伊達準之助 - 夕日と拳銃 -

 伊達準之助は岩手県水沢藩主の家系に属し、遠く辿れば伊達正宗に行き着く。「伊達」は維新後は華族に序せられ、準之助は明治25年(1892年)、その家柄の名望は未だ衰えずと言う恵まれた環境で生まれた。しかし、それは彼に血統による豪傑的性格を与えるとともに、我儘勝手な性格を助長するかたちになる。家柄に根差した周囲の特別視もあり、傍若無人で粗暴な性格であった彼は、日常においても素行が著しく悪く麻布中学、慶應普通部、立教中学などで退校処分を受け幾つもの学校を転々とした(最終的には立教中学を卒業している)。
 たとえば慶應中等部には正規の試験を受けて入学したものではなく、自ら勝手に教室に押し込んで席を陣取り追い出されることを繰り返し、ついにはその熱意に学校側が折れ特別に入学をみとめたものである。それも家柄と地位を持っていなければ到底不可能なことであったろうと思う。準之助は正式に入学が認められると腰に白布を巻き、その間に出刃包丁をさして通学した。そして、自分の気に入らない授業の時にはその出刃包丁を机の上で転がして教師を威嚇した。少年時の準之助はガキ大将と言うよりもヤクザの親分的であったと言えるかもしれない。ただし、準之助は暴力によってのみ人を屈服させていたわけではない。そこには血族的な、何かしら豪傑的なものを思わせる魅力があったことも事実であろうと思う。そうでなければ死地に最後まで随伴しようという他者からの敬愛は受けられない。

  夕日と拳銃(昭和30年初版)  「夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和30年初版)

 海城中学校(明治29年に立教中学校に改称)に在学中の明治42年(1909年)5月13日には東京明石町の煉瓦置場で友人と地回りの三笠金蔵との決闘を代わって受けた挙句に、金蔵を射殺するという事件を起こし、同年10月15日東京地方裁判所判決では懲役12年、翌年6月の控訴審判決では懲役6年を宣告された。しかし、伊達家弁護士の依頼により探偵岩井三郎が被害者の三笠金蔵の身元調査を行い正当防衛であった事を立証し、大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。
 準之助は後のことであるが奉天の自宅居室で知人の阿部太郎との口論から銃の腕試しをすることになり、その誤射によって阿部を射殺するという事件も起こしている。これは暴発事故として処理された。

 準之助が中国に関心を抱くようになったのは川島浪速が主催する善隣書院における影響が強い。当時の清は日清戦争に敗れ、その弱体ぶりを欧米列強に晒し分割支配される状況にあった。そこで日本はアジアの独立共存を唱え、「日支は唇歯輔車の関係にあり、緊密なる提携を第一歩とするも、支那自ら大国をもって誇り、頑迷度し難きにより、一撃を加えてその覚醒を促し、然る後、互いに手を握り東亜百年の大計を確立すべし」と言う荒尾精の論が世の趨勢となりつつあった。準之助はその論説の実践を図る川島浪速に傾倒し「満蒙決死隊」なるものを決起参画し、これが彼を大陸へと向かわせる契機となった。

 続・夕日と拳銃(昭和31年初版) 「続 夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和31年初版)

 だが、1910年代半ばから始まった満蒙独立運動、1916年の奉天における張作霖爆殺計画、1919年の山縣有朋暗殺計画(全て失敗に終わる)に関与した当時の彼の意識は、明治の維新志士か、水滸伝、或いは三国志の英雄気取りの範疇を出ていなかった。この後に朝鮮国境警備隊に赴任することになるが準之助には大志と言えるものは見受けられず、過激な面だけが目立った。
 朝鮮国境警備隊の頃、次のようなエピソードがある。そこの警備主任であった伊藤京治の命で秘密裏に抗日分子の処刑(名目は国外追放)にあたっていた古川上席警部の後をつけ、その事実を知った準之助は自分にやらせてほしいと志願した。しかし、密殺には興味を持っていた準之助だがその証拠隠滅操作に関しては面倒くさがり「僕が殺すことだけをやり、古川さんが前後の処置をやるというのはどうでしょう」と持ちかけたと言う。また大正12年関東大震災直後、朝鮮国境では反日朝鮮人が決起を図っているとの情報を基に準之助がその討伐の任にあたった。準之助はとある部落に進駐した時に部落内にいた反日分子の激しい抵抗を受け、全包囲し部落ごとを焼き払ったと言われている。
 
