高井有一「夜の蟻」

 夜、部屋に迷い込んできた一匹の蟻をみつけた。
 そいつは電灯の明かりの下で半狂乱の様子で歩き回っている。
 蟻は仲間のつけた蟻酸の痕を頼りに動線を決める習性がある。なのにこいつはたった一匹で迷い込んできた。
 導くものを失ったはぐれ蟻なのだ。
 もう帰巣することはできまい。
 案の定、じっと見ていると、こいつは無意味に忙しなく歩き回っているだけなのであって、同じ弧の中から出ることができないでいる。どこへも行かれないままでいる。
 自分の軌跡をただなぞるだけだ。足跡から抜け出せない。
 お前自身が描くその弧からほんの少し外れることができれば簡単に別の場所へと行かれようものを。
 自分が置かれた環境から逃れることを望みながらも、それができずにただ必死に弧を描く。哀れと思うか、愚かと笑うか。
 けれども迷いを生じた僕自身もこの蟻のように、同じところをぐるぐる回りつづけるだけなのだ。思考は先へ進まず同じ弧を描きながらくよくよと悩み続け、迷いから抜け出せずにいる。メビウスの輪に囚われた狂った蟻の姿が迷いにかられた人間そのものなのだ。

 僕は答えをみつけることができない。
 僕は手で蟻を打った。


 高井有一「夜の蟻」

 夜の蟻 (筑摩書房、1989年初版)

 … それからは紆余曲折があった。妻が間に立った。妻は毅夫の話を私より先に聞いて、内心私の賛成を期待してゐたらしい。どうせあたしの方が後に遺ってあの子の世話になって暮すのだから、あの子の気に入らない事はさせたくない、と言った。私は黙っていた。…
 
 高井有一の「夜の蟻」を読み返している。
 仕事に尽くした人間は定年後の自分の生活に何をみることができるのだろう。
 この本の主人公「私」は定年を機に息子夫婦と暮らすことになった。長年住み慣れた家を取り壊し、二世帯で住むに便利な無味乾燥の箱型の家を新築する。

 その家には拘りは存在しない。

 … ふん、叔父は鼻を鳴らした。俺も行ってみて来たところだが、あれはまったく毅夫の家だな。どういふ意味です。私は少し身構えて足を降ろし、靴を履いた。あんなどっかの団地の集会所みたいな家を、お前が好き好んで建てるわけはないからな。そうですかね。私は笑って受け流すしかなかった。…

 主人公は定年後の自分を持て余している。
 かつての職場があった街なかを歩き、その残滓を見る。しかし、人も街も動き続け同じままでありつづけはしない。
 同僚の消息も、聞こえてくるサラリーマンの会話も、懐かしいはずの店も、彼を所在なくさせ、苛立たせるだけでしかない。
 過去に対するプライドと、外された人間である自分。

 … 無神経なのはいけない、とこみ上げるように思った。鰯料理屋で飲んでゐた男たち。この男は女房に死なれて一人だと、労わる振りをして人に広めてはいけない。佐渡原貴久三。懐かしく思って個展会場を訪ねたのに、どうして上の空で人の話を聞くのか。お前が無名の時代、俺が一度だってぞんざいなあしらひをしたか。海渡。あの男の名前は思ひだせない。街中で呼び止めて、歩き方が変わったなどと言ってはいけない。所在なさそうな退職者相手に功徳を施したつもりか。すいすいと恰好よく歩いてみせたな。それがいつまで続けられる気でいるのか。お目出度い奴だ。…

 今から20年後、いや10年後、もっと短くてもいいが、その時の自分の姿を思い浮かべられるだろうか?今と同じ生活を続けていられると言えるだろうか?
 体は老いて自由は利かなくなる。誰もが老いてゆく。それは知識として理解している。では現実にその「自分」を想像できるだろうか?家族はどういう形に変わっているのだろうか?
 
 誰もが、突っ走った日々を持っている。青春は誰にでもあり、働き盛りに咲き誇った壮年期もまたあったのだ。その過去を思い出して、現実と比較し、また懐古に沈む。

 これでよいのか、と言う迷いと不安は同じところを回り続ける。道を失くした狂った蟻のように。

 「夜の蟻 迷へるものは弧を描く 」

 中村草田男の俳句である。
 冒頭の描写はこの句に基づく。






 
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