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病室にて

 今日は雨降りの一日でしたね。
 君はどうやって過ごしていましたか。
 僕は病室に入ってじっと窓の外を見ていました。
 持ち込んだ本も痛みのため読む気になれず、読み始めても言葉が噛み砕けずに流れ落ちて行ってしまいます。
 それなら放り出したほうがましですね。僕にとっても、本にとっても。
 明日、3度目の手術をします。
 大したことではありません。その場しのぎの応急処置のような手術ですので。
 病院の個室は清潔すぎて静かすぎて横になっていると死後の世界にいる気がします。
 緒の切れた自分が上空から自分を見下ろしているような錯覚さえ覚えそうです。
 でもね、人は生まれ落ちた時から病にかかっているのですよ。
 人生そのものが病室のようなものです。
 明確なものが目的だというのであれば、生きることの目的は間違いなく死ぬことです。
 夢を為すとか、大望を果たすとか、そんなものは生きている途上での方便に過ぎないのです。
 生きることは死を考えることです。
 最近は死を甘く見過ぎているようですね。
 だから命を粗末にします。
 刹那という重みについても考えが及ばないし、そうしようともしません。

 僕は最近自分を、酸素不足で死んだ魚に置き換えてみるのです。
 置き換えなくても、そういう感覚が沸き起こってくるのです。
 その直前まで生きるために元気に餌を食べて泳いでいたのが、次第に息苦しくなり、水槽の底に身を沈めて、口をパクパクしながら、生きたいと願っている姿。
 彼等は誰も死にたいなんて思ってはいなかったんですよ、間違いなくね。
 生きる事しか考えていなかったのに。
 僕はそうやっていったいどれくらいの命を葬ってきたのでしょう。
 次こそは大丈夫、きちんとやるんだ、と胸の内でいくら繰り返しても、死んだ魚は帰っては来ません。
 目の前にいるのは、やがて死なせてしまうだろう別の魚です。
 そして、今度は僕がその魚になるのです。
 銀河と言う水槽のなかの水草についた小さな太陽系と言う気泡のなか。
 僕たちが生きている現実は更にその気泡のなかにある地球と言う微小な塵芥にすぎない。
 観察者はもう既に水槽のメンテナンスを放棄しているのかもしれません。
 興味を失っているのでしょうね。
 僕たちが多くの場合にそうしてきたように。
 時間と言う水は、いつの日か干上がってしまうかもしれないのです。
 そして、また次の水槽が仕掛けられる。
 今度こそは、と。
 
 君のことを忘れる日が来ることはないだろうけれど、君の事を思い出さずに済む日は来るのだろうか。
 
 僕は子供の頃、死の虫をみたことがあるんですよ。
 5歳か6歳、そのあたりです。
 そう言ったら君は笑うかもしれませんけど。
 父に連れられて、たぶん父の友人だったと思うのだけれど見舞った時のことです。
 看護婦に案内された病室のドアを父が開けた途端、無数の黒い蟻のようなものがベッドにたかっていて、僕たちが部屋に踏み込むと一斉にこちらに向かってきたのです。
 蟻が足許から這い上がろうとするように。
 僕は地団太を踏むように足をバタバタさせて振り払おうとしました。
 けれど、それは僕にしか見えていず、父に「静かにしていろ!」と頭を殴られました。
 見舞った人は、その3日後に亡くなりました。
 それからです、病院に行き同じようなものが見えると、その人は大概ひと月もしないうちに亡くなったんです。
 今はそんなものを見ることもなくなりましたが。
 でもね、感じることがあるんですよ。
 歩いている患者のローブからポトポトと水滴のように床に落ちた虫たちが近くの人を求めて這い寄ってゆく音が。
 手すりとか、ベンチとか、そんなものにたかっている死の蟻がゾワゾワと体を登ってくるのが。
 恐らく、それは少しずつ僕の体に住み着いて、やがて僕を食らいつくすのでしょう。
 その時が、THE END です。

 先日、僕のところに帰ってきた写真の最後の一枚はこれです。
 ブダペストで撮影しました。
 彼と行った最後の旅行地です。
 僕はこの時の彼の言葉をようやく思い出しました。
 「眠っているものを脅かしたのは俺たちだな。鳩は飛んだのではなく、追い散らされたんだよ。」

 それでは、また。

 ブダペスト

 
 
 
 
 
 
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テーマ : ひとりごと…雑記…きままに
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東京発 11:50 のぞみ103号 広島行

 お元気ですか。
 君に旅行のおすすめです。
 なんてね。

 新幹線のホームに立つのはどのくらいぶりでしたでしょう。
 もしかして君を見送ったのが最後だったかもしれません。
 そして今度も見送りのためです。
 僕も乗って行かれればなぁ、とため息。
 雑誌やインターネットで情報を集めて旅行の計画はたてるのですが、実際には列車に乗り込むことはなく、始める前に僕の旅行は終わってしまいます。
 仕事では車を走らせているのにおかしなものですね。
 できればね、僕は車ではなく、電車で行きたいんです。
 ゆっくりと車窓を眺めながら、読み止しの文庫本を膝に置いて、気づけばうたた寝をしているような。
 そんなに遠くでなくてもいい。
 簡単なことのはずなのに難しいですね。
 いや、簡単なことだから難しいのか。
 
 例えば、江ノ電に乗って「ハナヤマタ」「南鎌倉高校女子自転車部」とか、アニメ版「ねらわれた学園」や「うたかた」の景色を訪ね歩くくらいでちょうど良いのですけど。
 あー、「エルフェンリート」も鎌倉が舞台だったような・・・。
 「吸血姫美夕」も途中から鎌倉ですね。
 さすが京都に並ぶオカルトの古の都。
 「つり球」は鎌倉と言うより江の島。
 「青い花」も原作は鎌倉だったような気がします。
 君が知っている作品もあると思いますけど、このままアニメ・漫画の話しで尽きてしまいそうなのでここでよしておきましょう。
 でも、できれば聖地巡礼をするのなら小説や映画のロケーションと言ったほうが恰好がいいですね。
 文士なら、川端康成、立原正秋、吉屋信子、芥川龍之介、高見順、永井龍男、横溝正史、三木卓、エトセトラ。
 映画では、小津安二郎「麦秋」、「晩春」、ツルゲーネフの「はつ恋」とか。
 「寅さん」のシリーズもいくつかありましたね。
 ラノベ的な小説で言えば、「荒野の恋」、「ビブリア古書堂」、「乙女の花束」もか。
 結構、出てきますね。
 まあ、そんな手がかりがなくとも鎌倉は十分に楽しめる町ですけど。
 ただそういうものが無いときっかけを掴めないこともあるということです。

 君が旅にでるきっかけはどんなことですか?

