出梅

 誰かに宛てて手紙を書きたいと思いました。特に綴るようなことはないのだけれど。
 たぶん僕は疲れているのだと思います。疲れるような特別なことも、また、何もありはしないのに。
 携帯電話のバイブが着信を知らせてくれていますが、今は現実に存在する人たちの声を聞きたくありません。
 死者に語りかけることができるのなら、僕はきっといつでもそうします。
 静寂を作り出すことにいくら心を砕いても、どれほど耳を澄ましても、僕は望む声をきくことができないでいます。
 だから僕は想像をします。望む声を聞くために。
 君だったら、こう言ってくれるのではないかと。

 ベッドの周りに散らばった書籍の山は、行き場のない心の現れです。
 探しているものが見つからないのは、探しているものがわかっていないからなのだと、どこかで漸く気が付き始めた時、僕の足腰は弱り始めていて、先を行く学生に追いつくこともできなければ、後から来た子供たちに追い越されて行く、もう自分で思う通りの速度では体を動かせなくなっていました。
 
 九州地方の大雨を知らないかのように空梅雨となった関東地方が出梅し、水を求め喉を涸らしきった紫陽花が色を染めきることなく萎れて行きました。彼らは与えられた条件でしか生きられないし、それに対し反抗を述べることもできません。ただ自分たちに与えられた環境と結末とをゆっくりと受け入れるだけです。
 それは酷く残酷なように見えますが、僕はそれが彼らに与えられた才能だと思うことがあります。自分たちの置かれた環境で命を全うすること、その強さを誇ることのない彼らに心から敬意を払います。
 以前、公園の端に生えていた紫陽花の見事さに思わず手を合わせてお辞儀をしたことがあります。それを見ていた子供が「あのおじさん、変なことしてるよ。金魚のお墓でもつくったのかな」などと買い物途中に手を引く母親に話している声が聞こえました。
 昨日の花は今日の塵。
 全ての土は骸の果て。
 手で掬った時の土の香りが懐かしいと思えるのはそのためなのでしょう。

 田山花袋の「草みち」という短編の末尾にこんな科白があります。
 「そうした魂が再び墓の中から出て來ないとも限らないから・・・。そつとして置くに限る・・・。そつと・・・。」
 死者を驚かすことのないように、そして自分たちが再び同じ悔恨を背負わないように。

 祈る時は声を立てる必要はないのです。他の人に聞こえるように祈ることは、自分が「あなたより真剣に祈っているのですよ」という自己顕示にほかなりません。静かに凝縮させることのできる無音の祈りの方が余程真剣なものであるはずです。
 そして僕は先の科白のひとつ前に戻るのです。

 「不思議なものだな・・・・・、人間といふものは・・・・・。落附いて了へば、何でもないんだな。一生かかつて拭つても拭ひきれない泥を塗られたと思つたが、そんなことはなかつたんだな。」

 いつか僕が死ぬとき、そう言ってくれる人がいたら。
 手を取ってもらう必要はありません。僕を見下ろして、ただ「何でもなかったよ。大したことじゃなかった」と呟いてくれる人がいればいい。そんな最後が迎えられれば、僕の一生は失敗ではなかったと言える気がします。
 無から何かが生じて無に還る。結果から言えば、何も起きてはいなかったと、そんな一生であることが僕の望みです。

 眼も開き切れないほど強い照り返しの砂利道を歩いている時、無縁仏を祭ったお地蔵様の小さな祠の屋根に五十雀がさっと舞い降りてきて、辺りを一瞥すると短い鳴子笛のような声を残して飛び去って行きました。
 それは「こっちだよ」と僕を案内しているようにも見えたのです。

 流れる汗、白く光る砂利道、蒸し暑く重い空気、草の匂い、蝉時雨、風が立てる以外の動きがなくなった正午。
 もう夏ですね。


 
 

 
 
 
 
 
 
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