高橋たか子「誘惑者」

 死の磁場 … 「誘惑者」

 誘惑者 (講談社、1976年初版)

 「あなた、なぜ、死ぬの?」
  ・・・・・・・
 「なぜって?」
 砂川宮子は驚いたような、こちらを小馬鹿にしたような顔附きになって、言った。
 「私はね、あなたのせいで死ぬのよ」
 と、砂川宮子は言った。
 「何?もう一度言って」
 鳥居哲代は大きな声を出した。
 二人は、さらにもう一段降りれば火口のへりまでまっすぐに行ける段の手前で、向き合って立つことになった。
 「あなたがいなければ私は死ぬことはないんだわ」(第四章より抜粋)

 昭和8年、実践女学校専門部の学生が、同級生を立会人にして伊豆大島の三原山火口で投身自殺を計りました。
 この時の立会人となった友人は、1ヶ月前にも他の女性の自殺に同行していたことが明らかになりセンセーションを巻き起こしました。
 この事件をきっかけに三原山は自殺の名所として一躍有名になり、この年だけで未遂者も含めて904人が投身したと言われています。

 自殺したのは松本貴代子(享年21歳)、実践女学校専門部の2年生でした。
 昭和8年2月、父親に「三原山の煙を見たら私の位牌と思って下さい」という言葉を残して家出をしました。
 彼女は自分の死を見届けるよう親友の富田昌子に依頼し、2月11日の夜、船で大島へ向い、翌12日三原山の火口に到着した松本貴代子は富田昌子に遺書を手渡し火口に身を投げました。
 彼女の死を目の当たりにした富田昌子は取り乱し彷徨しているところを、地元の人に保護されました。その後、落ち着きを取り戻した富田昌子を取り調べたところ、彼女の供述から1ヶ月前にも同じく三原山で友人の自殺に立ち会っていた事が判明しました。

 高橋たか子はこの事件を手がかりとして3作目の長編小説「誘惑者」を書き上げました。当然ながら小説はフィクションであり事件のルポルタージュではありません。
 高橋たか子は、この連続自殺事件にかかわった立合人の心理に興味を持ち、それに自身の虚無感を投影して作品として創り上げました。

 物語は序章からはじまり、本編は八つの章に分けられています。

 序章は、自殺した砂川宮子と立会人であった鳥居哲代を目撃した大学生の証言から始まっています。それから鳥居哲代への事情聴取へと移って行きます。嫌疑のかかっている罪状は自殺幇助。

 刑法第二〇二条 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

 断罪の是非を論じる場ではありませんし、それを主眼にした作品ではありませんのでここでは各論に触れません。ただ「悪」という簡単な言葉でくくられた犯罪であると捉えられるほど単純ではないでしょう。ここではそれを作中の大学生の言葉を借りておくことにします。

 … あれほどぞっとする夜の火山を、ひらひら懐中電灯の灯りを振って一人で降りてくる人は、犯罪者以外の何者でもない。だが大学生はそう感じるだけで、その感じをどう考えていいか知らなかった。(序章より抜粋)

 人間は暗い感情に感応するというか、呼応する性質を帯びているのかもしれません。
 高橋たか子はこれを作中で「磁場」と表現しています。その磁場は、それを望む者のみでは成立し得ず、そこにそれを受け入れる者、容認する者がいて初めて成り立つのです。
 自殺を望むものは生を望み、その死を成就するための媒体として、容認する者を必要としている。死の理由はある、しかし、それは死そのものをもたらすものではない。それを成就させるためには道筋を作るものが必要なのです。
 その道筋を作るものは、他人が何をしようとそれを認めるものでなくてはならないのです。それがデモノロギー的なものであったとしても「優しさ」と呼ぶことは可能なのでしょう。鳥居哲代はその様な内面を持つ人物として描かれています。

 作中にはいくつかのテーマがありますが、そのひとつに「夢」が挙げられ、織田薫が鳥居哲代に送った日記の断片に次のような記述があります。

 変わった夢をみた。夢のなかで、わたしは修道女のような恰好をした人に出会った。その人は、誰も入って行くことのできない建物の中で、坐って瞑想をしていた。だがわたしは、開かれている窓をとおして、その人と話をすることができた。驚いたことには、その人はわたしとそっくりの顔をしていた。わたしには何もかもわかった。その人のいるのは仮に死と呼ばれている世界で、わたしのいるのは仮に生と呼ばれている世界だということ。わたしが理解したことがそのままその人の口から言葉になって出てきた。「私はいま眠っていて夢を見ているのです。その夢があなたなのです」と。(第六章より抜粋)

 ショーペンハウェルは「私たちは、かつて目が覚めていた。やがて、ふたたび目を覚ますであろう。人生は、ひとつの長い夢に充たされたひと夜であり、夢のなかでは人は、とかくうなされる」と言い、「死はひとつの目覚めである」と言っています。
 自分の一生は、誰かの見ている夢であるという想像は多くの作品の題材となってきました。そこでは現実と夢という曖昧な分岐を、有限である表層意識世界と無限である潜在意識世界とを対比させ、前者を現実と呼び、後者を虚実、或いは、イマジネーションと呼ぶのであれば、後者のほうが遥かに自由で豊かなものであるのでしょう。
 こちら側の自分が死ぬことで、あちら側の自分が目覚めるという発想はそこから生まれてきています。

 次に作品の舞台の中心である「火山」です。自殺の形態には様々なものがあります。例えば同じ投身であっても水と火の場合です。

 ガストン・バシュラールは「水と夢 物質的想像力試論」の中で「水は若く美しい死、花ざかりの死の元素であり、人生と文学のドラマにおいて、水は傲慢さも復讐もない死と、マゾヒスティックな自殺の元素である。水は、自分の苦痛に泣くことしか知らず、目がすぐに『涙に溺れる』女性の深い有機的象徴なのだ」と述べ、水による死は「水との調和」を図るものだと言っています。
 では「火」はどうなのでしょう?
 体を燃やし尽くすほどの火。それは完全なる消滅なのです。そこでは命を思い出させるなにものも残させはしない世界。調和などなく、一方的な消去しか存在しない世界の象徴として描かれています。

 作品は神と悪魔を時折交えながら「死の構造」に触れていきます。織田薫と鳥居哲代の最後の会話にそれが閉じ込められています。

 「死ぬというのはね、潜在意識のなかに入っていくようなものよ意識は有限だけど、潜在意識は無限だわ。無限で命に充ち充ちてる。そこを支配しているものを、神という」
 「いいえ、そうじゃない」
 と、鳥居哲代は逆らった。
 「潜在意識は確かに無限だわ。無限で暗い。私がそこへ入って行くというものじゃなくて、むしろそれが、いつも私の意識に波の打ち寄せるように干渉しにくる。そこを支配しているものを、私は悪魔と名付ける」

 それらは人間が人間自身の手では知る事のできない不可知な領域世界です。

 この物語の結語です。

 「火口のなかはぱあっと明るい」
 と、さっき無理に言わされたことを、今度は自分から言ってみた。

 死にたがる者、死ねなかった者、生きていたくないと思っている者。それぞれは微妙ながらも確固たる差異をもっていながら、「死」と言う概念を通じて同じ「磁場」を作り引き寄せられてしまったのです。
 この物語に「優しさ」を感じると言ったら訝しがられるかもしれませんが、読み返すごとに僕は、「鳥居哲代」に受動的な優しさを感じてしまうのです。









 
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誘惑者 不感無覚

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