 この日、ホームで見送ったのは大学時代の知人の娘さんでした。
 今年高校を卒業して、運よく?(と彼女は言っていました)岡山にある大学に入ったそうです。
 彼女の父親とはたまに行動をともにしてはいたのですけど、友人とは、たぶん言えません。
 僕は彼が苦手だったし、彼はきっと僕のことを嫌っていたと思います。
 彼は写真家になると息巻いていて、僕も写真を撮るのが好きだったもので、たまに撮影旅行に付き合ったりもしました。
 でも、仕上がって来る写真を見るたびにお互いにケチをつけまくりました。
 見ているものが違っていたのですから写っているものも当然ちがっていただけなのですけど。
 卒業してからも、何度か彼に旅行に誘われました。
 彼が選ぶロケ地は、悔しいけれど僕の好みの土地でもあったんです。
 最後はたぶん20年くらい前かな。

 僕は最初に契約してから電話番号を一度も変えていないのです。
 だから連絡が取れたのでしょうね。

 「君のお父さんとは正直に言えば気が合わなかったですね。同じロケ地に行っても別行動でしたし、道中に話をすることも稀だったんですよ。僕の撮った写真は彼にしてみれば大失敗で、フィルムの無駄とまで言われましたから。」
 「父も同じことを言っていました。でも、気が合うとか合わないではなくて、一緒にいて疲れなかったとも。」
 確かに彼といて疲れることはありませんでした。
 ふたりでいてもひとりで行動しているのと同様で、何の干渉もありませんでしたから。
 偶然居合わせた対岸の釣り人みたいなものでしたね。
 そう思うと行動をともにしていたのが不思議です。

 彼とはもう何年も会わずに来ていました。
 年賀状のやりとりすら一度もなく。
 「父は昨年の11月に肝臓癌で亡くなりました。」
 そして、亡くなる少し前に僕のことを持ち出して、「俺が死んだあと、これを届けてくれ。居場所がわからなければそれでいいから」と言ったそうです。
 それは僕が撮った写真で、場所も時もバラバラな3枚でした。
 なぜ彼が持っていたのかは記憶にないのです。
 「やつに会えたら、こう伝えてくれないか。俺は見たままにシャッターが切れるお前の素人くさい写真が羨ましかったからこき下ろしたんだ。その素直さが嫌いだったよ。それは今でもかわらない。この下手糞め、と。」
 僕も彼の作品を見るたびに同じようなことを思っていました。
 写真の腕前は比較するべくもなく彼のほうが断然上でした。
 目に映る風景を思い通りに切り取れる彼の技術が妬ましかったんです。
 それはわかっていました。
 だから彼から学ぼうとしていたんですね。
 「教えてくれ」とは最後まで言えなかったですけど。

 僕は写真を趣味にとどめ、彼は努力を重ねてプロになった。
 彼が銀座の貸し画廊で三人展を開いた時、それは偶然で、見覚えのある名前が別人かもしれない程度で覗いたものでした。
 僕はそこでプロフィールを確認してから、当人がいないのを見計らって一点買い求めました。
 それは、僕がその景色を前にしていたら、きっと「撮りたい」と思った写真だろうから。
 もっとも彼は知っていたはずです、受注名簿で。

 「こちらにくるまで半年もかかってしまいすみませんでした。今度、瀬戸内に遊びにきてください。母も会いたがっていましたから。坂と階段と海しかない、宅配便の人が日本で一番苦労する町ですけど、きっと気に入ると思います。」
 彼女はそう言って小さく胸の前で手を振ると発車のアナウンスが響くなか、新幹線の車中に乗り込みました。
 ネガのスリーブのように並んだ小さな窓を彼女のベージュのワンピースが動き、僕は同じ速さでそれを追いました。
 そして決められたシートを捜し当てると窓に顔を寄せて彼女はもう一度、手を小さく振り、聞こえない声で「また。」
 たぶん、その声は発せられていなかったと思います。
 唇のかたちだけをつくって。

 「いつか」なんて言う日は来ることがないのかもしれないけれど、それは果たせない約束の代名詞なのかもしれないけれど、いつの日か行ってみたいと思っています。

 届いた写真のうち2枚を添えておきます。
 何の変哲もない野の草の写真です。
 
 それでは、また。

 ミヤマハナシノブ ふきのとう 


 

 

  
 
 


 
 

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Alone Together

 お元気ですか。
 汗ばむ体がもう夏だと言っていますね。

 先日、仕事途中のことです。
 見晴らしの好い道路端に車を停めました。
 その日はやや雲が多いけれども、曇天というには陽気な光が射していました。
 生えそろったばかりの草は柔らかく、風が吹き抜けるたびに銀色に翻りながら、同じ方向に緩やかな弧の波を作り戦いで行きました。
 そこに、こどもが二人ちいさく見えました。
 たぶん僕の小指の間接ふたつ分くらい。
 くさ原の側を流れる小さな川を覗き込んで。
 メダカか、ザリガニか、オタマジャクシかもしれません。
 それともアメンボウがスイスイ渡る様を追っていたのでしょうか。
 詳細を掴めるべくもなく、彼等が覗いているものをただ想像するのみで、それを見守りながら木下夕爾の「若き日」という詩の冒頭を思い浮かべていました。

   晴れた日の丘の草を藉きながら一人が言った

  ― もう百年もしたらきっといい時代が来るだらうと

  他の一人がそれを笑った

  もう一人は黙ってゐた  …

 君には、かくれんぼで取り残されたような思い出はありますか?
 息をひそめて全身に真剣さを湛えて隠れ居たまま、誰の声もしなくなり、誰も探しに来てくれなかったこと。
 それが偶発的に示し合わされた結果だとしても、認める自分を身窄らしく惨めに思ったこと。
 ドッジボールに入れてもらえず、少し離れた場所から眺めていたことはありますか?
 誰かが自分を見つけて声をかけてくれるのではないかと思って待っていたことはありませんか?
 自分にだけ知らされなかった集まりの顛末を翌朝に耳にして、自分は何なのだろうと落ちこんだことはありますか?
 それから君は自分以外の誰かが同じような立場にいるのをみたことはありませんか?
 君はどうしましたか、その時。
 僕は何もしなかったような気がします。
 どこにでもあることだったし、誰にもでもあることだったし、その場だけちょっと悔しい思いを噛み締めるだけなんだと。
 僕も同じ思いを味わったんだから大したことじゃないってね。
 本当に大したことじゃなかった?
 今でも覚えているのに。
 悔しいって言ってるよ、あの時も今も。
 ささいなことが恨みになってずっと残っているのを誰も知りません。
 まあ、それはお互い様。
 ごく稀には歩み寄った記憶もあります。
 口に出さない見返りを期待して。
 けれどいつだってそんなものはシャボンの泡より簡単に潰えてしまうのです。
 初めからむすばれていなかった自分だけの「約束」。
 心の中にその数だけひっかき傷を残して。
 その事々の逐一など覚えてはいないのに、傷があることだけは思い出せるのです。
 なんて都合の良い身勝手さなのでしょう。
 逆のことは思い当たったとしてもスーパーディスカウントなのにねぇ。
 それでも思い出さないよりはマシっていう言い訳は通じますか?
 
 僕はダッシュボードの中にあったお茶を取り出して喉を潤しました。
 それは車内の気温と同じ温さで、僕の体温よりもやや高めで。
 こどものひとりが近くの枯れ枝をひろって川底を引っ掻き回す仕種をしました。
 水が撥ねたのか、もうひとりがキャっと言って立ち上がります。
 そうか、あの子は女の子だったんですね。
 シャツと半ズボンだったのでふたりとも男の子だと思っていました。
 何かがいたのか、それともただの悪戯なのか。
 僕も同じようなことをしたことがあるな。
 目的なんか何もなくて、澄んだ水を濁らせるだけで楽しかったんです。
 そのうち靴のまま川に入ってズボンまで泥と水に浸しにして。
 春も夏も秋も冬も、関係ありませんでした。
 水があって、何かがいるかもしれないというだけで面白く思えたんです。
 たとえ何もいなくても。
 いるものを想像できさえすれば。

 彼等の話し声は聞こえません。
 車を停めた遠くからそれを眺めていただけです。
 ひとりは僕に似ているような気がしました。
 今のではなくずっと昔の僕に。

 ふたりきりでも楽しかったんです。
 ふたりきりだったから楽しかったのかも。
 こどもはおとなより遥かにお得です。
 素直に遊べるぶんだけ幸せが多い、その中にいてそれに気づくことはないけれど。
 僕はこんなことを思ったんですよ。
 「笑えるのなら笑えるだけ笑っていたほうがいいよ。」

 すぐにそれが笑いたい時の笑顔じゃなくなる日がきます。
 自分でも笑っている理由がわからないなんてことが。
 文字通りのただの「馬鹿」騒ぎ。
 だから君はこどもたちの声を騒がしいなんて言わないでくださいね。
 彼等にはもうスペースがなくなっているのですから。
 そうしてしまったのは誰なのかを考えてみないといけないのです。
 僕も君も。

 空のどこかを飛行機が通り過ぎる音がして、雲がゆっくりと地面に影を作って動いていました。
 上空はここより風が緩やかなのでしょうか、それとも距離のせいでしょうか。
 いずれにしてもそれはゆるりと彼等を追い越して、もうすぐ僕のところにやってくる、草を食む牛の速度で。
 だから僕はそこを退くことにしたんです。
 もう戻らないといけなかったし。

 君が同じ場面に出くわしたら、君は雲に場所を譲る必要はありませんよ。
 あの子たちのように追い越されたのも気づかないまま、くさ原の見える場所に立っていてください。
 そしてもし心あたりができたら空を見上げてみてください。
 いくつの雲が自分を追い越して行ったのかって。

  ― もう百年もしたらきっといい時代が来るだらう …

 それでは、また。


 

 

 
 

 
 

  

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呼継

 今月に入って連日、君宛に書き殴っていますね。
 これが携帯のメールであったら何百通ものスパムメールに分割されて、立派なストーカーになりそうな感じです。
 でも、これで一息つくと言ったところでしょうか。
 今日は何もない話をしようと思うのです。

 君も知っているかもしれませんが、陶磁器の技法のひとつに「呼継」(よびつぎ)というのがあります。
 割れた破片を集めてひとつの形に継ぎ直す技法のことです。
 もとは漆工芸技法であり、修復法のひとつだったようですが、次第にパッチワークのようにいろいろなものを集めてきて器を作ると言う流れが出てきました。
 修復における呼継の器には良いものが少なくありませんが、パッチワーク的なものに関しては心を惹くようなものはごく稀です。

 形が整ったものはどんなものであってもそれなりの美しさを湛えています。
 それは持つ者が持っている美と言えます。
 欠けたり罅割れたりしたものはどうなのでしょう。
 それ自体を目で追って「美しい」と言えば嘘になる、と僕は思います。
 痛みを持つ物の美は、加害者にしかわからないのではないか。
 罪の意識がそこに美をみせるのではないか。
 足利義政が薄暗く狭い茶室の内部で見詰めようとした世界です。
 僕は常々そう思っているのです。
 同情ではなく、自分が虐げたものたちに対する悔恨が哀の美をつくるのではないか、そう感じるのです。
 自らを責める痛みが美を見せるのかもしれません。

 美とは物に限らず互いを結びつけるものです。

 例えばある人物が虐げられている人々に「あなたたちは」と呼びかけているうちはその声は絶対に届きません。
 その人物が虐げられ、初めて「私たち」と言うことで調和が生まれます。
 現場が同じであっても立場が等しくなければ同化することはなく、呼びかける資格をもたない。
 私たち、という美を共有することができませんから。

 罪を自覚しない者がいくらお題目を唱えようとも哀の美を知ることはなく、故意に破調の美を求める者はそもそもそこに美がない。
 破調の美とは単純に調和を乱しているものではありません。
 調和があってこその美が基本であるとするなら欠損や不調和はそれだけで目立つのです。
 際立っていると言っても良いかもしれません。
 際立つことはデザインとして目を惹きます。
 しかし仕立て上げられ過ぎた破調は奇抜なだけであって本来の美とはかけ離れているのではないでしょうか。
 そんなものだけを集めて空間を構築すればまるっきりデタラメなものになってしまいます。
 意図的な破調は上手に意表をつけば感心はされるでしょう。
 しかし見なれてしまえば最早意表を突くことも出来ず、じっくりと眺めれば飽きがきます。
 説得力がないのです。
 それらを、特に記憶の中で仕立てられた破調を、嘘、或いは虚飾と呼びます。
 異質の美とは演出されなくても自然な輝きを持つものです。
 出る杭は人の手によって半端になおざりにされたものではなく、元から自分の意思で打ち込まれることを望まないのです。
 硝子の欠片はそれ自体が光を反射します。
 
 僕は人の一生も同じようなものだと思っています。
 不断の時の流れのなかで寄せ集まってくる無数の欠片。
 たとえば、君、もしくは、彼等。
 僕と君の間に連続性も同一性もありません。
 互いが別の欠片です。
 この面倒くさい個人という欠片が吹き溜まってできているのが社会というものです。
 最も歪な呼継の器。
 繋いでいるものはルールという漆です。

 そして最も小さい歪な器が「自分」です。
 では僕の欠片を繋いでいるものは何なのでしょう。
 存在ですか?
 ある、ということは即座に創造を意味しません。
 もしそこに創造に近いものがあるとしたら隠蔽でしょう。
 僕はその隠蔽が故に、ここに「ある」のです。
 そして僕の欠片を繋いでいるもの、それは自意識です。
 自意識と言う漆で無数の欠片を繋いで、必死に不存在であることを隠そうとしているのです。
 
 僕は本当にデタラメな生き方をしてきました。
 ひとつひとつの記憶の文様の一部には、たぶんそれなりに美しいものもあるでしょう。
 そうでないもののほうが遥かに多いですが。
 暗色のなかに明色が一点あればそこに光は集まります。
 突出した輝きもあれば、地味なもの、ともすれば暗色に輪郭が同化してしまいそうな明色もあるかもしれません。
 それらすべては飛来物質なのです。
 元来僕には含まれていなかったものです。
 僕は自意識の外は何ももっていなかった。
 だから僕の望む美のすべては君からの授りものなのです。
 つまり僕には、何もない、のです。

 結論が闇オチになるまえにやめておきます。

 風が強すぎる日は目を傷めます。
 気を付けてください。
 しばらく間が空くと思います。

 それでは、また。


 
 
 
 
 
 
 
 
 

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 今日は快晴ですね。
 昨夜、暴風警報がこのあたりにだされたのは23時7分頃でした。
 携帯電話の鈍いバイブ音がその着信を知らせたのです。
 僕は何を思ってか窓を開け放しました。
 すると瞬間、バンッと障子に風がぶつかる音がしてPCデスクの上にあった原稿用紙やら書類やらを部屋中にまき散らしました。
 君にアドバイスをしておきます。
 空気を入れ替えるのは暴風警報が出ている時は控えましょう。
 あとが大変ですから・・・。
 ガラス窓をもとのように締め切ると外では虎落笛ならぬジェット旅客機の排気音のような音が聞えます。
 いったい何がこんな音を立てさせるのでしょう。
 この付近にはもしかしたら僕の知らない何かが棲んでいてそれが咆哮をあげているのでしょうか。
 東日本大震災でダメージを負ったこの家が強風に震えていました。
 中二病を患っていた時であれば、これでライトノベルのプロットくらいは書けそうです。
 たぶん書きはしなかっただろうけれど、僕は怠け者なので。

 いつものように明け方をまっているうちに少しだけ夢を見ました。
 まどろみの縁はワイングラスのように危うくて、現実と幻とを紙一重で隔てながらもコラージュのように重ね合わせてきます。
 足を踏み外さないようにしないと。

 君のことを思い出していました。

 あの日、僕は自分の高校の始業式だというのに長崎にいました。
 そこで君に会ったんでしたね。
 君は真新しそうな鞄を体の前で両手でキュッとしっかりと握り、少し気負った風に、そして誇らしげに顔をあげて桜をみていましたね。
 それほど立派な桜並木ではなかったけれど、ほんの数本でも集まり花を咲かせると華やかに見えるのはこの木特有なのでしょう。
 誰かをまっているのか、何かを期待しているのか、しきりに降る桜の花のなかに佇んでいました。
 濃紺のセーラー服の襟には赤い線が入り、白いスカーフが木蔭の光を集めたように柔らかく目に映りました。
 僕はあまりにもその姿が美しかったので、ジャケットからポケットカメラを取り出しシャッターを切りました。
 そのシャッター音は本当に小さくて聞こえるはずもないのだけれど、君はシャッターが閉じた瞬間に僕のほうを見て、そしてちょっと迷惑そうな顔で、それでも自然な笑顔でこう言いましたね。
 「写真を撮るのに邪魔になっちゃいますね。」
 ギクリとした僕はきっと耳まで真赤にしていただろうと思います。
 数歩君に近づきながら、しどろもどろの言い訳じみた言葉を探した挙句、
 「あなたがいた方が綺麗な風景だと思ったので。ごめんなさい。」
 僕が頭を深く垂れていると、間をおいてから、
 「私、今日が入学式なんです。本当は去年だったのですけど病気になっちゃって、そのまま一年休学したんです。入学時に届いた名簿にあった名前しかしらない同級生はみんな2年生です。」
 それを聞きながら僕は君が写真のことをあまり気にしていなかったようなので、安心して次の言葉を繋ぎました。
 「入学式、ひとりで、ですか?」
 「私だけ早く家を出ました。まだ学校が始まるには早すぎる時間でしょう?」
 そう言われて腕時計をみるとまだ7時をわずかに過ぎたばかりでした。
 気まずいような、心地よいような沈黙の数秒を経た後に僕が口に出したのは、やっぱり役にも立たないフレーズ。
 「もう病気は治ったんですか?」
 君は桜を見上げていた顔を僕のほうに向けて、頬を紅潮させてこう答えましたね。
 「ええ、だいぶ。きっと今度は大丈夫だと思うんです。」
 話していたら坂の下の方から入学式に向かう親子連れらしい声が聞こえてきました。
 そろそろかな。
 僕は胸のなかでそうつぶやきました。
 「急に写真を撮ったりして迷惑をかけて、ほんとうにすみませんでした。変なことには絶対に使いませんから安心してください。」
 自分で言っていて、何をおかしなことをと。
 「安心って?」
 君は驚いたような瞳で、それから、やはり笑って言いましたね。
 「私の足が写っていなかったりしたら面白いですね」と。
 その返答にあっけにとられていた僕をみて、君は口を押さえて楽しそうに笑いましたね。
 決まりが悪くなった僕は桜の話をしたんでしたっけ?
 風に散る花びらが綺麗だとかなんとか。
 そしたら君はこう言いましたね。

 「桜の花は鮮やかで散り際は美しく儚いけど、知っていましたか?桜の木は長寿なんですよ。すごく長生きで一生の間に何百回も花を咲かせるんです。全然儚くなんてないんですよ。むしろ強いんです。」
 
 あの時に撮った写真を現像することはありませんでした。
 諫早駅で乗り換えるとき、うっかりものの僕は小さな袋と一緒にベンチに置き忘れてしまったのです。
 次の駅でおりて戻ったのですがもうどこにもなくて、遺失物の届け出をだしたまま数十年も経ってしまいました。
 あれを拾った人は現像してくれたのでしょうか。
 見ず知らずの人間のカメラなどに関心はなく、捨ててしまったのでしょうね。
 
 僕は君の名前も、どこの学校かさえ訊かなかったけれど、後悔はしていないんです。
 まったくないかと言えば嘘になるけれど。
 あの時間が確かにあったことだけで今は充分だと思っています。
 僕が勝手に作り上げた記憶ではなく、実在した風景であったのだから。

 東京に帰ってきてから本屋で一冊の詩集を見つけました。
 以前に紹介した川崎洋さんの詩集です。
 ここにもう一度、その詩を載せることを許してください。

  花の名だけは知っていても
  花そのものは知らない
  そんな花があります

  愛という字は
  よく知っているのですが
  そして
  愛そのものも
  知っているつもりだけれど
 
  降るような花の下を行くと
  いったい 
  何を知っているのか
  と 急に思います

  (川崎洋「花」)

 君はきっと元気になって今を過ごしていると思います。
 ご主人がいて、お嬢さんか息子さんがいて(両方かもしれないけど)、庭いじりを趣味にしているかもしれませんね。
 恐らく君はこんなことがあったことも、僕のことも覚えてはいないだろうし、再会しても僕もきっと君がわからないでしょう。

 昨年、何年ぶりかで長崎を訪れた時、君と僕は、もしかしたらどこかですれ違っていたかもしれません。
 そう思うことで、始まりもしなかった物語にエンディングをつけることにしました。

 ありがとう。

 






 

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桐の花

 ご機嫌いかがですか。
 台風が沖縄に接近し、天候は西から次第に崩れてくるようですね。
 初夏の台風は予想外の被害をもたらすことがあります。十分に注意しないといけません。
 昨年も今時分に台風が発生しましたが、あの時は上陸しませんでした。

 去年の今頃と言えば、部屋の改装を始めてちょうど一年がたったのですが、まだ完成していないんです。
 階段や廊下も含めて家中、本やCDを詰めたダンボールだらけです。
 書斎はすでに倉庫と化して出入りするためには箱をどかして道を作らなければなりません。
 まるでパズルゲームのようです。
 読みたい本を探し出すことすら困難を極めています。
 木下夕爾の詩集をご紹介したいのですが、どこにあるのやら…。
 せめて箱に表書きをしておくんだったなとひたすら後悔しても後の祭りです。
 次回はこの反省を含めてもう少し手際よくやりたいと思います。

 そういえば君は夜眠る時に電気をどうしていますか。
 小さな予備灯にしていますか、それとも完全に消灯しているのでしょうか。
 僕は以前は真っ暗にしないと眠れなかったのですが、ここ最近は暗くすると眠れないのです。
 かといって電気を煌煌とつけたままでは眠れるわけがありません。
 ですから夜が明けるまで待つことにしたのです。
 窓の外が白み始める頃、ようやく短時間の睡眠をとります。
 そう、ちょうど今がその時間ですね。
 午前4時から5時くらいの間。
 2時間ほどで起きなくてはならないのですが、それはそれほど苦にはなりません。
 ちょっと空いた時間があればデスクで片肘をついて目を閉じて休んでいますから。
 もとより睡眠障害になってからは体内時間が滅茶苦茶で、眠いという感覚がなくなってしまいました。
 ただ困るのは、度々、頭痛に悩まされることです。
 鎮痛剤なんて何錠飲んでも気休め程度で、蟀谷を強く抑えて痛みが通り過ぎるまで待つだけです。
 頭痛があまりひどくなると風景が白黒に見えるんですよ。
 時折、銀箔を散らしたような雪が見えたりもします。
 まるで古い映画のようです。
 僕のそれはノイズでしかありませんが。
 
 五月も半ばを迎え、進学や進級、就職や配置換えなど忙しい時期もやや過ぎて君の周囲も落ち着いてくるころでしょうか。
 何か特別なイベント的なことはありますか?
 僕の方は仕事上でのイベントは相も変わらず発生し続けています。
 歓迎できないものも含めて。
 とりあえず来週には関西への出張があります。
 出張といっても24時間以内に帰ってこなくてはなりません。翌日にはこちらで重要な打ち合わせがあるので。
 深夜に車を飛ばして、午後の仕事を終えたら真っ直ぐに帰ってくることになりそうです。
 まあ、いつも通りといえば、そうですね。
 岩手や岡山でない分、今回は少し楽です。

