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暑中見舞い

 書棚を整理していて昔の暑中見舞いを見つけました。
 松原一枝の小説の間に挟まれていたのです。
 日に当たらなかったせいなのか、それとも葉書というものは変色しにくいのか、それはつい先日届いたような真新しいものに見えました。
 日付をみると昭和61年。切手の部分には、ほおずきが印刷されています。既に29年もの歳月が流れていました。
 本に挟まれていたために残ったのですね。僕は本を棄てることはないから。

 そういえば僕は筆不精で、随分と迷惑をかけた記憶があります。
 筆不精と言うより、返信不精と言ったほうがいいですね。
 期日までに返信をしないのが当たり前になっていました。
 特に学生の頃は顕著で。

 葉書を裏返すと、団扇を持った女の子と金魚鉢に手を掛けている仔猫が水彩で描かれています。
 そして、右上に大きく夏と墨書された字の下に「9月が楽しみですね」と書かれていました。
 君の字はこんなにも細かったでしょうか。懐かしさよりも驚きが先に立って指をなぞらせました。
 更には、ここに書かれている「9月」に僕は覚えがありません。
 9月になにか楽しみにすることがあったのでしょうか。
 手に持った葉書を眺めていても一向に思い当たらないのです。
 思い出せない。
 君はまだ憶えていますか。
 こんなにも新しい感じがするのに、それは遠すぎて、今の僕ではその記憶に手が届かないのです。
 
 昨日のことになりますが、弁護士をしている知人に会いに銀座へ出向きました。お昼をちょっと過ぎたあたりでした。
 何かを食べようということになったのですが、彼は暑気払いには鰻が一番だと譲らないので、仕方なくそれに従いました。
 僕はもっとさっぱりとしたものが良かったのですけど。
 ちょうど通り際に「登亭」がありましたので、歩き回るのも面倒だったのでそこへ入りました。
 登亭も随分と変わったなと入り口でちょっと躊躇していたら、彼が背中を小突いたので、その勢いで中へ。
 僕がこのお店に最後に入ったのは恐らく二十歳代の終りくらいだったでしょう。縁遠いお店であることは事実です。
 ですから、昔通りの味かどうかは全くわかりません。けれど、甘さを抑えたタレのかかった鰻は柔らかく、食欲がわかなかった僕でもサラリと食べられました。
 食事の後、東銀座駅への道すがら、彼がこんなことを口にしました。
 「なあ、おまえが今でも雑誌の記事を書いていたとしたらどういう風に書くんだ?やっぱり褒めたりなんかしないんだろうな。」
 そう言われて、あの頃は何を食べても美味しいなんて書かなかったなと思い出しました。どんな料理を食べても満足できなかったのです。
 でも、満足できなかったのは恐らく料理のせいではないのです。
 僕自身が飢えていたのです。僕のイメージと合致するものの存在に。好くも悪くも「こうあるべき。こうでなくてはならない」と、そういったイメージを現実において満たしてくれるものを信じていたのですね。イメージに貪欲だった時代、遥かに忘れてしまった感覚です。

 今日はね、夕方から、ういろうを作ってみました。
 上新粉をお湯でこねてから蒸し、それに滑らかな蜜状になるまで溶かした黒砂糖をよく練り込んでから再度蒸しあげます。冷ましてから長方形に切り、お皿の上に並べたら完成。簡単に見える和菓子なのですが意外に手間と時間がかかるのです。
 飲み物は水出しで作った冷し緑茶です。
 先ほどそれを食べている時、君に暑中見舞いを書いてみようかと、不図思いましたが、僕はやはりペンを持つことはしないでしょう。

 家の壁に飛びついた蝉が鳴きだしました。
 玄関のあかりを昼と間違えたか、それとも承知の上か、それは僕には測れません。
 夜蝉の鳴く声は麗しいと詠った詩人は誰でしたか。
 思い出せない記憶ばかりが積もります。

 隅田川の花火大会が終わっても、夏はまだ始まったばかり、続いて行きます。くれぐれも暑さを見くびらないようにしてください。

 それでは、また。
 

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テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
ジャンル : 日記

七月の終り

 朝、薄日が差し始め、眼を覚ました時、「ここはどこなのだろう」と一瞬、自分の居場所を見失ったような経験はありませんか?
 君はしっかりしているから、そういうことはないかもしれないですね。

