スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

千羽鶴 … 円覚寺

 以前に円覚寺で井上禅定さんにお会いした時の話をしましたが、その日の午前、つまり井上さんにお会いするまでの出来事です。もう昔のことなのに僕はまだ彼女の言葉を思い出せます、とても不思議なことに。しかしそれも彼女に言わせれば「記憶の再構築」なのかもしれません。


 秋を迎えようとする空に蝋石で引いたような一筋の雲が走っていた。蒼天の傷痕にさえも思える白い軌跡。
 溢れる蝉の声。
 突然、火が付いたように法師蝉が鳴きだし、その声は際立ち、すぐに止んだ。
 風は木立の上方を渡り、さざめきを残して過ぎて行く。
 僕たちは円覚寺の中にある仏日庵で催されていた茶会に一見の客として席を分けていただいていた。
 井上禅定さんとの約束の時刻まではまだ間があり、かといって他所を訪うような時間はなかった。この茶会は隙間を埋めるのにちょうどよかった。井上さんと彼女の父親は何らかの知己らしいが詳しくは訊かなかった。
 毛氈に行儀よく座った腿の上に茶碗をおいて彼女は、別の人のために点てられる茶の仕種をみている。
 晩夏の日差しは建物や人、木々、その他あらゆるものの形と色を明確に浮き出させた。暑さがそれほど苦にならないのは昼前ということもあるだろうが、やはりもう夏ではないことのあらわれであると思った。
 「ここで黒の織部を挟んで菊治と4人の女性が邂逅したのよね。」
 彼女はまるで思い出を語るようにぽつりと言った。
 「ちか子は乳房にある大きな痣のために女としての望みを棄てて菊治の父の妾の一人として過ごした。未亡人となった後に、やはり菊治の父の愛人として生活を工面してもらっていた太田夫人とその娘の文子、それから、ちか子が菊治に紹介するために呼んだ稲村家令嬢のゆき子。ゆき子はあくまでも無垢で清純に他の四人の物語の外におかれている。羨ましいくらいに慎ましく、綺麗にね。何ひとつ罪を負っていないひと。」
 彼女はそう言ってから抹茶にひと口つけた。
 「川端康成の千羽鶴だね。一瞬なんの話かと思った。」
 鎌倉を舞台にし、円覚寺のここ仏日庵から始まる小説。
 「すぐに思いつくだけでもたいしたものだわ。それだけでもご褒美をあげてもいいわね」と笑った。
 川端の「千羽鶴」はしとやかな流麗さをもっている。その物語冒頭の菊治とちか子の人間くさい言葉のやり取りの内にある邂逅の場面であっても、しめやかな破局が香り立つような川端らしい美文をまとっている。
 彼女が言ったように、ゆき子は菊治とちか子、太田母娘の絡みあいからは一歩離れた場所にいる、いうなれば蚊帳の外の登場人物であった。外に置かれたその女性は純真さを示すかのように、汚されないよう細心の注意を払って描かれ、そのゆき子自身が願いを込めて丹念に手折られた千羽鶴であるのかもしれないと思えた。鶴自身は美麗な千代紙でしかないが、手折る人の指が心を入れて行く。
 美しきかの人は端正な千代紙、せめて心なき人に折られぬように。
 添えてあった干菓子を食べ、半分ほど残っていた茶を飲み干し、僕は茶碗を置いた。
 「小説ほど人を美しく描き出せるものはないわね。犀星が『純愛は小説の中にしかない』と言ったけど同感。純真とか無垢とかも物語だけの話ね。そんなもの保ち続けていられないし、もとより持っていないもの。物語のなかでは憎しみさえ純粋で綺麗。現実の憎しみなんてもっと混沌としてて、かつ、空虚なもの。中身のないサスペンスドラマよりも空っぽ。整合性の理論なんて通じないのが現実だわ。」
 「確かに君の言うとおりに、そんな風に純粋なものがない不純物だらけの感情だから現実は面白いとも言えるのかもね。感情が事件を引き起こすのに、その感情がはっきりしないのだから。だから真実がない。それから論理的でもない。美しい理想は芸術のなかにしかないって感じかな。」
 「起こっている事件の事実はわかっても真実なんてわからないのよ。当事者たちでさえも。事件を整理すれば何が起きたのか、本当に起こった事実は判明するでしょうけど、それだけだわ。感情がどんなものであったのかなんて説明できない。事件の動機は多かれ少なかれ誘導によって作られてしまう。つじつまがあうように。そこで必要なのは第三者のすべてを納得させることではなくて、実行当事者を納得させること。その本人が理解できるように理由を作らせることなのよ。『よく考えれば…だった』なんて結果からの遡行にすぎない。それで納得しようとするなんて滑稽ね。」
 そこで言葉をとめてから彼女は「ごめんね、嫌な言い方ね」と言って仏日庵を出ると足を帰源院へと向け、門の左側にある剪定され整えられたばかりに見える植え込みに囲まれている漱石の句碑の前で立ち止まり、それを読み上げた。
 「仏性は白き桔梗にこそあらめ。」
 彼女がそれをどんな気持ちで読んだのかはわからない。
 ただこう思っただろうことは想像に難くない。
 「白が清らかだとは限らない。」
 空を見あげると先ほどの飛行機雲は既に拡散して帯状に広がっていた。もうしばらくすれば消えてしまうだろう。
 時計を見ると井上さんと約定した時刻が近づいている。僕たちは円覚寺の社務所へと向かった。




 
 
スポンサーサイト

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

コメントの投稿

非公開コメント

sidetitleプロフィールsidetitle

otosimono

Author:otosimono
全く役に立たない独り言です。

sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitleFC2カウンターsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。