 もう少しゆっくりとやっていきたいですね、何事も。
 歩く速度も落とし気味にして。

 昨日のことになりますが、長いだらだら坂を歩いている時に下校する小学生たちと重なりました。
 彼等は元気ですね。
 求愛する蝶のようにくるくるとじゃれ合いながら、ツバメの輪のように風を切り、手をつなぎ、笑い合って駆け上って行きます。
 それに比べて僕はどうでしょう。
 舌打ちをし、自分の体の重さを呪いながら、忌々しい気持ちを抱え息を切らして足を前に出します。
 果たしてこれは進んでいるのだろうかと。
 汗をハンカチで拭き取った時に、ふと、遠い昔、坂の上の方から誰かに呼び止められたことを思い出しました。
 名前を呼ばれたのか、単に声をかけられたのか、はっきりはしないのだけれども。
 確か、他の誰かを待っているときだった気がします。
 大きな桐の木がある坂道でした。
 僕の通学路にはそんな木はなかったので、余所の坂だと思います。
 薄紫の花がぽとぽとと落ち続けていたので、同じくらいか、もう少し後の季節だったのでしょう。
 僕を呼んだのが誰だったのか、僕は誰を待っていたのか、思い出す仕種も無駄なほどに忘れてしまいました。
 実際にはそんな記憶さえも本当は僕に起こったことではなく、テレビか映画のなかでの出来事だったのかもしれません。
 幾つもの断片を繋ぎ合わせて、自分の想い出にしてしまっているのかも。
 それも充分にありえますから。

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

 これは、角川書店の創立者であった角川源義の句です。
 桐の花が降り注ぐ道で、手提げカバンを持った少女がそこから何かを取り出したのでしょうか。
 パチンと留め金を閉める音が清新に響き、その音に注意を惹かれます。
 その音が、桐の花咲く初夏の様子と急ぎ足で過ぎて行く少女の溌剌さを伝えてきます。
 もしかしたら僕はこの風景を知っているのかもしれません。
 見たことがなかったとしても、知っている。
 そんな気がします。
 君にもきっと似たような体験はあるでしょう?
 時と場所が違っても。

 桐の花の写真を添えられれば良かったのですが、生憎と手元にありません。
 いつか、写真に収めることができたら、君に送ろうと思います。
 君が忘れてしまった頃に。

 それでは、また。


 
 
 
 

 
 

 

 
 
 

 

松谷みよ子「わたしのいもうと」

…この子はわたしのいもうと。むこうをむいたままふりむいてくれないのです。…

 「わたしのいもうと」(文・松谷みよ子、絵・味戸ケイコ、発行・偕成社)

 わたしのいもうと01 わたしのいもうと02

 ある日、松谷みよ子さんのもとに若い女性から一通の手紙が届きました。
 「わたしの妹の話をきいてください」と書きだされたその便箋のなかには、彼女の妹が体験したいじめの話が綴られていました。
 そして、それは妹のいじめ体験のみにかぎらず、自分より弱いものをいじめること、自分たちとおなじでないものを排除すること、それらが戦争につながってゆくのではないかと綴られていたそうです。

 絵本のなかの少女は小学4年生。
 どこか違う地方から転向してきたのでしょう。
 その言葉の違いをからかわれ、さらに跳び箱が苦手だったことを揶揄され、ついには「汚い」と罵られ孤立していきます。

…いもうとがきゅうしょくをくばるとうけとってくれないというのです…

 楽しいはずの小学校がいじめによる地獄の場と化します。
 次第に不登校になり、ついには自分の部屋から出ることもなくなり、一日中、背中を向けて折鶴を作り続けます。家族にも顔をあげることなく。
 やせ細ってゆく少女は、そして、ひっそりとその一生を閉じます。
 便箋に短かすぎる言葉を残して。

…わたしをいじめたひとたちは、
 もうわたしをわすれてしまったでしょうね。
 もっとあそびたかったのに。
 もっとべんきょうしたかったのに。…

 孤立していること、異分子であることは必ずしも悪いことではないのです。
 真に問題となるのは、悪意によって孤立させられていること、どこも違わないのに異分子とされてしまうことです。

 人間は共通の目的を得た時、その集団としての力を最大限に発揮します。
 しかし残念ながらそれらは社会的には限りなく低水準に留まることのほうが多いのです。
 高尚な理想論より低俗な猥談のほうが興味を引く、もしくは、正論よりもデマのほうが人を誘導しやすいと言えば分りやすいでしょうか。
 ナチス・ドイツのユダヤ人政策、黒人差別などと大袈裟に世界史を紐解かなくとも、もっと身近に存在しています。
 その身近な危険に僕たちは関心を払わない。
 問題が起きるまで。
 そしてその端緒は大概、冗談や遊びからなのです。
 悪意のないからかいが次第に変質し悪意を生成する。
 それらが奇妙な決まり事を作り上げてしまう。
 冷静になって考えれば理不尽で奇妙なこと、つまり誰もが気づいて良い「間違い」なのです。

 たとえば自分では「変だ、やってはいけないんだ」と思っていながら同一の行動を反復し起してしまう。
 それが個人の行動である場合は「強迫性障害」と言い、精神疾患のひとつに類別されます。
 けれど「誤った常識」が大衆にまで拡がり同一の行動を示せばすべてが正当化されてしまいます。
 一部は気づいているはずなのですが、その本当の正当性を互いに確認することができないのです。
 口に出してしまったら自分が弾きだされてしまうのではないかと。
 だから誰も言葉にだせない。
 そしてスケープゴートに冤罪をなすりつけるのです。
 多数の怖さは言うまでもなくここにあります。

 言われた当人の心に突き刺さる冗談も、最初は笑ってやり過ごそうとします。
 周りも笑っているから、仲間からはみ出したくないので我慢するのです。
 しかし、その遠慮が周囲に「承諾」ととられ「許された遊び」となり、ついには「自分たちと違う存在」というところまで変質してゆくのです。

 人に対する「イジリ」は本当にコミュニケーションとして必要なのでしょうか?
 それがコミュニケーションと言えますか?
 僕の理解が間違っていなければコミュニケーションとは、「社会生活において人間が相互の意思や感情、各々の思考を伝達し、交換しあうこと」であるはずです。
 
 「人間に最も害悪を加えるものは、やはり同じ人間である」という歴史を、どこかで変えることはできないのでしょうか。
 先の多くの戦争の反省があるというのなら、その対策は簡単なことです。
 現在を「戦前」にしないことです。
 それと同じで個人においても罪の意識に気づき苛まれる前に、罪を犯さない事。
 それは不可能なほどに難しいことです。
 まったく誰も傷つけない生き方などできるはずはない。
 けれど「する自由」とは暴虐の限りを認容したものではありません。
 人は他者に危害を与えない限りにおいてその行動を許されているということを、今一度考えてみませんか。
 
