独りともし火のもとに文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子の言葉、南華の篇、この国の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなること多かり。…
本を読んでほしいから内容についてはなるべく書かない。そう決めて「ほんの片言」というタイトルで10冊ほどについて内容そのものではなく、その本があった時と場所のことを書いてみた。これからも書くことがあるとしたなら、多分、僕は同じようにして行くだろうと思う。
僕にしては珍しくSF小説を棚から引き出してきた。
筒井康隆「時をかける少女」(昭和47年、鶴書房盛光社)。
放課後の清掃が終わったカランとした教室の描写から始まっている。
定かではないけれど、僕が初めて読了したSF小説だったと思う。
僕はロマンチストではなかったのでSFやミステリーが苦手で途中で投げ出した記憶しかない。
当然のことながら、その頃の僕は「時間」に対しても憧れなど感じてはいなかった。
「Tさんは高校生の時、どんな本を読んでいて、それはどうやって出会って、どういう時に読んでいたのですか?」
先日、4人の高校生とお茶をしていたらそんなことを尋ねられ、僕はカバンに入っていた本を取り出した。
それはこの日のために持ち歩いていたのではなく偶然だったのだが、自然に仕組まれていることはいつもこんな感じなのだろう。勿論、それが常に幸運の側に作用するとは限らないけれど。
「僕が尊敬する作家に遠藤周作さんがいてね。これが僕が読んだ遠藤作品の最初の一冊。高2の頃だったかな。」
そして僕は思い出してゆく。

(昭和30年、大日本雄弁会講談社刊) 彼女の宿題を手伝うつもりで図書館までついてはきたものの、当人は僕の手など全く必要ともせず作業を進めてゆく。
積み上げた本の背表紙を指で確かめるようになぞり、「この本」と思ったところで指を止めてそれを引き出す。その手際を見ていたら、春休みに九十九島で会った漁師の奥さんの牡蠣の殻剥き姿を思い出した。
僕は小さく笑った。
「なに?」
彼女が怪訝そうな顔を向ける。
気に障ったかもしれない。
「人が苦労しているのに、何か面白いことでも?」
「いや、手際が見事だなって感心してた。それに苦労しているようには見えないよ。」
「下調べを十分にしていただけよ。ぼーっとしてるんなら何か本でも読んでたら?頭の固いあなたには童話か昔話がおすすめ」と彼女は笑った。
僕は彼女の推薦にしたがって「あそこにある」という和綴じの説話集を持ってきて開いた。
ページをペラペラと早送りして、雀の文字が目についたところでとめる。
お釈迦様が滅した日、朝寝坊した雀は慌てて飛び起きたため、誤って親雀の頭を蹴飛ばしてしまった。親の頭を蹴飛ばしたということへの戒めのため、それ以来、足が十分に伸ばせなくなりピョンピョンと飛び跳ねるようになったという。
この話には更に後があり、朝寝坊が原因でお釈迦様のお葬式にも遅刻し、歩き方もこのようなことになったので、雀は頗る反省し、今では他のどの鳥や獣よりも早く起きて囀るようになった、と書いてあった。
その他にも短い説話がいくつか載っていたが、どの辺りかから僕は読むのを諦めてしまったらしい。本は自然と閉じられた。
「Tくん、Tくん」と頭をコツコツとシャープペンで軽く叩かれながら起こされた。
「ああ、ごめん。寝ちゃったみたいだね。」
「まあ、それほど長い時間でもないんだけどね。頭を使ってたら甘いものが食べたくなったの。お茶しに行きましょう。」
「進捗状況はどうなの?大丈夫?」
「ご心配ありがとう。切りのいいところまでできたから大丈夫。」
僕たちは図書館を出て少し離れたティールームへ向かった。
テーブルに置かれたメニューには自家製ケーキセットと大きく書かれていた。
「あれ?チーズケーキの一択?」
「みたいね」と明るく言う。
「私も初めてだから。」
「それじゃ、チーズケーキと・・・。」
「紅茶はたくさんあるのねぇ。」
彼女が感心したように呟いた。
「私、ダージリンのオータムナルにするわ。」
「僕はニルギリでいいよ。」
慣れた口調で言ってみたものの、僕はそれを一度も飲んだことはなかった。
店員にオーダーを告げると、彼女は手提げカバンから本を取り出した。
「これ読んだことある?」
「遠藤周作?」
「うん。もう読んだ?」
「読んだことはないけど、遠藤周作の著作を三つ挙げなさい、の問題には答えられるよ。」
「遠藤周作全集一巻、二巻、三巻ね。」
「いや、そこまでひどくはない…。」
僕は差し出された「白い人・黄色い人」という本を受け取った。
巻頭に置かれた「白い人」という作品の書き出しが僕に憑りつく。
「お客様、紅茶の飲み頃がすぎてしまいますよ」という彼女の声がした。
僕は並べられたケーキセットにも気づかずに10頁ほどを読み進んでいた。
「それ、貸してあげるね」と彼女が言った。
かなわない、と感じる。
彼女はいつだって無造作に僕の精神の戸棚を開く。その度に僕は自分が彼女より劣っていることを自覚させられる。
彼女の範疇に僕が取り込まれていたと言えば簡単に終わってしまう。
恋愛とかいうのではなく、離れ離れに育った双子のように、異なった環境にいながらも精神的な底の部分で似通い過ぎていたと言ったら思い上がりだろうか。
僕たちの邂逅は、並んで立っている二人の距離を保ったまま、夕陽が影だけを一つに重ね合わせてゆく、そんな情景に似ていた。
そして彼女は僕の手元に多くの本を残した。
僕が持っている全ての本にエピソードは存在している。
大部分のそれが他者に語れるような物語にはならないにしても、書棚に収まっている一冊一冊が、古書店に並ぶ見覚えのある表紙が、僕の「時をかける少女」になる。
開くたびに僕たちはあの頃のティールームで向かい合う。
交わされる言葉はもはや聞き取れないけれど、僕は穏やかになって行く、夢のままで。
だがそれを見続けることは叶わない。
やがてクローズの時刻が訪れる。
フルトベングラーが第九を演奏するために指揮台へと向かった時のような靴音をたてながらギャルソンがテーブルに来て、こう告げるだろう。
「間もなくラストオーダーとなります。最後に何かご注文はございますか?」
その時が来たなら、僕はこんな風に答えようと思っている。
「ダージリンに少しだけブランデーを落として持ってきてください。」

See You .
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