 第二次満蒙独立運動失敗後、日中戦争の最中には馬賊団を徴募して山東自治聯軍を編成し治安維持にあたった。1929年に張作霖旗下の張宗昌(奉天派)と義兄弟の契りを交わし張宗援(張宗昌を支援する者という意味)と名乗る。1931年、日本国籍を離れ中国国籍を得て中国に帰化した。準之助が指揮を執った山東自治聯軍は、日本国軍の支離滅裂な大陸政策に右往左往し辛酸を味わわせられ、ついに武装解除、解散の憂き目に会う。この頃の彼は意識が随分と変わり、「王道楽土」、「五族協和」を唱える石原莞爾の思想的影響を受け、満蒙並びに山東において、いずれの軍の影響も受けない中国人の手による独立自治国の建設を理想とし目指したようである。

 終戦後、蒋介石統治下の中国国民党に長男・宗義(後に釈放)と共に逮捕され、準之助は侵略戦争を推し進めた罪、県城襲撃・破壊、良民殺害などの罪で戦犯として起訴され青島拘留所に収監される。そこから上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所と移送収監され、裁判によって死刑判決をうけ、上海監獄の裏庭において1948年6月1日に銃殺刑に処せられた。

 完結・夕日と拳銃(昭和31年初版) 「完結 夕日と拳銃」(檀一雄、新潮社、昭和31年初版)

 小日向白朗と伊達準之助。一人は戦犯を免れて生き、一人は戦犯となり刑死した。その分岐の根底にあったものは二人の銃に関する意識に現れていたかもしれない。
 白朗は銃を「威嚇するものであり、命を奪うものではない」と考え、準之助はあくまで殺傷武器(殺傷玩具と言った方が良いかもしれない)と捉えていた。

 いずれにしろ、二人の物語を読むにつけて浮かび上がるのは、無意味な英雄的精神論を吹鼓し、人心を忘れた頑迷な国粋主義で欺瞞に増長した日本帝国主義の暴挙とその終焉であり、浅薄さである。翻弄された二人の足跡は、歴史的愚行による犠牲の証言であると言えるとも思う。

 伊達準之助は青島拘置所で次のような言葉を残している。
 
 「僕は中国を愛して中国人になりきろうと、今でも懸命の努力を惜しまずにいる。その中国が僕を国家民衆の仇として罰しようとしている。愛する中国が僕を殺そうというなら、そしてそれで中国が安心立命するなら喜んで死のう、それでも良い。」

 秘録伊達準之助(都築七郎署名) 「秘録・伊達準之助」(都築七郎、番町書房、昭和47年初版)

 *先だって「小日向白朗」を取り上げたので、もう一人の雄「伊達準之助」も取り上げるべきだと思い書くことにしました。
 いくつもの文献がありますが、有名なものは檀一雄の「夕日と拳銃」でしょう。これは映画化もされています。ただし、こちらはあくまでモデルとして扱ったものであり伝記ではありません。挿話に誇大なものもありますし、事実ではないこともあります。娯楽的冒険小説としては読んでいて面白いですが、伊達準之助の知己関係者にすると「かけはなれている」との批判が多くされています。
 もう一冊は、都築七郎の「秘録・伊達準之助 - 夕日と馬と拳銃 - 」です。こちらは都築七郎が元取材記者ということもあり、伊達準之助を主人公とした小説ではなく、当時の中国の状況、伊達準之助の置かれた状況などを各種資料や証言、準之助の手稿等からルポライトしたものです。小説風に書かれていはいますが、準之助が颯爽と活躍するといった本ではありません。彼が置かれた時代背景を理解するための手助けくらいに受け取ってください。ただし、登場人物や事象に気をつかってか、批判的な記述を意識的に避けているところが強く、また変に敬意を払って持ち上げていることも多いです。それが中途半端な新聞記事の羅列のような印象を与えます。読み辛いかもしれません。

 


スポンサーサイト

テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

コメントの投稿

非公開コメント

sidetitleプロフィールsidetitle

otosimono

Author:otosimono
全く役に立たない独り言です。

sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitleFC2カウンターsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR