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午前3時15分

 とても、とても悲しい夢を見た。あまりに悲しすぎたのでそのまま眠り続けることができず、シャボンの泡が唐突に弾けるように、僕は力を込めて眠りを断ち切った。夜のなかに目をさました僕は体を起こすこともせず、薄ぼんやりとした電灯の形をみていた。どうしてだか、あんなにも悲しい夢だったのに眠りが途絶えると同時に霧散してしまい、どんな内容だったのか全く思い出せない。自分独りだけだったのか、ほかに誰かいたのか、こどもの頃のことだったか、もう少し大人になってからのことだったのか、家での出来事だったか、それとも学校、どこかの野原であったのか、何一つ覚えてはいない。ただひどく悲しい夢だった。

 書斎階段

 階段に掛かっている振り子時計の秒を刻む音がとても近くに聞こえ、こんな時に限って周囲は静まりかえっている。どこかで鳥の鳴く声がした。警告を発しているようにも、呼びかけているようにも聞こえた。
 机の上にある懐中時計に手を伸ばして時刻を確認する。午前2時6分。寝床について1時間も経っていない。きっと眠りが浅すぎたからこんな夢をみたのだな、と思う。もっと深く、もっと深く沈み込めていたら、恐らく違った夢をみていただろうし、それを覚えてもいられただろう。現実に一番近いところで見る夢は大抵、浅く、悲しいものと決まっている。

 部屋の灯りを点けてラジオの電源を入れる。戦前のラジオなので真空管が温まるまでノイズが続く。このラジオにはボリューム調整のツマミがない。主周波を合わせるツマミとTICKLERと呼ばれる鉱石検波器のツマミがついていて、主周波を合わせた後、TICKLERで受信精度を微妙にずらして音量を調節するという方式。大正期のラジオや無線機によく使われた。少々面倒ではあるけど、僕はこれが気に入っている。とても柔らかい音がする。カウント・ベイシーやサラ・ボーンを聴くにはちょうどいい。
 
 ラジオ

 NHKのラジオ深夜便を流していると、耳に届く音に刺激されてようやく僕の頭も活動を始める。真空管よりも温まるまでに遥かに時間がかかる。昔の車の暖機運転のようなものが僕が動き出すには必要だ。
 メールチェックのためにPCの電源を入れると駕籠真太郎先生から蔵書票の原画が仕上がった旨のメールが届いていた。駕籠先生は今年に入ってから各地での個展、グループ展などが続きご多忙であられる中、僕が個人的にお頼みしたにも関わらず思いもよらない早さで仕上げてくださった。感謝一入。

 kago00.jpg 下絵 kago着色済01 完成

 駕籠先生に返信を差し上げた後、昭和31年に中原淳一主催の「ひまわり社」から出版された川端康成の「乙女の港・霧の造花他」を本棚から引き出し、一階にあるダイニングへ向かう。テーブルに本を置き、買っておいたスコーンを温めて紅茶の用意をする。午前3時15分、いつもより少し早い朝食。

 AM0315.jpg

 書斎階段の入り口には杉本一文先生の「ピエロ」を掛けてある。地球でお手玉をするピエロが、本の世界への扉に似合っているような気がして。
 言葉自体が宇宙なのだから、きっとピエロは宇宙なのだ、と僕は勝手に感じている。

 雨戸を閉めた外には水滴のかかる音がし、決して小降りとは言えない雨が降る。それでも僕は雨の日は静かだと感じていた。
 「夜明け前の雨音が優しいと思えるのは、絶対に自分は濡れることがないと安心していられるから。」
 あの少女の言葉が不意に思い出された。
 淹れたての紅茶を飲み、スコーンにメイプルをかけてフォークで崩す。
 今、窓の外で降り続けている雨が僕を打つことは決してない。
 そして僕は思う。
 忘れてしまうこと、覚えていられないことは利点だと。
 先ほど見た夢を覚え続けていたなら、僕はふさぎ込んで一日を送ったかも知れない。
 午前3時15分。
 僕の一日が始まった。