 「あなたが罪を忘れても、罪はあなたを忘れはしません。」

 かつて僕が傷つけた子が、僕に投げつけた言葉です。
 僕は彼女の味方になれたはずだったのに、そうしなかった。
 ひとりになる勇気を持てなかったのです。
 僕は絶対にこの時の声を忘れません。


 


 
 

 
 
 

佐藤志満 歌集「草の上」

 佐藤志満が作歌をするようになったのは、東京女子大学在学中に講義を担当した森本治吉の影響であったと本歌集の後書きにあります。
 彼女の歌は、「水辺に住んだから釣ったというものかもしれない」と自身で言うように技巧を凝らした難解なものではなく、自然体で読む側にも伝わりやすいものです。
 アララギに移ってからは斉藤茂吉に師事し、茂吉から贈られた「水上よし」の筆名で活動していましたが、本腰をいれるところまではいかず投稿も途絶えがちでした。
 本業として作歌にのりだすのは、終戦後、「歩道」という雑誌に参画してからになります。
 この歌集は主にその「歩道」の軌跡といってもよいかと思います。

 草の上 (白玉書房・昭和30年初版)

…鶏のため菜をきざむ午前七時曇りて船の汽笛聞こゆる 

 これは歌集の第一句です。
 ここに見られるように彼女が歌ったのは素朴な生活です。
 日々の営みと葛藤。
 口が悪く短気な夫に対する苛立ち、貧しい暮らし、時折射し込む光のような幸福感といったものを、過ごし方は変わってもどこにでも誰にでもある日常生活の諦観や高揚を素朴に力強く歌い続けました。

…疲れたるままに目覚むる朝ありて卵うむ鶏のこゑの鋭さ

…寝不足のからだほてりて朝の雨音なく降れる道歩み來つ 
 
 眠りは体の疲れをとることはできても心の疲れを取り除くことはできません。
 どんなに瞼を閉じて居ようと自分は眠った気になれないまま朝を迎えます。不安を抱いたまま眠りにつけば目覚めてそれを再確認するだけのことです。
 そうした中で生命を告げる音はどれほど鋭利に響くことでしょう。
 降る雨は道行く人に無関心で、熱を帯びて気怠く感じる体にもその雫を当てつづけます。
 濡れそぼった自分を頼りないと感じるか、打つ雨の冷たさを心地よいと思うか、それはその朝の迎え方によるのでしょう。
 
…宵宵に箱に分け入れ眠らしむからだ重たくなりしひよこら 

…入りゆけば吾に寄りくる鶏の群盲ひしはおどおど餌をついばめり 

 生活のための生命。
 それでも確かな愛情はあるのです。個々に名づけることはなくても。
 盲いた鳥は周囲に同調できない、或いは、自らを異分子として感じてしまう自分自身なのかもしれないですね。
 悪意に怯えて警戒を張り、終始びくびくしているような。

…かくばかり心に残る悔しみよ暑き日向に草を抜きつつ 
 
…雑草をしぬぎて咲ける孔雀草ひるの光に花びら垂れて 

 弱きにあたる切なさを一番身に染みているのは苛立ちを隠せない自分なのです。 
 やるせなさの矛先を向けられた雑草と、その中をすっくと抜け出して咲く孔雀草。
 あなたはどちらに自分を感じますか?
 
…靑草の岸を浸してゆく川の流は親し濁りたれども 

 清らかなことと聖なることが違うように、いくら濁っていてもそれは自分とともにあるという親しみを打ち消す理由にはなりません。
 たとえばガンジス川は清流ではないけれど、あれほど聖なる信仰を集めている川もないでしょう。それと同じことです。

…幕開きし舞臺のごとく にはかなる 空の夕映 雨やみしかば 

 ここではわかりやすいように節を入れましたが原文は句を区切っていません。
 雨が降り続いた後、雲がさっと切れてまるで何かが降臨したかのように俄かに光が降り注いできます。
 そんな光景に出会う度に、何かが変わるかもしれないと当てのない期待を抱くのは人間ならではでしょう。

 歌集の末尾の句です。

…日すがらにしぐれの雨は降りながら音しげきときゆるる篁 

 蛇足ですが、篁は竹林、竹藪のことです。

 佐藤志満署名 (野溝七生子宛署名)
 
  
 

 

 
 

 



 
 

砂像

 連休もそろそろ終わりですね。
 この長い休みの間、大きく天候が崩れなかったのは幸いです。
 今日はちょっとだけ嫌な話から書きはじめます、すみません。

 僕は16歳の頃、初めて本気で人を殺したいと思いました。
 そして、同じ年、僕は殺されかけました。
 僕が詩らしきものを書き始めたのはこの頃からで、すぐにやめってしまったのだけれどここにある以外でノートの何冊かは今も残っているはずです。
 手元にある最後のノートのラストにつぎのようなものが書いてあります。
 日付は高校2年の終り。
 
 サラサラと砂像が風に解けるように
 私は崩れ続ける
 それは媚薬に魅入られた他人の眼に映る心地よい苦痛と衰亡
 目だった変化を感じさせない
 その緩慢な拡散にも似た崩壊は
 静かに
 けれど確実に
 この世界から私を失わせて行く

 自分ではない誰かが落ちて行く姿はアルフィエリの悲劇のように美しい。
 苦痛に耐え、それでも生き抜く姿は尊くも人の眼には映るのでしょう。
 「死ぬことより生きることの方が勇気の証となることがしばしばある。」
 確かにそれは事実なのだろうと思います。
 耐え抜いた人々にとっては。
 死ぬためのエネルギーさえ持たず、生残ってしまった敗者にとっての欺瞞。
 それでも崩壊する自分を受け入れて生きて行くしかない弱さをどう名づけますか。
 願ったのは自然消滅でした。

 この短文を書いてしまうと当時の友人や知人たちが目にしたら、その何人かに僕を特定させてしまうことになるかもしれないですね。
 まあ、それでもいいです。
 その確率は極めて低いでしょうし。

 詩人の石垣りんさんが高校の現国担当教諭の同級生で親交があったため、授業中に書かされた雑文が石垣さんの目に留まり、編集をなさっていた小雑誌に載せていただいたことがあります。
 その後もほんの少しですが詩についてご指導を受け、詩というものがどれほど詩人を傷つけるかを学びました。
 僕は詩人にはなるつもりはなかったし、趣味として続ける気もなかったので書くのをやめたんです。
 もとより向いていないのは十分に自覚していましたからね。
 自分の心臓を自らの手で抉り出すような痛みに耐えられるほどの勇気を持たなかったので。
 僕は逃げてばかりで、心地よい嘘を紙片に広げるだけでしたから。

