荏柄天神にて

 僕はラブ・ソングが嫌いだった。
 普段は気恥ずかしくて口に出せないであろう恋愛感情も、歌にしてしまえば簡単に口ずさめる、そんなところがどうしても許せなかった。
 ディズニーのアニメ映画のごとく現実に愛を歌って踊る人間がもし目の前にいたなら、僕は黙ってそれを認めただろうけれど、巷のラブ・ソングのどれもこれもがすべて商業ベースの言葉で誂えられたものにしか聞こえなかった。恋愛を騙って誤魔化すだけの無責任な言葉の放擲にしか思えなかったのだ。
 何より、高校生の、あの頃の僕は、好きな女性に触れることもできないと、そう信じ込んで怯えていたし、その前提としての僕のような男に関わる恋愛が現実にはあり得ないと失望もしていた。
 恋愛を崇高だと思っていたわけではない。
 僕はすでに恋愛を諦めていたのだ。
 当時を振り返ってみればきっと僕がゆがんでいたんだと思う。
 恋心が以心伝心で分かり合えるなどと超常的な感覚でもないこともわかった気がしていた年頃で、恋を偽りだと言ってみたい幼い反抗期であったことも手伝っていたかもしれない。
 とにかく、僕のラブ・ソング嫌いは説明のできないコンプレックス・イッシューだった。
 それは残留痛覚のように曖昧にぼやけたままずっと刻まれて、今もまだ僕のどこか意識できない部分で鈍く続いている気がする。
 そんな僕であったから彼女からお誘いが来た時には半信半疑で鎌倉へ向かった。

 あの頃の鎌倉は駅前の再開発の話題と、ちょっと前にNHKで放映されていた大河ドラマ「草燃える」で一応の注目を集めていた。
 特に大河ドラマはそれなりの観光収益を上げたと思う。
 記念切符やロケ場所、撮影隊ご一行が立ち寄った飲食店などなど、そこここにまだまだ名残をまき散らしていた。
 しかしながら僕はこのドラマの内容を知らない。一話も見たことはなく、役者にも興味がなかった。ただ目障りな看板やらポスター、自慢げに「さあ、ご覧あれ!」と店内に飾られた色紙とかに酷く嫌気がさしただけの事だった。

 その日、僕は荏柄天神へと真っ直ぐに向かった。そこにある大銀杏で彼女と待ち合わせをすることになっていたから。
 鎌倉駅に着いたのが午前10時ころ。休日で混み合う改札を抜けて、当時、京急バス6番乗り場から出ていた「大塔宮」行のバスに乗るつもりでいたのだけれど、思ったより並んでいる人が多く、その中に混じる気にもなれず歩くことに決めた。
 そして歩きながら考えた。
 「なぜ荏柄天神で、大銀杏なのだろう」
 荏柄天神の大銀杏は建立された1104年に植えられたと伝えられている。それが本当であれば鎌倉では法性寺の竹柏、鶴岡八幡宮の隠れ銀杏と並ぶ古木ということになる。
 大銀杏の植えられた場所は「天神画像」が天降った地点であり、その神聖な土を人が踏み荒らすことによる神の障りを畏れた人々が、その地を踏まぬようにと植えたものであるらしい。
 つまりは禁忌の場所である。
 「踏み入るを許さじ」の場所。
 待ち合わせ…。
 何かの冗句なのか、それとも何も考えていないのか。
 いずれにしろ何某かの悪戯心はあるはずである。僕はそれを疑わなかった。
 そして次の問題は「そこからどこへ行くのか」である。
 僕は歩く暇つぶしに思いつくあれこれを並べてみた。けれど直にやめた。
 彼女の頭の中にある行動予定表を僕ごときに開けるはずがない。まして土地鑑で劣る僕が彼女をエスコートできるルートを選択できるわけがない。

 徒歩とはいえ時間を持て余していた僕は待ち合わせの40分以上前に荏柄天神に着いた。なのに既に彼女はそこにいた。小さく胸の前で手を振りながら「は・や・く」とゆっくりと口だけを形作った。
 それに合わせるように少しだけ走るポーズを決めて僕は彼女に近づいた。
 「ごめん、待たせた?」
 「うん、待ったけどね。予想通りでした。」
 彼女は初対面の時と同様に無邪気に笑う。
 「お昼っていっておけば、その一時間前くらいに来ると思ってたから。」
 何という高評価であったろう。僕は返答に窮した。
 僕はそれほど几帳面ではない。ただ単にその「お昼」と言う時間に合わせる交通手段がなかったに過ぎない。もしも僕が時間に正確な性質だったら、恐らく今見ている彼女はこれほど上機嫌ではなかったかもしれない。そう思ったら少し怖くなった。

 最初に説明するのを忘れたけれど、これが僕と彼女の「返却」以外での初めての待ち合わせだった。

 「荏柄天神のことは知ってるの?」と彼女が訊いてきた。
 「簡略なガイドブックの5行コメントくらいには。」
 「うん、それで十分ね。他に説明することはないわ。知りたければ境内のあちこちにある立札でも読んでね。」
 価値は説明に付随しているものではない。見ているものによっているのだから心しだいということか。
 そうして僕たちはざっと境内を見て回った。

 荏柄天神には凡そ歴史的には所縁はないであろう「かっぱ筆塚」と言うのがある。昭和46年、挿絵画家の清水崑が愛用の絵筆を供養のため奉納したのをきっかけに作られたものである。自然石の表に清水崑のかっぱの絵、裏には川端康成の筆で「かっぱ筆塚」の文字が刻まれている。両人とも鎌倉ゆかりの文人である。
 ちょっと見にはそぐわない気もするこの筆塚はそれなりの知名度を徐々に集め、観光の穴場的なものなっている。まあ面白いものだと思い眺めた。
 会話よりも沈黙の多い、ただ歩いているだけの時間だった。結果として一人で来ていても同じ時間を過ごしていただろうと確信できるほどの。
 ディズニーならおせっかいな小鳥やリスが現れてひやかしたり、或いは、応援してくれたりするのだろうけれど、僕には呪いの歌を歌ってくれる魔法使いの知り会いもいなかった。
 こういう時、ネタでいいからUFOでも出てこないかなとどうしようもなく空を見上げた。
 自転とは逆回りに動く光る物体をUFOだと騒ぐにしても、ラッシュ・アワーの新宿駅のように賑わう各国が競って打ち上げた宇宙のゴミは、こんな肝心な時に見当たりもしなかった。
 小一時間ほどで大銀杏まで戻ってくると彼女はすぐ近くのベンチに座ってバッグから白い包みを取り出した。
 「サンドイッチ。」
 手短にそれだけ言い、僕に隣に座るよう促した。
 彼女はランチを摂っている間、おしゃべりらしいものはしなかったし、僕も話しかけはしなかった。
 時折強く吹く風に髪が乱れるのを抑え、僕に具の説明を添えながらサンドイッチと飲み物を勧め、それと同じ感覚で、足元に寄ってくる鵯に小さくパンを千切っては投げ与えているように見えた。
 サンドイッチを食べ終えた後、立ち上がった彼女は散っている銀杏の葉から形と緑色の良いのを2枚選んで、ランチボックスをくるんでいたナプキンに一緒に包んだ。
 僕は「それをどうするの」とは訊かなかった。僕には関係のないものだと思ったので。 
 
 彼女はぼんやりと銀杏を見上げてから、その左にある階段を見やった。
 そして、ぽつりとこんなことを言った。

 「私ね、小さな頃にここで幽霊にであったことがあるの。女の人でね、ノースリーブの白いブラウスと紺色のスカートを着ていた。季節は今と同じくらい。私は母とここに来ていたはずなのだけれど何時の間にかはぐれてしまっていて、ただここにいれば母が来てくれるような気がしたから、この木の前で待っていたの。
 光が鮮やかな午後で、土のうえに落ちた葉漏れ日が金雲母を集めたみたいに跳ねていたのを覚えている。
 何もかもがはっきりと映える景色の中でその人はまるで蜃気楼のようにそこの階段の、そう、最後の一段を上るのを逡巡しているように立ち止まって私を見ていたのよ。気のせいではなく確かに私を見ていたの。
 最初は不思議にも思わなかったのだけれど、次第に変に思えて。私も凝っとその人を見つめていた。というか、目が離せなくなってしまったのよ。目を逸らした瞬間にどこかへ連れて行かれそうで、怖くて、見ているしかできなかった。どれくらいの時間だったのかはわからない。
 しばらくして後ろから私を呼ぶ母の声がして振り返ったの。『お母さん!』って叫ぶようにして声をあげて、向き直った時にはもうその女の人は消えていたわ。
 母にそのことを話したら髪の毛をそっと梳くように頬と耳を柔らかく触りながら『こんな鮮やかな夏の午後には、心を残した人の影が映るのものなのよ。怖がらなくてもいいの。その人は何もしないから』とそれだけを言って手を繋いだ。
 私は帰る道々、ずっとその女の人のことを思い返していたわ。懐かしそうな、寂しそうな、まるで駆け寄りたい衝動を無理に抑え込んでいるかのようにも見える顔。
 何度も何度も繰り返しその顔を思い浮かべた。そして、気が付いたの。あの人の顔は少し私に似ていたってね。」
 僕は汗をハンカチで抑えながら彼女のいう階段を見た。
 「夏の真昼に陽炎のたつ。」
 僕は無神経にもそう呟いてしまった。呟いてから、しくじったという顔をした僕を見て、彼女はちょっと可笑しそうに笑った。
 「そう、陽炎ね。私を映していたのかもしれないわね。何十年後かの、私。」
 彼女はそれだけ言うと、もう話はお終い、という風にパンっとひとつ軽く手を叩いた。





 
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