 未明に雨が降りました。
 その雨音を聞きながら仕事をしているうちに僕は眠ってしまったようです。
 不自然な寝方が痛みを伴い僕を揺り起こしたのです。

 僕は、僕の町に雨が降ると、やはり君の町も雨になったろうかと思います。
 それは不確かなもので、それでも僕と君を辛うじて繋ぎ止めているであろうから。

 まだ完全には明けない朝を迎えるために窓を開け、雨の名残の湿った空気を吸い込みます。
 「おはようございます。」
 そう言いたげにか、それとも迷惑気味にか、花柚子に集まった鳥たちが囀り、やがて飛び立ちます。
 こんなにも朝が早いのにどこかの家で水を撒く音がしています。雨が降ったばかりだというのに習慣なのでしょうか。それは遠慮がちで、サーサーっと霧雨が葉を叩くような音を立てていました。
 もしかしたらその音は、僕の耳のなかでだけ鳴っていたのかもしれませんが。

 風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける

 「新古今和歌集」の編者である藤原家隆の歌です。小倉百人一首にもおさめられているのでご存知でしょう。
 ここにいう「ならの小川」とは上賀茂神社の境内をゆく御手洗川を指しています。六月晦日に大祓が行われ、それをもって夏の終りとしていました。
 旧暦ではね、六月までが、今の暦では七月までが夏なのです。四月ごろからの凡そ3か月の夏。
 この七月が明けてしまえばもう秋の始まりなのですよ。
 実際にはまだまだ日差しは強く、熱中症の虞はあるので警戒しなければなりませんけれど。

 縫った後の傷が鈍く痛み、抗生物質と鎮痛剤を飲むためにダイニングに向かいます。本来ならそれらは点滴で補うはずのものですが僕が身勝手をしたばかりに、こういう羽目に陥っています。
 冷蔵庫から食パンを取り出し、卵と、生クリームがないので牛乳を代替にして、それと砂糖。
 パン一枚を置ける程度のフライパンにほんの少し油をひいて温めます。熱し過ぎるとパンを置いた瞬間に焦がしてしまうので注意しないと。
 今朝はフレンチトーストにしました。6枚切りのパンの一枚分。
 紅茶は冷たくしたレディ・グレイ、それとアップルビネガーを微量加えたコールスローサラダです。
 朝食はこれで十分。ちょっと多すぎるくらいでしょうか。
 
 そう、先ほどの家隆の歌ですが、「風が楢の間を抜けてそよ吹き、小川の流れる様は涼しく、既に秋を思わせます。けれど大祓の禊が行われいるのが、まだ夏であるということの徴なのです」という内容です。
 晦日の一日、いえ、半日だけの夏を惜しむ歌なのです。
 これを季節の歌として括るのはあまりにも当然なのですが、まだ心に燻る恋心として取るのもありかもしれません。
 去るには早すぎる心残りの歌ですね。
 もう一日、あと半日、とね。

 残すところ6日で七月が終わります。
 旧暦の夏の終りは僕たちの夏の始まりです。
 君に惜しむものはありますか?
 これからの夏、そういうものに君が出逢えるよう祈っています。

 それでは、また。
 

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微笑み

 梅雨が明けましたね。
 夏が本格的に動きだします。
 焼けたアスファルトの匂い、濁ってゆく空気、老廃物以外の汚物を含んだ汗、見知らぬ人たちの顔・顔・顔。
 この狂ったような暑さは君の生活にも、僕の性質にも幾分かの影響を与えるでしょう。
 道行く人の顔がだらしなくにやけたように見えるのは、恐らくこの強すぎる陽射しのせいです。
 大気が歪んでいるのです。
 陽炎が立ち上る焼けついた鉄板のような都会の路上でムルソーに似た殺意が生まれます。それは多分、こんな偶然が重なりあった結果かもしれません。
 この季節にはどうしたって一抹の涼風が必要なのです。

 君は呆れるか、もう見放すかもしれませんが、急用が出来て病室を抜け出してしまいました。
 どうしても外せない用件なのですがその説明は周囲の人の理解を得られなかったようで、担当医は「もう好きにしてください」という表情で僕を見ていました。

 ねえ、君。
 君は自分の微笑みに気づくことがありますか。
 僕は君の微笑みに幾度も助けられているのですが、恐らく君は気づいていないでしょうね。
 
 微笑みと言うものは作り出せるものではありません。
 心が自然とその優しさや幸福感を零れさせるものなのです。ですから美しい。
 君から見て僕はどう見えますか。
 僕はね、いつも感情表現に予定を立てています。
 こう笑おうとか、こう怒ろうとか、少し悲しそうにしてみようとか、文章をコントロールするように感情を仕立て上げる癖がついています。
 そして、一番楽なのが人前で笑っていることです。否定とも肯定ともとれず、当たり障りなく。

