違和感の夏

 梅雨の晴れ間をどうやって過ごしていますか。

 季節がわかりきったように移り変わってゆくなんて思い込みにすぎないのかもしれませんね。
 エルニーニョ現象の影響で梅雨前線は北上できず、南に停滞したまま九州地方で豪雨をもたらします。
 何年か前も同じようなことがありました。
 太平洋高気圧が発達せず、梅雨前線を日本海側に押し上げることなく梅雨明け宣言の無い夏を迎えたことが。
 その夏を贋物とは誰も呼ばないでしょうけれど、違和感を抱いた人は少なくなかったと思います。
 今年も同じような夏がやってきそうです。
 君はそれを偽りの夏と言い捨ててしまうのでしょうか。

 ねえ、君、いつもと違う一日を過ごすためにはどうしたら良いと思いますか。
 遠出をするとか、一見の店でランチをとるとかでしょうか。
 行動パターンを少し変えてみればいいのかな。
 でも、それでは何も変わらないことを君は知っているはずです。
 時と場所が違うことが自分に変化をもたらすわけではないということ。
 気持ちが変わらなければ、同じ思いを持ち続けて彷徨うだけなら、それは変化とは言わない。
 思考は縛り付けられたように同じ場所を巡り続けるだけで何も前に進まない。
 夜の逸れ蟻のようです。
 偽りの行進に過ぎない。
 
 君に言われなければ始めなかったこの日記ですが、その時に話したことを覚えていますか。
 「区切りのないものを始める気はないんだ。とりあえず一年分の日記を目標ということなら書いてみます。」
 僕はこう言ったはずです。
 今、日記は305頁目です。
 そのうちには全く意味のないものもありますから丁度300と考えた方が良いのでしょう。
 とすれば、あと65頁分で区切りを迎えます。
 だからといって残りをどう構成するかなんてことは考えてはいません。
 これまで通りに成り行きに任せるのみです。
 
 君にとって、僕の「いつか」「どこか」での話は意味を為していますか。
 本から意味のあるメッセージを送ろうなんてことは考えてはいませんでしたけどね。

 以前、車谷さんに言われたことがあります。
 「書くということは自意識の押し付け、自己満足以外の何ものでもない。歩み寄りなどなく、ただわかってもらいたいという欲望だけが存在している。ものを書くということは自分の中の汚物をまき散らすことであり、人の行為の裏側を覗きこむことなんだよ。しかもその表現はどんなことをしても剽窃であることを逃れることはできない。つまり悪だ。悪を行い得る本性を持った人間しか小説家にはなれない。」
 
 僕はね、中途半端なんですよ。
 人を信じる事よりも疑うことが仕事であると、それは本当にそう思っています。
 問題なのはそれが片側通行であることです。
 僕は自分を疑うことが怖いのです。
 自分を否定しなければならないことを避けていたいのです。
 天秤ばかりが傾きを明確に示すことに怯えているのです。
 だから、どちらにも傾かないように細工をする。
 稚拙なレトリックで。
 錯覚していたいんですよ、できるなら永久に。
 自分の価値を示すことなく。

 僕は、僕のいない世界と僕だけを残した世界とを区別できない、と何度か書きました。
 それは結果無価値と言う自分の評価以外のなにものでもないのです。
 僕と世界とは相互関係からしてみると全く無関係であり、僕だけが依存しているにすぎない。
 世界は僕を必要としてはいない、僕だけが世界を必要としている現実がそこにあります。
 パラサイトです。

 君は既に気が付いているのだろうけれど、不思議なこともあるものなんですよ。
 そのパラサイトの書いた「いつか」「どこか」での話が、読んでいる君にとって「いま」「ここで」の話にすり替わってしまうこと。
 そして、そうすることで僕は過去における自分の不存在を覆い隠して現在にしてしまえるのです。
 
 僕がこれを書き終える頃、僕の天秤ばかりは正常さを取り戻すでしょうか。
 そうしなければなりませんね。
 あと凡そ64頁です。

 今日は晴れて暑くなりそうです。
 くれぐれも気を付けてください。

 それでは、また。

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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水の無い川

