七里ヶ浜

 思い出はランダムに現れる。「あの頃」と言う言葉ひとつでタイム・スリップを起こし、いくつもの「あの頃」へ心を引き戻していく。

 和賀江

 198X年、秋。

 「冬の気配がするね」と彼女は砂浜から拾い上げた貝殻に耳をつけて呟いた。
 まだ10月の半ば、初霜の季語にもまだ数日の間があり、冬の足音を聞くには少しばかり先取りがしすぎる。
 なのに彼女は「冬の気配がする」と言う。
 漱石の「こころ」で「先生」との出会いの場となった材木座海岸。
 長く伸びる海岸線のほぼ中央で東西に分けるようにして流れる滑川を境に、東側を材木座海岸、反対側を由比ガ浜と呼び、かつては鎌倉七座と言う商工組合のうちの材木座が置かれたことからこの名がついたらしい。
 少し先に行けば日本最古の人工島港「和賀江嶋」があるが、現在では僅かに不確かな石組を覗かせるだけでほとんど海面下になってしまっている。
 今はこれといってその名を忍ばせる風物もなく、夏には相応の賑わいを見せるのだろうけれど、波の音と風の音、時折名ばかりの国道を走り抜ける車くらいしかない寂れた成りをしていた。
 七里ガ浜、稲村ケ崎、腰越海岸など鎌倉には史跡、景勝地として有名な海岸は他にもある。しかし、彼女はここが一番好きなのだと言う。
 「特色がないって言われればそれまでだけれど、この閑散とした浜こそ鎌倉らしいとは思わない?」と笑った。
 この地に育った者だけがわかる感覚なのだろうか?
 貝殻を拾う隙間も無いような盛夏の江の島海岸ごときは僕も苦手ではある。しかし「材木座」という野暮ったい名よりも言葉の上っ面だけだと一笑にふされそうだが「秋深まる七里ガ浜」の方がロマンが香り立つ気がする。まして川向こうは和田義盛や静御前の怨念渦巻く由比ガ浜である。だがこれは明らかに僕の無知を曝け出した軽薄すぎる言い回しであったことに気づかされることになる。けれどもこの時は少なくとも二人で歩くにはそうした修飾も必要だろうと思った。
 僕は、他に比べれば話題に乏しいとも思えるこの海岸に立つ彼女の背中を目で追いながら、彼女の言う「鎌倉らしさ」をぼんやりと探してみた。
 不意に彼女が、「ねえ、手をつないで海をどこまで歩けるか試してみようか?」と振り向きざまに言った。
 その時、風と波が一瞬大きく鳴り、彼女の肩に掛かる真っ直ぐな髪と柔らかなレモン色のプリーツ・スカートを揺り動かした。控えめなフリルのついたシフォンブラウスは、真昼の光にそれ自体が輝きでもするかのごとく跳ねる様にその白さを尚一層際立たせた。
 「冗談だけど」と彼女は茶目っ気をだして微笑む。
 「たとえばね、入水自殺をした人の何人かは本当は死ぬつもりじゃなくて、どこまで二人で手を繋いでいられるかを試そうとして、うっかり死んじゃったんじゃないかなぁ。手が解けたら戻ろうねって打ち合わせをしていたけど失敗しちゃったみたいな。」
 彼女は持っていた貝殻を海に投げながらそう言い、僕は「そんなこともあるかもね」と腰越心中と呼ばれた事件、太宰の「道化の華」を頭の中に浮かべながら気のない相槌を返した。
 それから「確かに遠浅のこの浜はそうしたことに適しているかもしれない」とも思った。
 僕たちはゆっくりと浜辺を西に向かって歩き出した。
 「このまま歩ければ七里ヶ浜ね」と彼女は言った。
 彼女は2、3メートル先を歩いていく。僕は低く飛ぶ鴎と時折鋭い声を発する鳶やそれに追われる長元坊を見上げながら彼女に続いた。
 「同じ方向を見てどこまでも歩いていかれればいいのに。行先に迷うことなく、繋いだ手がほどけても、目指す場所が同じならきっと一緒にいられるのにね。」
 彼女は小さな白い巻貝を拾い上げながら言う。
 僕は咄嗟に「愛するということは見つめ合うことではなく、同じ方向を目指して行かれるかどうかである、って誰かが言ってたね」と、定かではないフレーズを記憶の中から拾い上げた。
 「それって正しくは、愛するということは互いに見つめ合うことではなく、二人がともに同じ方向を見つめることなのだ、ね。あなたの好きなサン・テグジュペリでしょう」と足を止めて振り返った。
 それからこうつぶやいた。
 「あなたは何を見ているの?」
 それは真剣な問いかけだったのか、それとも単純な文字通りの質問だったのか、それを彼女の表情から読み取ろうとして僕は彼女を見つめた。けれども真意を測ろうとするには僕はまだ子供で、その時には、答えをはぐらかすことしかできなかった。
 僕はこう答えた。
 「七里ヶ浜。」
 沖を行く船のセイルの白い輝きが幻のように波頭を滑って行き、海風は穏やかに僕たちの間を吹き抜けていった。
 彼女はほんのしばらく息を止めるようにしてから、小さいがよく通る声で歌いながら歩きだした。