 高校生の頃、石垣りんさんに拾い上げていただいたものに次のようなものがありました。

 僕は安価なゼンマイ仕掛けの笑いをする。
 ジージーと耳障りな音を立てて笑う。
 すると君は
 雑音を面白がって
 つられて笑う。
 つられ笑いは伝染して
 隣の人が笑い出す。
 彼女も彼もあいつもあの子も
 知らない誰かも
 もうそこから先は
 最初の笑いを誰も知らない。
 一列に並んだ
 この空騒ぎは
 一体どこまで続くのだろう。

 僕のは時をいくら経ようとも安っぽいゼンマイ仕掛けの笑顔です。
 巻が緩んで来ればだらしなくなり、きつく巻き過ぎればゼンマイ自体が弾けてしまいます。
 弾けた後は無表情に陥るしかありません。壊れてしまったのだから。
 僕は壊れていませんか?自分ではどうにもよくわからないのです。
 君が教えてくれないと。

 神戸俊樹さんの詩集「天国の地図」に「微笑み」という作品があります。

 ゼンマイ仕掛けの人形のように
 おまえの微笑みは
 壊れやすい
 私が螺子を巻いてやらなければ
 おまえは
 微笑む事を知らない
 しかし
 私がいくら螺子を巻いてやっても
 おまえの微笑みは作り出されものだ
 自分から微笑む事の出来ないおまえが
 不憫でならない

 この「おまえ」とは、たぶん自分自身なのです。
 感情は不完全燃焼を続けて燻り、手を加えて誘導してやらなければ通常稼働さえしない。
 うまく伝わらない感情を抱えて、伝えたくて、伝えようとして、心を掻き毟るようにして自分のゼンマイを巻き続けている姿。
 他人から見れば滑稽で無意味かもしれません。
 自分でも把握しきれない複雑な、そして、単純な、捌け口の無いいくつもの感情の重なりがあって、生きているという実感を作り上げているのです。
 微笑んでみたいという気持ちは、無意識の幸せに対する憧れなのかもしれません。
 お茶を濁すことになれきってしまっている人々には伝わりきらないのでしょうが、その苛烈な痛みは誤魔化さずに生きているということの証明でもあるのです。
 
 もうそろそろ君に近づいていかないといけませんね。
 僕にはまだその勇気が、覚悟がありません。
 今、308頁目です。
 それで何が変わるわけではありませんが、僕は君にもう一度会わなければならないと思っています。

 今日は写真を2枚添えておきます。
 神戸俊樹「天国の地図」と先月お伺いした時に撮らせていただいた佐香厚子先生のお庭の薔薇です。

 それでは、また。

 神戸俊樹「天国の地図」 (文芸社、2005年初版)

 佐香厚子先生オープンガーデン



 

 
 
  

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雨の日のお片付け。

 普段は開かない引き出しの中を少しだけ片づけていたら、高校時代の雑記帳が出て来たので、そこからひとつ取り出してみました。


 不器用な私は、いつまでたっても片付けるのがうまくならない。
 本当はいらないものばかり。
 なのに捨てられないまま棚の中に置き去られてゆくものたち。

 勉強の合間に、
 背を伸ばした折に、
 時間を持て余した時に、
 指にあたったものを拾い上げては、
 頼りない記憶をたぐってみる。

 これは、
 あの人が読んでいた鴎外の小説。
 これは、
 好きだった先輩が忘れて行った消しゴム。
 これは、
 パパとママと初めていった海でひろったガラス玉。
 これは、
 修学旅行で買った、友達とお揃いのカラス天狗のマグカップ。
 これは、
 知らない男の子からもらった誕生祝(バースデー)の趣味の合わないオルゴール。
 これは、
 あの子が壊してしまった目覚まし時計のマスコット。
 これは、 
 クリスマスケーキについていたサンタクロースのお人形。
 これは、
 これは・・・
 えーと、 
 何だったかしら。

 思い出せないけどすてられないもの。

 あれもこれも、
 たぶん、
 きっと、
 何かわけがあるものたち。
 私が忘れてしまっただけで。

 時の砂の堆積のなかで意味を失って行く栞たち。
 この子たちは「いつか」をじっと待っている。
 「私の記憶」がなくなる日まで。

 「ねえ、こんなもの出て来たけどどうするの?」
 「んー、どれどれ。あー、これかぁ。捨てちゃっていいよ。」
 「お母さん、こんなものどうして残していたのかしらね。」
 「たんに捨てられなかっただけじゃないの?」
 
 そうして、
 ようやく解放されて眠りにつけるものたち。
 もはや物語ることもなく。
 思い出されることもなく。

 ごめんね。
 私がもっていたばかりに眠らせてあげられなくて。
 ごめんね。
 これでやっと帰れるね。
 ごめんね。
 これで一緒に帰れるね。
 ごめんね。

 
 高校2年のとき、後輩の女の子に頼まれて作った曲の歌詞です。
 僕にもこういう少女趣味的な時代があったんですよね。
 内容はまるっきり出鱈目で支離滅裂ですけど。
 確かタイトルは「化石の部屋」か、「記憶の栞」だったかな?
 手元にある僕のノートにはタイトルが書かれていないんですよ。
 ピタっと来るものがなくて、渡す時にいい加減に書きいれた気がするんですよね。ちゃんと付けたのかさえ怪しい。おまかせの可能性大。

 思い出の品ってね、本当にいらないものばかりなんですよ。
 ごくごく一部の特別なものを除いてね。
 それらの多くはお土産とか、拾ったものとか、お祝いの品とか、中には誰かの忘れ物なんていうのもありますね。
 借りっぱなしになっているものもあるかもしれません。
 それらを「いらないもの」と言ったら語弊がありますが、時間が経つと不必要なものばかりなんですよね。
 その場の盛り上がりだけで買ってしまったものとか多いですし。
 でね、いらないと思っていたある日、急に気が付くのです。
 その不必要なものが自分の隙間を埋めていたことに。
 人は時間の隙間を埋めるものを集めながら生きているのです。
 さらに言えば、思い出の品ってどんなにつまらないものでも当人は憶えているものです。
 キャラメルの包み紙だって。
 忘れないんですよ。他人には限りなくゴミみたいなものでも。
 けれども、忘れたふりをしたいものもあるんです。ずっと忘れてしまったままにしておきたいものが、ね。
 そして、その持ち主がいなくなり、すべてのエピソードが無に還る時になって、ようやく本当の「不用品」になるのです。
 それまでは誰も手にとらなくても、彼等はずっと勤めを果たし続けているのです。
 思い出してくれる当ても、気づいてくれる確証も彼等には必要のないことなのです。
 だから、捨てる前には「ご苦労様」と言ってあげてくださいね。
 
 この歌詞はこれで全部なのですけど、渡した後の後輩との会話を思い出しました。

 「せんぱーい、これって2番はないんですか?」
 「ないよ。」
 「えー、どうしてです?」
 「だって、捨てられちゃったし。」
 ・・・(間)・・・
 「拾ってくればいいじゃないですか。もったいないですし。」
 「・ ・ ・ 。」

 雨の日に身の回りの整理をしていると余計なものを見つけ出してしまいますね。
 蛇足ですが、この曲の歌い出しは、確か、Fmaj7 だった気がします。

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 写真は、今日の僕のランチです。


 
 

 
 
 

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野分~九月を待たずに。

 君の町では台風の被害はありませんか。
 十分に注意してくださいね。

 台風はゆっくりとした足取りで西日本を縦断するように日本海に向けて進行しています。
 その影響か湿度の高い強い風が薄気味悪くここを吹き抜けて行きます。
 野分。二百十日と呼ぶにはひと月以上も早いですが、この風は草を分けて吹くには充分な強さがありますね。
 その強風の中でも小雀は道を見失うことなく日常を過ごしていますし、揚羽蝶でさえ花から花への移動を繰り返しています。
 星座に星座の道があれば、鳥には鳥の道がありますね。
 彼等自身ではそれを見失いません。人が害悪を与えなければ、ね。
 なのに僕の道は些細な風に煽られただけで縒れてしまい、煽られるように流され行き、着いた先で途方に暮れることのほうが多いようです。
 あまりに情けないですがそれでも道程は刻まれ、過去は地続きで明日へ向かいます。

 君に話しておくのを忘れましたが4度目の手術を行いました。先回からそれほど日にちは空いていなかったのですが、「直ぐにでも」という医者の強い勧めがあったので仕方なく。
 