 久しぶりに君宛の便りを書くことにします。

 こういう書き方をすると如何にももったいぶって聞こえますね。
 自らを主張するに充分な自信に裏打ちされているように見えます。
 けれどその実は非常に情けないことなんですけど。
 術後を甘く見て動きすぎた結果、その反動が出てしまったようです。
 体調は芳しくありません。
 「決まりを守らなければ報いを受ける」の見本のようです。
 君にすれば、またいつものこと、と呆れるかもしれませんね。
 まったくその通りなので弁解のしようもありません。
 どうも僕は直情に流される傾向が強く、思慮深さとは縁遠いようです。
 もっとも言いつけを守らないのと思慮深さとは関係ありませんけど。
 ただ単に大丈夫だと思い込んでいたんですよ。
 自分が特別なんてことはありえないのに。
 思慮の前に常識を身に着けないとね。

 ところで、一昨日の昼過ぎの雨は酷かったですね。
 君の住んでいる町はどうだったのでしょう。
 僕は、ほんの数分の出来事だったのにずぶぬれになってしまいました。
 服を脱いで絞りたかったくらい。
 雨がやんだ野原の道を、グッショリとした情けない風体で歩いていたら、普段は水の無い石ころだらけの川底が一瞬の流れを作っているのを見つけました。
 あれほどの降り方ですから水もたいそう濁っているだろうと思ったら意外にも川底が透けて見えるので少々感心してしまいました。
 そんなものに感心するというのもおかしなものですけどね。
 めったに歩くこともないその枯川沿いをぶらついてみる気になったのです。
 通常は干上がったままの川に、誰が渡したのか板切れを倒しただけの橋が朽ちてかかっており、その少し先に白い鳥らしきものが見えました。
 僕は何の鳥なのかを確認するため音をたてないように注意して近づくことにしたんです。
 真白な羽毛と小さく絞られた頭から伸びている冠羽と鋭い長い嘴。
 コサギです。
 彼は数センチしかない水の流れに視線を向けてじっとしていました。
 静止しているその姿は剥製のよう。
 魚か小海老でも待っているのでしょうか。
 時折、脚を組み替えるように動きはするものの、やはり川面を静かに見詰めていました。
 (そこには何もいないんだよ。)
 見えるのはごろた石の他には、踏みつぶされたお菓子の包み箱や空き缶、泥に汚れたレジ袋と投げ捨てられた雑誌、そんなものしかない。
 そこは川じゃないのだから。
 ずっと昔は魚も小海老も亀もいたかもしれないけど、今は何も棲んでやしない。
 彼は頭をフルフルっと震わせました。
 こんなはずじゃなかった、とでも思っているのでしょうか。
 僕はずぶぬれのカバンからカメラを取り出して撮影しようと思ったのですが、たぶん、そうしたら彼を驚かせてしまうのではないかと思ってやめました。
 そのかわりにしばらく彼と同じ時間を過ごすことにしたのです。
 辺りには彼の仲間の姿は見えず、無残に膚を曝した土にまばらに生える草、掘り返され放置されたままの岩と切り株、仮初の川の中で一羽だけが取り残されている姿。
 きっとこれは何十年後、或いは何百年後かの、ここにいるたった一羽を除いて滅びてしまった後の景色なのです。
 けれど最後の一羽になったとしても、彼はやはりこうして水を見詰めつづけているのでしょう。
 彼自身のではない記憶のうちには、無数の仲間と樹上に巣を営んだことが遺伝子の情報として微かに伝わっているかもしれないけれど。
 もし君があの鳥だったらどうしますか。
 僕が最後の人類となったら、こんなに静かに何かを見詰めてはいられない気がします。
 気が狂っているかもしれません。
 その時、僕の遺伝子はどんな映像を記憶のなかに結ぶのだろうか。
 そう考えたら、「僕はきっと彼に劣っている」と、そんな気がしました。
 自然の生き物は強いんですよ。
 食物連鎖の頂点にいると愚かにも信じて疑わない人類よりも、遥かに逞しい。
 人類が地球を破壊しつくす前に、一瞬で人間だけが滅びてしまえばいい。
 
 今日はね、君に伝えたい少し嬉しいことがありました。
 以前に書いた「冬の哲学」のことです。
 YouTube でその歌をアップしている管理者の方からご連絡をいただいたんです。
 森田つぐみさんのCD「愛のスケッチブック」が発売になったという知らせです。
 諦めていたものが唐突に手に入る時の喜びは、君も知っていると思います。
 そして何よりも膨大なネット情報のなかの片隅とも言えないほど小さな僕の日記をみつけてくださったことが有り難くて。
 昨日も今日も嫌なことがあって沈みがちだった苦い気分に、スプーンひと匙分のミルクを落としてくれたかのようです。
 こういうささやかな縁は気づいていないだけで他にもたくさんあって、僕はそれに感謝しなければいけないのです。
  
