています。ですから必ず原文で短い一節ですがとりあげています。なるべく改行もそのままにするようにしています。事情によって中間を割愛することもありますが。
 粗筋の好き嫌いも重要なのですけど、まず作品にとりつくにあたって障害になるのは文体です。「話は面白そうだけど、書き方が…」などはよく耳にしますし、僕自身にも枚挙に暇がないほど経験があります。
 自分の感性に合わない文体の作品を読了するには非常に忍耐と体力を必要とします。ですから、まず文をみてもらうことを念頭に置きました。
 今日の最後に「なぜ、こんなことを書いたか」と言いますと、会話のなかで「粗筋よりも小説の抜出の方が多いことがありますよね?どうしてですか?」と訊かれましたのでここでお答えしておきます。
 




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