 真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも 今は涙
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに捧げまつる胸と心

 ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も浪も 小さき腕に
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 恨は深し 七里が浜辺

 み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて 月も星も影をひそめ
 みたまよ何処に迷いておわすか 帰れ早く 母の胸に…

 「この歌、知ってる?」
 「いや、初めて聴いた。何の歌?」
 「明治43年にね、実際にあった事件を悼んだ歌。逗子開成中学の学生12人が乗ったボートが七里ガ浜の沖合いで転覆して全員が亡くなったの。稲村ガ崎の海浜公園に海に向かって立つ二人の少年の像があるでしょう。あれはその慰霊碑なの。」
 「ごめん、それ覚えてない。ちゃんと見たことないかも。」
 僕はすまなそうに彼女を見た。しかし、彼女はそれを気にも止めていなかった。
 「大多数の人には関係ないし、昔のことだから、誰かが教えてくれないと意味不明な少年像で終わっても仕方ないかもね。私は自分の学校が関係していたから耳にする機会もあったし、何十周忌が忘れちゃったけど事故が起きた1月23日に慰霊の礼拝があったから。逗子開成と鎌女は兄妹校だったの。」
 そこで言葉を一度区切ってから、また話を続けた。
 「本当は舎管の先生の許可がないと駄目だったらしいんだけど、生憎、その日は同僚教師の送別会があって外出していたの。そこで、学校のボートを無断で持ち出して鳥を撃ちに行って事故に遭ったのよ。」
 「それって生徒が全面的に悪いんじゃないの。」
 「一般的にはそうね。でも、世間はそう見なかった。舎管の先生がいれば事故は起きなかったってね。そして一人の教師が責任を負わされて辞職させられたの。それが小説家、宮内寒彌のお父さん。」
 「宮内寒彌」と僕は頭の中の蔵書を検索しながら繰り返した。
 「彼のお父さんはね、彼に教科書以外の本を読むことを禁じたわ。文学の本を見つけられた時には目前で焚書の実演をされたみたい。宮内寒彌の『七里ヶ浜』にそういう場面があったもの。彼は早稲田大学に進学するまで文学を読む機会をあたえられなかった。そして、それが彼を小説家にしたのよ。ねえ、運命って信じる?」
 「僕は運命論者じゃないから。それに最初から決まってるなんて馬鹿馬鹿しい。」
 「でも、辿っていくとそこへ行き着くことってあるでしょう。」
 彼女は僕の目を覗き込むように言った。そして、後を続けた。
 「さっきの歌は『七里ヶ浜哀歌』って言うんだけど、うちの学校に居た三角錫子っていう先生が作詞したの。その女教師と宮内寒彌のお父さんはお見合いをするはずだった。でも、この事故でその話は立ち消えてお終い。と、同時に文学禁止の下地にもなったの。」
 「お見合いが流れたのは事情もあるだろうけど、文学は関係ないんじゃない?」
 彼女はそれには答えずに、数歩波打ち際に近づくようにして徐にこう言った。
 「ねえ、何かに心を惹かれて、そこで生きてみたいって思ったことない?」
 僕はその質問に真摯に向き合えるほど人生経験があったわけではなく、それほど重い感慨に打たれたこともなかった。だから「本を見て、そこへ行ってみたいとは思ったことはあるかな」と答えた。彼女は「それも同じことなのかもね」と少し目を伏せた。
 「宮内寒彌のお父さんはね。徳富蘆花の『不如帰』を読んで逗子に来ようって思ったらしいの。悲恋物語の登場人物に共感して、その地で暮らしたいってね。物語への憧憬が現実の感情となってしまった。ひとつの文学小説が生きる場所を選ばせたのよ。そして、失敗してしまった。だから、彼のお父さんは感情に影響を与える文学を禁止した。」
 「物語の主人公に恋をしたり、無いはずの場所に憧れたり、人は架空の世界を感情の中で現実に移してしまえるってことだね。あこがれとも言うけど。」
 「そう、ね。蘆花の小説には現実のモデルがあったの。それも禍したのでしょうね。宮内寒彌はこの事故と自分の出生とを切り離すことができなかった。ううん、違うわね。事故があったから自分が存在したと考えたの。人間の誕生としても、小説家の誕生としても起点になったってね。ふたりともロマンティストだったのね。その他にも宮内寒彌はいくつかの運命的なつながりを感じていたみたいね。軍艦『松島』と生徒が乗っていた『箱根号』、『不如帰』の浪子のモデルになった大山信子と逗子。古戦場としての七里ヶ浜と祟りとかね。」
 そういって風に髪を抑えながら彼女は微笑んだ。
 僕は彼女を見つめながら、彼女の憧憬が、彼女がその先に見ているどんなものに重なっているのかを考えた。それから、彼女の言葉を思い返した。