 それからね、僕はやっと気が付いたんですよ。
 僕がどんな生活をおくりたかったのか。
 贅沢な家で寝転んでいたいとか、人よりも優位なステータスを得たいとか、音楽や本や絵に囲まれた世界に住みたいとか、そんなことではなくて、僕が望んでいたのは静かな生活だったんです。
 自然が作り出す音や人が営みの中で作り出す音に包まれた争いのない静かな生活。
 便利じゃなくてもいい、速くなくてもいい、自分の足りる分だけを持っている暮らし。
 不安は日常のスパイスだと言って退ける強さを持たない僕は、世間的には負け組なんですよ。
 でも、争わないで負けるのなら、それでいいのではないかと思い始めたんです。
 そうしたら、恐らく僕もあのコサギのように静かな眼差しを持てる気がして。
 諦めとか、悲しみとか、懐古ではなく、自分の道を静観するということ。
 そんな勇気を持てる気がするのです。

 自分勝手をした僕が復調するまでにはもう少し時間がかかるようです。
 君は、僕と違ってわきまえているから同じ轍は踏まないですね。

 まだ梅雨空は続くようです。

 それでは、また。


 

 

 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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梅雨の音

 雨をかいくぐって栗の花のぬるっとした甘い香りがしてきます。
 もうそろそろ梅雨入りなんですね。
 君は何をまちますか。
 夏ですか。
 新しい水着を用意して海に出かける予定を立てているのでしょうか。

 先だっての手術は無事と言うか、あまり効果なく終わりました。
 痛みを取り除くと言うことには一応の結果はだしてくれたので、それで良しとするほかないですね。
 頃合いをみてもう一度やらなくてはいけないようです。

 数日前、平岡淳子さんから「クリップ」の75号が送られてきました。
 巻頭の詩が季節をとても優しく伝えてくれます。
 こんな詩です。

  「手 紙」  平岡淳子

  鳥の声をきいていたら
  きれいな文字が書けそうで
 
  長年使っているペンと
  引き出しから無地の便箋を

  みえないはずのものが
  みえるような五月も終わり

  紫陽花はほわんほわん
  薄く色づいて雨をまってる

 「クリップ」は平岡さんが自主発行している小冊子です。
 もうだいぶ以前に発行された詩集の作品と新しいものを比べてみると、根底は変わっていないのですが、その冷静な視点と言葉選び、そして、自分というフィルターを通してより簡潔に抒情を伝えるという手法が研ぎ澄まされてきた感じです。
 感情に流されずに淡々とした詩の世界をつくる、そこにはルナールの目があるような気がします。
 7月14日から19日まで北青山のギャラリー・ダズルで " Poetry vol.4 -詩によりそうー"という展覧会が開催されます。
 平岡さんの詩に6人のイラストレーターが絵をつけてゆくというものです。
 君も時間があったら覗いてみてください。
 
 そういえば雨については思い出すことが殊の外多いのですけど、先日、病院帰りのタクシー待ちで夜寒の雨に打たれていたらレイン・コートの幽霊のことが浮かんできました。
 もちろん実際の話ではなく芥川龍之介の「歯車」の話ですよ。
 鏡花の雀のごとく、どこに場を移しても追ってくるようにそこにあるレイン・コート。
 そして、芥川の眼のなかで回り続ける半透明の歯車。それに伴って起こる頭痛。
 どちらも死の予兆として描写されています。
 幻覚については、症例でいえば閃輝暗点ということになるようですけど。
 これに 「フラッシング・ダーク・グラビティ」とか出鱈目なルビを振るとどこぞのラノベにでも出てきそうですね。

 「歯車」は最晩年の作品で遺稿のなかにあったものです。
 僕は彼の研究家ではありませんから、この作品が晩年の実生活をどれほど忠実に再現しているのか知りません。
 ただ死の予兆として訪れる歯車を見続けていた彼の心理状態には非常に興味深いものがあります。
  
…僕はもうこの先書きつづける力を持つてゐない。かう云う気持ちの中で生きてゐるのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠つているうちにそつと絞め殺してくれるものはないか。…(歯車)

