車塵
…いつであったか、芥川龍之介が、
「極楽へ行くのは見合わせた方がいいね」
と云ひだした。あまりに唐突なのでその眞意をはかりかねて、その顔を見ると、彼はあのきれ長い美しい目に一種の茶目つ気を漂はせながら、言葉をつづけて、
「この間、西方浄土に関するお経文をみたらあの浄土には季節の變化はないらしい。どれほど人體に快適であろうともいつも一つの季節で四時のうつり變りがないとすれば楽しくないにあるまいから、以後あそこの住民になることは見合わせたくなつた」といふ意味を説明した。…
これは佐藤春夫の「季節ーあとがきにかへて」に述べられているエピソードです。
人にとって真に快適な環境とはどういったものなのでしょうか。不快なものをすべて取り除いた場所なのでしょうか。
美しいものには心惹かれますし、癒しにもなります。けれど美しいものばかりに囲まれていては金箔緋毛氈の上に更に錦を飾り立てるようなもので目がちかちかして疲れます。
人は刺激を受けて生きているのです。美しいものからも醜いものからも。
身に感じる季節もきっと同じこと。
常春の国はパタリロにでも任せておけばいい。もっとも彼ほど性格と容姿に起伏のある人物が身近にいれば飽きることはないでしょうけど。
好き嫌いは時々で反転します。
耳障りな打突音が、ある時は生活を伝える音楽のように聞えることもあります。
僕たちは足りない、欠けていると思うから補うものを探して歩き、時に同一のものを心の裡で反転置換するのです。
それはものであったり、場所であったり、人であったり。
求めるから生きていると言うのは事実です。それを欲と言う一字で括りたくはありませんが、それらが僕たちの推進力になっているのは紛れもないことなのです。
…思ひあふれて歌はざらめや
饑をおぼえて食はざらめや
たそがれひとり戸に倚りて立ち
切なく君をしたはざらめや …
佐藤春夫「車塵集」に収められている「思ひあふれて」と題された漢詩の訳文です。
何かに焦がれること、手の届かないものに憧れ悶々と嘆くことも確かに幸せの形のひとつなのでしょう。
辛いことも、哀しいことも、苦しいことも、孤独であることも、それらは人に与えられた生きている幸福のひとつなのです。
見つめ合うだけで交歓するなどと言う高尚なプラトニックな愛に触れたこともなければ、それを身に着けることもないであろう僕は、欠けていること、求める気持ちを抱え続けることを大事にしたいと思っています。
寧ろひと目みただけで心のなにもかもを見透かし交わせるなどという世界はまっぴらご免です。不便極まりないとも思えます。そこに充足感などあろうはずもないと考えてしまうのは、僕が矮小雑多な煩悩に侵されているからなのでしょうけれど。
優れた香水は綺麗な匂いばかりを集めたものではありません。必ずアクセントとして悪臭が含まれています。美麗な風景も同じです。
僕たちの世界は美醜混合だから美しいと思えるものを拾い出せるのです。アラベスクの中に絡め取られた日常はたぶんそれだけで美しい。けれど僕たちにはそれをひとつひとつ拾い上げているゆとりがない。
ささやかなものは失われやすいので、どうしても大きなもの、目立つものに目を奪われて、自分が欲しているものを無意識に摩り替えてしまいます。そしてそれは過分な欲を生み出し、過分なそれは不幸を産み落とす。自覚がないことがさらに拍車をかけて行くのです。
どこまで便利になれば人の不便はなくなるのでしょうね。
すべてが便利になった世界こそが僕にとっては不便極まりない場所に思えてしまいます。
冬の寒さは嫌いだと言う人、好きだと言う人。
それぞれが季節を感じているから次を待てるのです。
たぶん、生きるということは次を待ち続けることなのだろうと、ふと思いました。
今年もあとわずかです。
皆様がご無事に過ごされますことを心から願っています。
早すぎる挨拶かもしれませんが、「次」に対する約束がもてないのでどうかご寛容ください。
「極楽へ行くのは見合わせた方がいいね」