 君にも覚えがあるのでしょうか(できればないほうが好ましいですけど)。
 全身麻酔から覚めた時の喉がひり付く感じと寝過ぎた後のチクリと後頭部を走る頭痛。
 名前を呼ばれ、手術が終わったことを告げられ、「大丈夫ですか。今から病室に戻りますよ」と大きめの声で話しかける看護師さんの声。
 無難に歩くことさえ儘ならないはずなのに、起き上がれば身を起こせそうな中途半端な全身の怠さ。
 そのベッドに乗せられ病室に運ばれる途中、はっきりと蜩の声を聞きました。
 「夏が来た。」
 僕のなかで季節が弾けた気がしました。
 つい一昨日のことになります。

 夜の病棟は眠りの静けさとは無縁です。
 途切れることなく鳴り続けるナースコール、架台を転がす音、器具の触れ合う音、忙しなく行きかう靴音、他の患者の鼾や寝言、歯ぎしり、呻き声。
 ここでは誰もが助けを求めています。
 昼間の病室のほうがどんなに落ち着くでしょう。

 ロビーで誰かが話しています。
 「この目が痛くて痛くて、何でも圧力がかかって、それを直すには片方の目を取り出すしかないんですよ。」
 「まあ、それはそれはお気の毒に。今は痛みは?」
 「先生の処置のおかげで一時的にはよくなっているけど、手術は避けられないみたい。」
 「そうなの、それは災難ね。でも、あなたはまだよいほうよ。片方でも見える目があるんですもの。私は交感性眼炎でいずれ両方ともダメになっちゃうんですもの。」
 「見えなくなるのは怖いですわね。」
 どちららも慰めて欲しいわけではないはずで、自分は重症なのだと相手に宣言したいだけなんですよ。
 不安だから。
 そんな穏やかな対立がそこかしこで繰り広げられています。

 僕はそうした皆が起きている時間に眠り、皆が呻き声をあげる時間に心を冷たくして夜が明けるのを待っているのです。
 「殺してくれ!死なせてくれ!」と悲鳴が聞こえました。
 痛みに耐えられない。耐えているより死ぬ方がましだというのは、珍しい事象ではないのです、ここでは。
 そのリクエストに応えられることは、消極的な死を迎える患者の数に比べて極めて稀なのでしょうけど。
 医には二つの道があるはずのなのですが、生きるのは義務であることが先行します。そして、それは原則として正しいのです。
 生かされることは罰でもあるのですから。

 ねえ、君。
 夜の病棟に美しいものは存在していると思いますか。
 軽重様々な疾患を抱えた世界に、優しい美しさはあるのでしょうか。
 僕にはね、そんなものは見つけられません。
 僕は、被せられた蓋の重さや押し込まれる隙間の狭さばかりを嘆いているんですよ。
 そして、その苦痛は僕の自意識の象徴でもあるのです。
 病そのものが僕の自意識であり、存在であるとも言えます。

…この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまつしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしい雪がきたのだ…

 これは「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という言葉が印象的な宮沢賢治の「永訣の朝」の一節です。
 重苦しい不安ばかりでできたような雪雲から、妖精のような雪が生まれ、落ちてくる。
 その降り積む雪は平安であり、平等であり、幸福であるのです。
 賢治は妹の今際の際でさえ、美しいものを見ている。
 彼の眼は生涯覆われることはなかった。
 常に開かれ見据えられていました。
 何が醜く、何が美しいか。
 探し回って託けたようなものではなく、彼には最初からそれが見えているのです。
 だから苦しい。
 見えないほうがどのくらい楽か。
 
 トシは賢治にこう言い残します。
 
…うまれでくるたて
 こんどはこたにわりやのごとばかりで
 くるしまなあよにうまれてくる… 

 君は次に生まれてくるとしたなら、やはり人間に生まれてきたいですか?
 普通に生きて普通に死ぬ。
 ここに言う「普通」とは、日常の公約数的な生活のことですけど。
 君は何通りの自分の死を考え、思い測れますか?
 指を一本ずつ切り落とされ、最後には喉を切られて死ぬ様を思い浮かべますか。
 飲む水も食べる草もなく、倒れた体の向きを変えることも出来ずに乾涸びて朽ちてゆく自分を想像しますか。
 原爆症でゆっくりと死の時間を迎えることを考えたことはありますか。
 車と壁との間で肋骨が砕かれ、内臓が潰されて行く様を量れますか。
 そして、自分とは関係のない、全く感情移入のない人間の命を奪うことを仮想することが出来ますか。