 死の三か月前と言うこともあって、最後の一文は同じ年に書かれた「闇中問答」の結びと重なるようにして僕の心に妙な引っ掛かりを残しました。

…お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時變わるかも知れない。唯しつかり踏ん張つてゐろ。それはお前自身のためだ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。…(闇中問答)

 君の眼はきちんとものを映していますか。
 僕の眼はそろそろ歪んできたかもしれません。いえ、もともと歪んだものしか映さなかったのかもしれないのです。
 見ることに疲弊しきった結果、世界が歪むのか。それとも、見飽きた世界から逃避するためにそうなるのか。
 本よりどちらが正しいのかを知る術は僕にはなく、第三者の診療に頼るほかないのだけれど、いずれにしろその結果は僕を推測することはできても真実を割り出すことはできません。
 僕にも君にもね。
 本当の理由なんて誰にもわからないのだから。

 ところで、君も知っての通り水は非常に防音効果(伝搬減衰効果)が高いのです。
 水のカーテンに遮られていると、もう向こう側の声は聞こえません。
 雨音に遮られるのと、水自身の防音効果とが相俟って、きっとこの梅雨の時期は一年を通して最も静かな夜が迎えられるのかもしれませんね。
 場所を選びはしますけど。
 それから雨には人を引き留めるという効果もあるようですよ。
 急に降りだした雨をしのぐために雨宿りしたり、あがるまで発つの遅らせたりね。
 だから、こんな歌も生まれたのでしょう。

…鳴る神の少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ…(万葉集巻の十一)

 「雷でも鳴って雲が出てきて雨でも降れば、あなたをここに引き留めることができるのに」という意味です。
 これには「雨なんて降らなくても君が望むならずっとここにいるよ」という返し歌があります。
 ロマンティックというより、このノロケは何時まで続くんだ?という感じの甘さが痛い、怖い、耐えられない、です。
 実際に目の前で繰り広げらていたら、僕はツクツクボウシのごとく電柱に抱きつき「雨に歌えば」でも大声で叫びそう。
 空気が読めないふりをして邪魔をするのは、僕の煩悩技でもっともポピュラーなもののひとつですから。
 でも、羨ましいですね。まあ、所詮は妬みですよ、僕の。
 雨は物語を運んできやすいんです。
 七夕近くに降る雨も、考えようによっては素敵な歌がつくれるのですから。

…この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも…(万葉集巻の十)

 七夕に間に合わせようと必死に舟を漕ぐ彦星を見ていたら「頑張れ!彦星っ!織姫は君をまっている!」というエールさえかけたくなります。
 恋に努力する人たちはコミカルで可愛くて、かつ、美しいものです。
 
 雨はいろいろな意味を持っていますね。
 人の世に起こることの比喩としてもよく使われます。

…夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移ろひなむか…(万葉集巻の八)

 「夏が来て花開いたハネズは、雨に打たれて色あせてしまわないでしょうか」との移ろいやすい心の暗喩です。
 ハネズは唐棣花と書き、その花弁はとても鮮やかな朱色をしています。
 因みに「ひさかたの」は、天、雨、月、雲、光などに関わる枕詞です。
 また「はねず」或いは「はねずいろ」は「うつろふ」「うつろひやすし」に掛かる枕詞です。
 万葉集に「思はじと言ひてしものをはねずいろの移ろひやすき吾が心かも」という歌があります。
 はねずで染めた布は木灰を入れた水で洗うと色落ちがします。そういうところから「うつろいやすい」というイメージがきているのでしょうね。
 花言葉は「尊い思い出」です。

 雨はまた恨み辛み、惜しむ心も含んでいます。

…雨障(あまつつ)み常する君はひさかたの昨夜(きぞ)の夜の雨に懲りにけむかも…(万葉集巻の四)

 「常日頃、雨が降ると出不精になるあなたは、昨日の雨に懲りてしまってやはりお出かけにならなかったようですね」みたいな感じの歌です。
 待つ身と待たせる身とどちらが辛いのでしょうか。引き留めるも、引き留められるも、残す心はどこかにあるのでしょう。そして、恐らく何かにそのどうしようもない訳を求めているのです。

 僕も万葉人に負けないくらいこの鬱陶しい梅雨をロマンティックに乗り切りたいですね。
 気が付けば四万六千日みたいな、ね。

 体調を崩しやすい時期でもあります。
 不摂生は控えめにしてくださいね。
 すこし先の話ですが、ほうずき市で君に会えたらいいですね。

 それでは、また。
 

 
 
 

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