 
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ジャンル : 日記

事実の傍らに

 たとえば、歩くということが事実を認識するためのものだとしたなら、僕は途切れることのない事実の傍らを常に歩いていて、無数の連続であるその事実が僕を捉えていたとしても、僕がその事実を捉えることはごく稀で、僕はそこにあったものを受け入れるでも拒絶するでもなく、無感覚にただ傍らを過ぎているだけなのです。

 たとえば、生きている世界は死ぬことができる世界なのだと言葉で表してはみても、田村隆一が綴ったように、死ぬことのできない世界は生きることもできない世界なのだという感覚は僕にはなくて、ここに言う「死ぬことのできない世界」というのは、理不尽と不信感とに埋め尽くされた現実の社会のことであって、結果、自分を「殺す」ことによってのみでしか自らの心の奥に葬られている死者を甦らせることはできないのだと、信じる弱さも、頼る強さも、持ち合わせてはないのです。

 氾濫する事実のなかを歩いている時、街路樹は、公園の樹木は、僕をどうみているのだろう。
 しっかりとした静けさをもって道行く人がその視界から消え去るまで見送っている樹々。
 僕はそんな樹々をきちんと見てあげているのだろうか。
 窓のない部屋と部屋のない窓との相似した、かつ、矛盾した、空間ともいえない「間」を持つ僕は、所詮は盲ているのだろうと思うのです。

 健全な精神などと声高らかに宣う人は必ず精神を病み切っている人だと思うのです。そうでなければ事実を殺すことに慣れ切っている人なのでしょう。

 ドアの先に部屋があるなんて誰が決めたのでしょう。
 ドアを開ければ外に出られるなんてどうして信じているのでしょう。
 そもそもドアというものを僕に教えてくれたのは誰なのでしょう。
 窓はいつも外を見せてくれているのに。

 君に詩を返します。
 君から借りたままになっている詩集から選んでみました。


 「木」 田村隆一

 木は黙っているから好きだ
 木は歩いたり走ったりしないから好きだ
 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

 ほんとうにそうか
 ほんとうにそうなのか

 見る人が見たら
 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
 木は歩いているのだ 空にむかって
 木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
 木は確かにわめかないが
 木は
 愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
 枝にとまるはずがない
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸い上げて
 空に返すはずがない

 若木 
 老木

 ひとつとして同じ木がない
 ひとつとして同じ星の光のなかで
 目覚めている木はない
 
 木 
 僕はきみのことが大好きだ



 ゆったりとした静けさを失ってから僕はどれくらいの時間を過ごしてきたのでしょう。
 音楽がうねりをあげて、人声がそれに負けじと大きさをまして、それも届かないほどに、車の音が工場の音が得体の知れない機械の音が、僕の耳を塞いでしまうのです。 
 眠るような静けさを持つ煌く命を生きていけたらいい。
 鉱物のような規則正しい寡黙さでなくていいのです。そんな強靭さを求めているわけではないのです。
 虫が土にしっかりと爪を立てて生きているように、鳥が生まれながらに空を知っているように、そんな風にはなれないことは百も承知のうえです。
 ただ僕に触れるものが僕を怖がらないように生きていたいのです。
 わかってもらうことも、わかろうとすることも不必要な、お互いを単純に必要として受け入れられる生き方がしたいのです。

 そうでしたね、これは君が昔に言っていたことでした。
 恐らく僕は君をトレースしているのです。
 記憶はあの頃よりも確かなものとして君を鮮明に捉えてさせているから。

 今日のエピローグに添えて " Nu " (田村隆一)を。


 窓のない部屋があるように
 心の世界には部屋のない窓がある
 
  蜜蜂の翔音
  ひき裂かれる物と心の皮膚
  ある夏の日の雨の光り
  そして死せるもののなかに

 あなたは黙って立ち止まる
 まだはつきりと物が生まれない前に
 行方不明になったあなたの心が
 窓のなかで叫んだとしても
 
  ぼくの耳は彼女の声を聴かない
  ぼくの眼は彼女の声を聴く


  
 


 
 
 