 賢治の童話に「烏の北斗七星」というのがありますね。
 君がそれを好きかどうかは判らないけれど。
 今日の終りに、烏が願った言葉を君の記憶から抱き起してみてください。
 君はきっと思い出せるはずです。

…あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。…

 それでは、また。


 

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閑話休題-小笠原和幸とホワイトカレー

 タイトルに詰まると閑話休題という便利なものを棚から取り出してくる癖をどうにかしないといけませんね。
 別に連続したテーマを扱っているわけではないのですから「休題」はないですよね。
 でも、まあ、仕事をすることが日常であるなら、その手をとめている時間を指すということなら許されるのではないかという強引な自己弁護を押し通したいと思います。

 先日の日記でとりあげた小笠原和幸の歌ですが、僕の周りの幾人かから「どういう人なの?短歌らしくないよね?」という話がありました。
 作者自身は岩手県の盛岡市に住んでおられます。僕がいただいた「春秋雑記」という歌集の謹呈箋にもその住所が記載されていました。
 短歌としては確かに変わっていると言えなくもないですね。
 季語などほとんど見えませんし、ひたすらに「生き死に」を詠みこんでいます。
 あざとささえ窺われるその表現は、極めてシニカルに日常の生死を歌にしている。
 それらは自虐的とも諧謔的とも取れますが、じっくり考えてみると作者にのみ起こったことではなく、僕たちの日常でも垣間見られる情景なのです。それを作者はひたすら冷たくとらえて行く。
 底辺にあるのは、やがてくる沈黙です。

 たとえば花の咲く道を歩くことは、普通は生の輝きを捉えるものですが、この人に掛かると夢幻の世界の入り口、夢幻というよりは幽鬼の世界への誘いにも似た情景にかわります。

 寺めぐりするうち迷ひ入りし露地 木槿の花のどこまでかつづく (「風は空念仏」所収)

 お寺をあちこちと廻ってみるうちに道に迷ってしまったらしい。どこかの狭い露地に誘い込まれるとそこは木槿の花が連綿と咲き乱れている。
 歩き回っているうちに異界(あの世)へ迷い込んだのではないかとさえ思えます。泉鏡花の龍潭の書き出しにも通じていますね。
 この句を読んでいると「果たしてこの人物はまだ生きているのだろうか?」、そんな疑問が湧いてきます。

 「春秋雑記」には次のような短歌があります。

 冷え冷えとする夜の居間を通る時 見たまぼろしを団欒といふ

 その家の暗がりを載せ漆黒の 座卓が部屋に放つ光沢

 家庭、家族と言うものはどういう形式であれ無くなることを余儀なくされています。
 子供の巣立ち、離婚、死別など。
 それ以前に、真の団欒などというものはあり得るのだろうか。
 本物の家族、家庭というものはどういうものなのか。
 見たいと思うがゆえに眼前に現れるまやかしでしかない。
 その正体は、研がれたような虚無。
 それもまた無常ということなのでしょうね。

 無常と言えば、しんみりとした墓参りもこの人にかかると視点が変わります。しかも、シニカル。

 生き残りと死に損なひがうるさくて 炎暑の墓地に蝉しぐれする

 うるさいのは蝉ではなく、もちろん生きている人間です。
 
 小笠原和幸という人の作品を見ていると、やはり「これはちがうな」と思います。伝統的な俳句や短歌といったものとは別物ですね。鑑賞のしかたも従来とは違います。この人の作品は一行詩なんですよ。僕はそう思っています。
 単刊の歌集はありますがいずれも絶版。2003年に邑書林からセレクションされたものが発行されています。比較的手に入り入りやすいので一度お読みになってみてください。

 小笠原和幸歌集

 ところで僕は喫茶店が好きで打ち合わせの時もちょこちょこ言い訳を見繕っては入り込みます。
 特に神保町界隈には特徴のある喫茶店が多く、訪ね廻ってみるのも楽しいので。
 本と喫茶店、これ以上の組み合わせはないかもしれませんね、僕的には。
 基本、お店はあまり公表しないのですが、たまーに日記で取り上げることがあります。取り上げるときは事前にお店の方の了承を得るようにしています。得られていない時には、申し訳ありませんが仮称で記載させていただき、後日、了承が得られてから名前を修正しております。