と云ひだした。あまりに唐突なのでその眞意をはかりかねて、その顔を見ると、彼はあのきれ長い美しい目に一種の茶目つ気を漂はせながら、言葉をつづけて、
「この間、西方浄土に関するお経文をみたらあの浄土には季節の變化はないらしい。どれほど人體に快適であろうともいつも一つの季節で四時のうつり變りがないとすれば楽しくないにあるまいから、以後あそこの住民になることは見合わせたくなつた」といふ意味を説明した。…
これは佐藤春夫の「季節ーあとがきにかへて」に述べられているエピソードです。
人にとって真に快適な環境とはどういったものなのでしょうか。不快なものをすべて取り除いた場所なのでしょうか。
美しいものには心惹かれますし、癒しにもなります。けれど美しいものばかりに囲まれていては金箔緋毛氈の上に更に錦を飾り立てるようなもので目がちかちかして疲れます。
人は刺激を受けて生きているのです。美しいものからも醜いものからも。
身に感じる季節もきっと同じこと。
常春の国はパタリロにでも任せておけばいい。もっとも彼ほど性格と容姿に起伏のある人物が身近にいれば飽きることはないでしょうけど。
好き嫌いは時々で反転します。
耳障りな打突音が、ある時は生活を伝える音楽のように聞えることもあります。
僕たちは足りない、欠けていると思うから補うものを探して歩き、時に同一のものを心の裡で反転置換するのです。
それはものであったり、場所であったり、人であったり。
求めるから生きていると言うのは事実です。それを欲と言う一字で括りたくはありませんが、それらが僕たちの推進力になっているのは紛れもないことなのです。
…思ひあふれて歌はざらめや
饑をおぼえて食はざらめや
たそがれひとり戸に倚りて立ち
切なく君をしたはざらめや …
佐藤春夫「車塵集」に収められている「思ひあふれて」と題された漢詩の訳文です。
何かに焦がれること、手の届かないものに憧れ悶々と嘆くことも確かに幸せの形のひとつなのでしょう。
辛いことも、哀しいことも、苦しいことも、孤独であることも、それらは人に与えられた生きている幸福のひとつなのです。
見つめ合うだけで交歓するなどと言う高尚なプラトニックな愛に触れたこともなければ、それを身に着けることもないであろう僕は、欠けていること、求める気持ちを抱え続けることを大事にしたいと思っています。
寧ろひと目みただけで心のなにもかもを見透かし交わせるなどという世界はまっぴらご免です。不便極まりないとも思えます。そこに充足感などあろうはずもないと考えてしまうのは、僕が矮小雑多な煩悩に侵されているからなのでしょうけれど。
優れた香水は綺麗な匂いばかりを集めたものではありません。必ずアクセントとして悪臭が含まれています。美麗な風景も同じです。
僕たちの世界は美醜混合だから美しいと思えるものを拾い出せるのです。アラベスクの中に絡め取られた日常はたぶんそれだけで美しい。けれど僕たちにはそれをひとつひとつ拾い上げているゆとりがない。
ささやかなものは失われやすいので、どうしても大きなもの、目立つものに目を奪われて、自分が欲しているものを無意識に摩り替えてしまいます。そしてそれは過分な欲を生み出し、過分なそれは不幸を産み落とす。自覚がないことがさらに拍車をかけて行くのです。
どこまで便利になれば人の不便はなくなるのでしょうね。
すべてが便利になった世界こそが僕にとっては不便極まりない場所に思えてしまいます。
冬の寒さは嫌いだと言う人、好きだと言う人。
それぞれが季節を感じているから次を待てるのです。
たぶん、生きるということは次を待ち続けることなのだろうと、ふと思いました。
今年もあとわずかです。
皆様がご無事に過ごされますことを心から願っています。
早すぎる挨拶かもしれませんが、「次」に対する約束がもてないのでどうかご寛容ください。
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