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閑話休題ー3月ころのこと

 「Tさんって珈琲をよく飲みますよねぇ。前に紅茶の方が好きだって言ってたのにあんまり飲んでるところを見たことないんですけどぉ。」
 初島さんが間延びした口調で話しかけてきました。
 確かに僕は紅茶の方が好きですが外出した時にはほとんど珈琲が主ですので、こう言われてしまうこともありますね。出先でお会いした方々には普通の珈琲好きに思われているかもしれない、です。
 理由はいたって簡単なものです。
 出先で飲む時に「あたり、はずれ」があまりないのが珈琲です。格段に美味しいものに出会うことも稀だけれど、顔をしかめるほど不味い珈琲に出会うこともめったにない。けれど紅茶は「はずれ」があるんです。というより、喫茶店などで飲んだ紅茶を美味しいと思ったことはほとんどありません。実際としては、不味い紅茶に出会うことの方が圧倒的に多い。残念なことです。
 ただ単に丁寧に淹れることを心がけていただければいいのですが、簡単にお湯を注いでくるところが大部分です。丁寧に淹れれば安いティーバッグでもそこそこ美味しい紅茶になるんですよ。まあ、その結果、外では紅茶を諦めて珈琲になってしまうわけです。
 飴色紅茶館のようなお店が近くにあると良いのですけどね。スタッフはゆり系でなくてもいいですよ。紅茶を丁寧に出してくれればいいです。できれば紅茶とのバランスのとれたお菓子もあるといいですけどね。

 飴色紅茶館歓談 (藤枝雅・百合姫コミックス)

 紅茶と言えばですね。神戸に " Otogi " という不思議の国のアリスと童話をテーマにしたパティスリーがありまして、そこのケーキが非常に可愛いんですよ。と言っても僕は常連というわけではなくて、今年の3月に高野山、姫路と回り神戸に立ち寄った時に入っただけなのですけど。
 店内の装飾もメルヘンチックでお客様も女子高生と若いカップルが多いです。男性一人ではとても入りにくいお店なのですが。そこのショコラフレーバーの紅茶は美味しかったですよ。欲を言えば、もっとスタンダードな紅茶が飲みたかったな。
 
 otogi01.jpg otogi02.jpg
 Otogi ・・・兵庫県 神戸市中央区 北長狭通 3-12-4 ☎078-954-7797 

 今年の春先は神戸を往復することが多くて、翌週にはギャラリー・ロイユで開かれていたアルフォンス・イノウエ先生の個展にもお伺いしました。先生の蔵書票レゾネ出版の記念企画ということもあり、最初期の作品から最新の「死後の戀」まで圧巻の展示内容でした。神戸がもっと近ければ足しげく通ったのですが、いかんせん千葉とでは離れすぎています。
 先生にロイユ付近をご案内していただき珈琲をご一緒しながら映画や本、原発、阪神淡路震災のことなど尽きぬ話題に時間を忘れてしまいました。しかしながら、当日、先生は風邪を召されていて体調が思わしくなかったのでご無理をさせてしまったのではないかと気がかりです。
 
 アルフォンス・イノウエ銅板画A01 アルフォンス・イノウエ蔵書票A01
 ギャラリー・ロイユ・・・神戸市中央区北長狭通3−2−10キダビル2F ☎078-595-9070


 その二度の神戸の間には、銀座のスパンアートで永野のりこ先生の初個展が開かれ、そちらにもお伺いさせていただきました。
 僕の永野作品の最初の取り付きは「電波オデッセイ」からだったのですけど、独特のナンセンスさとその中に隠されている陰の部分に惹かれています。

 永野のりこ04 (電波オデッセイ3巻表紙原画)