 ということで、神保町の三省堂の近くにホワイトカレーのお店があるのはご存知ですか?
 前に取り上げた「ラドリオ」のはす向かいにあるお店で「チャボ」と言います。こじんまりした店内は10人も入れば息苦しくなるほどです。けど、その狭さがいい。
 キッチンが目の前なのでクーラーなどもとから役に立たず、炎暑には汗だくになってしまうけど、カレーを食べながら汗をだす。それもまたいいんです。
 カレーはスパイシーなクリームシチューといった感じですが、その味わいの優しいところが気に入っています。大盛にすれば食べごたえもあります。ミニサラダと飲み物は込みになっているのでお財布にも優しく出来ています。焼きホワイトカレーというものあり、僕のお奨めのエビホワイトカレーは限定食になっているのでご注意を。

 チャボ店頭 チャボ・ホワイトカレー チャボ店内

 
 

 

 

 
 

鉛の塀

 雨音に耳を澄ましていると誰かの話し声のようなものが聞えてきます。
 それは知己の者たちの声のようであり、見知らぬ人の声のようでもあります。
 何を話しているのか。
 僕に覚えがある会話の断片が谺のように、或いは会話とは言えない奇妙な単語の羅列のようであったりします。
 それらは言葉でさえない、ただの記号なのかもしれません。
 僕はあるはずのない声を聞いてしまう。
 ソ・ラ・ミ・ミ。
 そんな声はどこにもなく、僕の記憶がそれを思い起こさせているだけなのです。
 僕は幻聴に期待しているのです。
 存在しないはずの声でもいい、僕はきっと僕が訊きたかった答えを探している。

 君は知っているのでしょうか。
 言葉ってなんなのですか。
 僕は言葉を操っているのか、それとも操られているのか。
 そもそも心は言葉でできているのでしょうか。
 言葉=心という等式は成り立つのですか。
 僕には、わかりません。
 ただ後悔しているのです。
 言葉を覚えてしまった事を。
 それに頼ることを知ってしまった事を。

 
 「鉛の塀」  川崎 洋
 
 言葉は
 言葉に生まれてこなければよかった
 と
 言葉で思っている
 そそりたつ鉛の塀に生まれたかった
 と思っている
 そして
 そのあとで
 言葉でない溜息を一つする


 以前に紹介した川崎さんの詩集のなかの一篇です。

 自分の言葉は苦痛なのです。
 他人の言葉であれば尚更に。
 言葉で知ることは痛みを伴う。
 笑顔と泣き顔とすまし顔だけで充分だと思っているのに、僕はどんどんと言葉を覚え、言葉で知ってきてしまった。
 言葉は知識であり、期待であり、愛情でもあります。
 そして言葉はそれらを伝えると同時に、僕を裏切り、僕に裏切りを働かせるのです。
 「鉛の塀」に思いが募ります。
 僕の心を晒すことの無い要塞があればと。
 僕の言葉の一切を遮断してしまえる壁があればと。
 誰の言葉も届かない部屋に住めたならよかったと。
 或いは、もっと望むことを許されるならば、身は漂白に委ねるとも、ゆるぎない存在として在りたかった。

 言葉があるから知りたいという欲望が生まれ、知ってもらいたいという希望が生まれる。
 本当は言葉に罪をなすりつけたくはないのです。

 終りの無い耳打ちのように、今も雨のなかで言葉が繰り返されています。
 雨に混じって聞こえて来るひそひそ話は、僕が知りたくなかった答えを繰り返すのです。
 
 僕はずっと前からその「答え」を知っている。

 眠りにつく前に、僕は最後に言葉でない溜息をひとつ落とすでしょう。
 連続しないよう今日にピリオドを打とうとして。
 それが言葉でないことに安心したいのです。

 雨は明日も続くのでしょうか。
 突然の雨に君が濡れないよう、小さくても良いので傘を忘れずに持って行ってください。

 それでは、また。

 


 
 
 
 
 

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かたつむり

 雨あがりの、湿度の高い息苦しい風のなかに海の匂いがしました。
 僕の住んでいる町からは海は見えません。なのに夏になると時折その匂いだけが運ばれてくるのです。
 地図を開けばそれほど離れていないことはわかります。波濤の音もしなければ、海面のきらめきもない、全く実感のわかない、歩いて行くには遠すぎる距離の「近さ」です。
 けれども掴めない齟齬のある距離感はこの海の匂いに限ったことではないでしょう。
 人の距離も似たようなものです。