 「同じ方向を見てどこまでも歩いていかれればいいのに。行先に迷うことなく、繋いだ手がほどけても、目指す場所が同じならきっと一緒にいられるのにね。」

 七里ヶ浜まではまだ距離があり、そこへ着くころには時計は午後2時を回るだろうと僕は思った。




 
 

 
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はじめまして

こんにちは!

いつもブログ拝見させていただいております。

また、いつもご訪問いただきありがとうございます。
早速新しいブログにもご訪問いただき大変嬉しいです。

大したことはかけませんが、よろしければこれからも
よろしくお願いいたします。

ありがとうございます

ネットの向こう側にいてお互いに素顔を知り会える機会はありませんが、文字だからこそ伝わる部分、伝えたい事があると思います。お互いのブログを行き交う中で何かを感じることができれば十分なのだと思います。新しいブログを楽しみに、今後も訪問させていただきます。宜しくお願い致します。

唐突なるコメントをお許しください。

宮内完彌の「七里ヶ浜」を今日読み終えたのですが、内容が重いので心がザワザワして仕方が無く、どこかに感想を書いている方はいらっしゃらないかと探していて辿りつきました。

「彼女さん」の事件や本の内容の捉え方があまりに適切なので感動しました。そして「彼女さん」の冷静な受け止め様に、私の心のザワつきがお陰様で収まりました。

過去の記事への突然のコメントをお許しください。

特許婆 様

ご訪問、並びに、コメントをいただきありがとうございます。
宮内完彌の「七里ヶ浜」という作品は、彼女に教えられるまで僕は知りませんでした。
この後、慌てて本を探して読んだ記憶があります。
「七里ヶ浜」にしろ「からたちの花」にしろ宮内完彌の作品には、自分の根源、原風景に向き合おうとする姿勢が強く表れています。
それは単純に内省的というのとも異なると思います。
もしご興味がございましたら他の作品もお読みになってみてください。

またご訪問いただければ幸いです。
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全く役に立たない独り言です。

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