 先生は漫画作品についてこう話されていました。
 「漫画というのはどこかに出口がないといけないと思うんですよ。バッド・エンドであっても、あの時、主人公がああしていればよかったのに、と思わせる出口を作っておかないといけない。読者が物語のなかで閉じ込められてはいけないって。」
 こういう作品に対する姿勢がただのギャグマンガでは終わらせない共感を生んでいるのではないかと僕は思いました。
 僕はこの個展で「ああ、あれが空ー開放の翔膜ー」と「電波オデッセイ3巻表紙原画」を譲っていただきました。
 前者は「男の娘☆」イベントカタログの表紙用に制作されたもので、「胸を現さない上半身だけで男の子と女の子を区別するのが大変で、骨格とか筋肉のつき方とかいろいろ違いを調べたんですよ。しかも描かれている男の子は人工的に作られた生命体で、維持装置から初めて出てきて、生まれて初めての空を憧れに満ちた目で見上げているところと言うテーマを与えられたのでさらに苦労しました」とおっしゃられていました。

 永野のりこ03 永野のりこ02 (原画と下絵案) 
 スパンアート・・・ 東京都中央区銀座2丁目2−18 西欧ビル☎ 03-5524-3060

 話は戻って神戸ですが、仕事が終わってご飯でも食べて帰ろうということになったのですが、鱗の家の近くにいたんですけどね。そこに「花の館パラディ北野」というフレンチ・レストランがありまして「じゃあ、ここにしよう」と。
 けれど時刻はすでに8時半にかかろうとしていました。「予約はしてないのですが入れますか」と尋ねましたら・・・、そうオーダー・ストップです。対応に出てこられたギャルソンの方に「それでは仕方がないですね。またの機会にします」と言って背を向けようとしたところ、「ちょっとお待ちください」と言い残して彼は何かを確認しに行きました。そして戻ってきて「本来は終わりなのですがシェフがご用意できると申しておりますので、どうぞ」と案内してくれました。なんという幸運!
 店内には僕と相棒の二人だけでしたが、気配を探っていますとどうやら奥の個室にもう一組いらっしゃるご様子。そして運ばれていたのは、オードブル!つまり僕たちは見ず知らずの個室のお客様に助けられたのです。その方たちがいらしたのでキッチンを閉めていなかったのです。
 出されてきた料理は丁寧に作られていて、見た目、味とも楽しめました。僕はメインに子牛の頬肉の赤ワイン煮を頼んだのですが、これが美味しい。赤ワインを煮詰め過ぎて苦みを感じるお店もあるのですが、ここではそういうことはありませんでした。
 あの夜は時間外にも関わらずご配慮いただき有難うございました。次はきちんと営業時間内にお伺いいたします。

 花の館01 花の館02 花の館04 花の館03
 花の館 パラディ北野・・・兵庫県神戸市中央区北野町2丁目16-8 ☎078-271-2979

 こうして書くと、食べて、絵を見て、ぶらぶらして、かなり呑気な日常を送っていたのだと思われてしまいますね。そんなこともなかったのですが・・・。
 例えばですね、ある物語の本筋は陰湿で暗くても、伏線を取り出すとコメディに見えると言った感じでしょうか。まあ、陰湿でもなかったのですけど、それはまた話す機会がありましたら。
 
 

  

 
 

 
 

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朝の目覚めの中で。

 ふらっと外に出てゆく僕に誰も行く先を問いはしない。
 日差しも風も穏やかで恐らく理想に近い晴天をこの世界に与えている。
 僕は眠っている。ずっと眠り続けている。
 常にコツコツコツと何かが外殻を突く音がしていて、それは祖父の部屋に懸かっていたゼンマイ仕掛けの振子時計のリズムに似ている。
 けれど君に会うために眠り続けなくてはならないので、僕は目を閉じ続ける。
 君の前でだけ僕は目覚めていればよい。きっと僕の世界はそれで十分だから。
 眠りのなかでも記憶は刻み続けられ、塵で覆われてゆく。
 食卓には乾ききって茶葉の色が染みついたティーカップ、トーストやベーコンエッグが乗せられていたはずのソーサー、食事の途中で無造作に投げ出されたフォークとナイフとスプーンは、ひっそりと柔らかな埃に包まれている。
 誰かが息でも吹きかければ傷跡のようにその軌跡がくっきりと現れるであろう。
 そこでやっと僕は自分の不自然さに気が付く。
 僕は部屋の外にでたはずなのに、また繰り返している。
 ドアを開けることと閉めることを反復し、いつか見た軍艦島の写真集の中を、廃墟を歩き続けている。
 紫陽花がダイニングの破れた硝子窓の間から部屋に忍び込もうとしている。
 もう夏は来ていたのだと知った。