 夜になって気温は急激に下がりますね。過ごしやすいといえばそうですが、窓を開け放したまま眠ってしまうと風邪をひいてしまうので気を付けないと。
 
 昨日のことになりますが、庭のフェンスにカタツムリを見つけました。
 のんびりと外敵を気にすることもないかのように、進むとも進まぬとも言えない速さで動いていました。
 殻に閉じこもってしまえば生死の見分けもつきかねる生き物ですね。
 
 「或る夏の或る雨の日のかたつむり みじかき生(しょう)を無駄に動かず」(小笠原和幸)

 生き物は自分の生きるべき速さを知っています。決して無理はしないし、それ以上を望みません。
 どうせ死ぬのだから急いでも仕方がないということなのでしょうか。
 短い時間でどれほどの軌跡を残したかではなく、自分の生きる場所をしっかりと見極めているということですね。
 では、僕は、僕たちはどうなのでしょうね。
 
 君は、旅行などで初めて訪れた町で過ごす一日がともて長いと感じたことはありませんか。
 最初の2、3日間が一週間にも感じられるほどに。
 なのに何日か滞在していると同じ一日を短く感じてくるような経験をしたことはありませんか。
 実際の一日の長短が変わることはありません。
 昨日の閏秒のような特別な便宜を図る以外には。
 体感時間の長短は脳が処理する情報量によって決まって来るそうです。
 見なれない場所にくると目に飛び込んでくる景色すべてを処理しようと脳が活発に動きます。それが時間を長く感じさせるというのです。
 見なれることによって情報処理のショートカットが行われ、不要な処理は排除されてゆく、その結果、時間を短く感じるらしいですね。
 子供の頃は時間が遅く、大人になると時間が経つのが早いというのは、いかに大人たちが楽をして周囲の情報を処理しているかということなのです。
 つまりね、僕たちが散漫な時間をすごしていることの証明にもなっているのです。

 万華鏡が美しいのは同じ紋様を描かないからだというのであれば、同じ瞬間が存在しない僕たちの一日も美しいものであるはずです。
 でもね、残念なことにそうは感じないですよね。
 それは恐らく鏡筒に差す光の差なのです。
 月明かりで見るのも、白昼の強い日差しの中で見るのも万華鏡の文様は美しい。
 僕たちはその光の機微を欠いているのです。
 もちろんそれは無いわけではありません。気づいていないだけです。
 僕たちの生活はあまりにも忙しいので、処理をするものをはしょらないとやっていけないので。
 見逃したものに、切り捨ててしまったものに大切なことが混じっていたのにね。
 過去がすべて、思い出のすべてが美しいわけではないし、恵まれた時間でなかったことは君も知る通りです。
 過ぎ去った時代が「良かった」と思えるのは僕たちがその過ちを認めるからなのですよ。
 僕たちの万華鏡は取り返しのつかない過去だけを紋様に映し出すものですから。
 だから、憧れてしまうのです。
 戻れない、二度と手に入らない、そして、それを知ってしまったから。

 「いま」の文様を美しいと思える当たり前の生き方がしたかった。
 考えていることも、迷っていることも、悩み苦しんでいることも、嬉しいことも、誰かを好きになることも、全部を素直に受け入れる生き方がしてみたかった。
 僕にはもう直すことは出来ないので。

 月並みですが、人の一生は上り坂を歩くようなものですね。
 痛もうが、疲れようが、上り続けるしかない坂道です。
 転んでも倒れても来た道を戻ることはありません。
 時間に制約されている以上、坂の下に戻ることはないのです。
 なのに転んだ傷、落ちた痛み、疲れた体の重さ、その分の苦痛をいつでも伴うのです。
 落下してもいないのに叩きつけられる痛みだけを押し付けてくる。
 物理法則を無視した理不尽な坂道ですね。
 いっそのこと歩いてきた坂道の分を転げ落ちてしまえれば楽なのに。
 もう一度坂の下から歩きはじめられる。
 その甘えをこの坂道は許してくれないのです。
 
 かたつむりのように自分の歩く場所を確かめながら生きていきたい。
 もう既にそんな時代ではないことは知っていますけど。
 
 「いとまなき苦労のはてに老いて死ぬ 生のいのちをかなしむべしや」

 先ほどと同じく、小笠原和幸の句です。

 それでは、また。




             
 

 
 
 

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