梅崎春生「砂時計」

 「忘れる」と言うのは何を意味しているのかを考えていました。そんな中で書棚から取り出してきた本の話です。

 小説の中心が常に人物である必要性はないと思わせる作品があります。登場人物の誰が主人公であるのかという視点で物語を追いかけるとすべてが収束しない、中途半端な印象を受けてしまうような。それを一歩距離をおいて眺めてみるとその中心にあるのは、人間が潜在的に有する負の感情のディテイルそのものが主人公であったりします。梅崎春生の「砂時計」がまさにそのような小説です。

 梅崎春生「砂時計」 「砂時計」(署名)
 (梅崎春生著、初山滋装丁、大日本雄辯會講談社刊、昭和30年初版)
 
 小説は夜の陸橋のある道の情景からはじまります。それから作者は街灯に目をうつし、次のように描写します。

 「夜、陸橋のたもとには街灯があった。しかしそれは緑のペンキを塗ったブリキの笠だけで、電球はくっついてゐなかった。球の金具の部分だけが笠の中心にはめこまれ、そのままぎしぎしと錆びついていた…」

 本来明かりを灯すはずの街灯がその役目を放棄し(或いは、放棄せざるを得なく追い込まれ)、その状態でそこにあることが今から道をゆく人物には当然のように映し出されます。道を行く彼にはひとつの目的があり、それを遂行するために街灯の下に立ちました。

 梅崎春生は推理小説の手法をつかって「砂時計」を構成しています。文はあくまでも技巧的に組み立てられ、技巧的に過ぎるようにも感じ取れます。

 舞台は、白川社会研究所、夕陽養老院、カレエ粉対策協議会を転々とし、登場人物は多く、主たる事件は2日間の間に生じます。錯綜する物語の交点にいるのは「栗山佐助」です。

 彼は白川社会研究所の臨時職員であり、夕陽養老院の書記であり、カレエ粉工場の公害に抗議する住民団体「カレエ粉対策協議会」のメンバーでもあります。その全てに携わってはいるけれども、そのどれにも情熱を持たない人物です。彼は記憶を保つために記録をよりどころにしている人物であり、否定、拒否することで自分の安全と他者との距離を保とうとします。
 白川社会研究所の先輩である牛島は彼を「手帖やメモに頼るから弱くなる。行動的じゃなくなるんだ。… メモはメモだけに終わって、メモ自身からは何もうまれっこないんだぜ」と的確に指摘します。

 佐助が体験し、追っているものは人間の中にある悪意であり、それは概して巨大な悪意ではなく、ごく一般に心に巣食っている権利欲であり、自己保身であり、他者糾弾といった小さな悪意、そしてそれがもたらす混沌です。
 人間の善意とはどこに存在しているのかを佐助は無意識に探し、そして、悪意の根底は記憶のなかにあるのではないかと反問します。

 「イヤなもの、腐敗したものを食べると胃はどうするか。嘔吐というやり方でこれを排除してしまふ。目にゴミが入ったら、目はどうするか。涙をさかんに出すことによって、異物を流し出してしまふ。そんな具合に僕が死なうとした気持ちや動機が、あまりにも耐えられないものだったために、僕の記憶が自動的にそれを排除し、追放してしまった…」

 彼は記憶、或いは、記録が排除消去されることによって「自分は一度死んだのだ」と言います。しかし、そこに善意の生じる隙はありません。なぜなら彼が失った記憶は「動機」というほんの一部分にすぎないからです。

 梅崎春生は悪意をもった数多くの登場人物を滑稽に諷刺するとともに憐憫の眼差しを注いでいます。その象徴が頭を殴打され一時的に記憶を失った乃木七郎に表されます。
 自分が何者なのか、何をしていたのか、これから何をすべきだったのか、それらを喪失した表情を素直な善意の笑顔として書き出します。

 過去を持つということは執着を生み、その執着の堆積は生涯の煩悶となり、生そのものを争いのなかに浸し、汚すことになります。
 善意とは無垢によってしか存在しないのでしょうか。砂時計が誕生と共に動き始め、落ちて積もる砂は記憶の汚濁であり、悪意であり、それが落ちているのではなく吐き出されているとしたのなら生じる空白は清浄さであり、善意の空間なのでしょうか。
 完全な忘却が訪れないかぎり安静な精神が得られないのならば、砂が落ち切った後に残る空間を忘却と呼ぶことは可能なのでしょうか。死が忘却と同義かはわかりません。けれども時を過ごすということが過去の堆積であると同時に、忘却の拡張であるのなら、最終的に人は救われるのかもしれません。

 

 
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