 まるで耳元で囀ったかのようなウグイスの声で目が覚めました。窓から人に悟られぬように忍び込んだ光が僕の顔にまで届いていました。
 眠ったのはつい3時間ほど前。なのに随分と長い時間が経過したような気がして。
 ラジオの電源を入れると東京の貯水量が例年の60%だという現状や都知事の支離滅裂な記者会見の模様をダイジェストで流していました。
 最初に非を認めることをしないと窮地に追い込まれ立て直すことができなくなる良い見本、いや、晒し者になります。今はラジオで良かったと思います。映像が見えたなら、卑小な顔がさらに滑稽さを加え不快感を増して行くでしょうから。
 もう辞めてしまいなさい。醜態を晒してまでも手放せないメリットがその地位にあるということが政治的不信とあなたへの嫌悪感をさらに募らせているのですよ。ご自身が地位の外にいた時には見えていたはずのものでしょうに。
 ところで酷い冷害で米作が甚大な不作となり輸入米に頼ったのはどのくらい前でしたか。あの時、この国は不測の事態に対する備えなどしていないのだと教えられました。
 この国の建前主義は学習と反省というものを知らないようです。
 阪神淡路の時も東北の地震の時も国は歴史的震災であることを繰り返し、正当性を主張し続け、瓦礫の中で必死に作業をし続ける人々の姿がこの国の言い訳の白々しさをいっそう強調していました。
 幼稚園の迎えのバスを待っている子供たちが60歳になった時、この子たちが支払う介護保険料はいくらになっているのだろうか。そんなことが頭に浮かんで行きます。
 どうか静かに世界が終わりますように。
 祈りが届くのであれば僕はそう願うでしょう。

 松村栄子「至高聖所」を読み返しました。
 感情を素直に文章に記すことのできるこの人を凄いなと思います。多種多様な感情を書き尽くすことなど不可能なのだけれど、粗筋にも似た一番分かり易いものを取り出し文章にできる才能をうらやましいと思います。

…老人たちはいつも学生たちには聞き取りにくい言語でたがいにぼそぼそと語り合っていた。ときおり何かの加減で怒鳴っている老人もいる。その言葉は学生たちの言語とは決して噛み合わず触れ合うことなく擦れ違う。何か大きな音がしたといった反応しか学生は示さない。むしろ、何かの間違いで赤ん坊の泣き声などがすると、皆ぎょっとして振り返ったものだ。…

 生という神殿のうちには虚無を癒す至高聖所は存在するのでしょうか。眠りが死に対する現実の再生であるとするなら、目覚めるたびに人は新しい人でなければなりません。そうであることはたぶん人間にとって理想であるのです。

 人は容易く手の届くものに奇跡という賛辞を贈りません。
 都会には自然がないと嘆く人は自分が自然をいただいて生きていることに気づいてはいません。
 先日、銀座の個展で高橋真琴先生にお会いした際、先生は「おかげさまで生かされています」と笑顔をくださいました。
 素敵な言い方だな、と思います。
 野菜も魚も肉も自然の生命です。僕たちはそれを食して命を長らえているのです。
 けれども、誰しも手の届く自然に気づかずに、雄々しい山々に憧れ、高原の風を吸い込もうとし、海風を幸いとします。
 例えば、生まれてはじめて目の当たりにしたグランドキャニオンを奇跡だと快哉する。
 僕が摘まんだイチゴの一粒に同じものはない。それは十分に奇跡であるはずなのに感じることができないでいます。
 日常の小さな奇跡は、偶然と、同位のなかで軽視されてしまうのです。
 人間は欲張りなので。

 そしてまた僕は眠り続けます。現実という夢と目覚めという夢を見続けるために。
 君と同じ眠りの中で過ごすことができるのなら、それに増した奇跡はないと。

 

 

 

 
 
 

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