 この話はここでおしまいにしましょう。

 昨日ですが朝から何も食べていなかったので通り道にある手作りパンのお店に立ち寄りました。
 そこでメロンパンとたまごコッペパンを1個ずつ購入したんです。
 サービスのコーヒーを受け取ってベンチに坐って、さあ食べようとした途端、つまらないことを思い付き、カバンのなかにあった「銀河鉄道の夜」の絵本を取り出しました。
 メロンパンと銀河鉄道で何か思い当たることはありませんか。
 君がスマホ用のゲームやアニメにどのくらい詳しいのかわからないので、こんなことをしても意味不明かもしれないですね。
 「ガールフレンド(仮)」っていうのがありまして、メロンパンは椎名心実の好物で、「銀河鉄道の夜」は同ゲーム上の人気投票で2年連続一位になった村上文緒のお気に入りです。
 更に付け加えるなら、たまごコッペパンは「一週間フレンズ。」の長谷祐樹が通う高校の購買のおすすめの逸品。
 どーでもいいことでなんですけどね。
 ここのところきつかったので、何気なく選んだものがアニメ脳による指令だったのかと思うと、まだ僕も煮詰まっていないのかなとそう思えたので、ちょっと遊んでみただけです。

 連休が終われば浮かれた雰囲気も収束します。
 そして周りが落ち着いた頃に、僕はどこかへ遊びに出かけようかと思っています。
 実行できるかはわかりませんが。

 写真はメロンパンと秋葉原のガード下です。

 それでは、また。

 メロンパン 秋葉原ガード下

  

 

室生犀星 詩集「昨日いらしつて下さい」

 この詩集は犀星の存命中に出版された最後の詩集となりました。
 装丁に拘り続けた犀星としては極めてシンプルなつくりになっています。
 巻頭に置かれた序詩はつぎのようなものです。

…何人をも恐れず
 何人をも愛することなく
 また遂に何人の味方も持たない人
 僅かな言葉を黄金に換え
 米塩のうれひを断つて
 まぼろしの往来に身をいれて居れば
 最早 何人とも語る必要はない …

 この詩集の多くにみうけられる「あなた」という言葉。
 それは犀星が詩を投げかけた特定の人であり、そして、その呼びかけに応えるのは詩を手にした「私たち」です。
 石垣りんさんは、この詩集の表題にもなっている「昨日いらしつて下さい」について次のように述べています。
 詩本編については4月24日の日記にとりあげたので割愛します。

…やさしい言葉で、昨日なら何でも出来たはずと言われても、それが出来なかったのが昨日。
 だのに昨日なら用意があったけれど、今日も明日もあさっても、あなたには何の用意もないのです、と突き放す。所詮戻りようのない過去へのご招待。
 かなしいような、切ないような、この無常とも言える招きに、私はなぜか応えたくなります。実にしばしば、はい、お伺いしますと。…

 昨日への入り口など常識の中ではありえません。
 それでも呼びかけに応えたくなる気持ちを、心のどこかでわかってしまう。
 それが悲しく、寂しいのです。

 この詩集からもう一遍ご紹介します。

 誰かをさがすために  室生犀星

 けふもあなたは
 何をさがしにとぼとぼ歩いてゐるのです。
 まだ逢つたこともない人なんですが
 その人にもしかしたら
 けふ逢えるかと尋ねて歩いてゐるのです。
 逢つたこともない人を
 どうしてあなたは尋ね出せるのです。
 顔だつて見たことのない他人でせう、
 それがどうして見つかるとお思ひなんです。
 いや まだ逢つたことがないから
 その人を是非尋ね出したいのです。
 逢つたことのある人には
 わたしは逢ひたくないのです。
 あなたは変わった方ですね。
 はじめて逢ふために人を捜しているのが
 そんなに変にみえるのでせうか。
 人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか、
 そして人間はきつと誰かを一人づつ、
 捜しあててゐるのではないか。

 昨日いらしつて下さい (五月書房・昭和34年初版)

 僕はこの詩を読むたびにしばし言葉を失くします。
 感想とか、解題とかそんなものは必要ないのです。
 ただ自分のありかたに鈍い痛みを覚えるだけです。
 「わたし」に向かって問いかけているもう一人の私が自分に重なります。
 
…あなたは変わつた方ですね。…

 そう問いかけている「私」が誠実さを失っていることに。

 詩のように生きられるわけがない。
 犀星にしても詩のようには生きられませんでした。
 けれど、だからこそ書けたとは思いませんか。
 逢う度に新しい人。
 いつも新鮮な愛情のなかにある人。
 最後に投げかけられた言葉は疑問や断定ではなく「願い」です。

 「わたしはこんな風に生きたかったのです」と。

 そして次にくる言葉。

 「見知らぬ群衆のなかでも、生まれ変わった先でも、きっとわたしはあなたに気づいてみせます。」

 夢だとわかっているから詩なのです。
 だから惹かれてしまいます。


 


 

 

 
 
 
 

分岐点

 連休をどのよう過ごしていますか。
 雑踏を楽しむことも、ひとりで部屋にいる楽しみも、きっと君は選ぶことができるのでしょう。
 外出するのであれば、幸いに天気はそれほど大きく崩れはしないようです。

 先月の25日、別府葉子さんのコンサートがありました。
 ローソンで前売り券を買って楽しみにしていたのですが体調が思わしくなくて行くことができませんでした。
 ちょうど西巣鴨から通ってくる女の子がいましたので彼女にチケットを譲りました。
 コンサートの翌日、彼女は興奮したように「声が綺麗で、歌も上手で、感動しました!」って話してくれましたが、やはり自分の耳で聴かないことにはまったくわかりません。
 ただ彼女のライブ初体験が別府さんの歌声に触れることだったということは確かな価値があったと思います。
 「つぎのコンサートがあったら誘ってくださいね。チケット代は払いますから」と笑顔で言っていた彼女の言葉に嘘はないでしょう。

 君は歌うことが好きでしたね。
 
 悲しい時でも歌うことはできると誰かが言っていました。
 何十年ぶりかで再会した友人。
 「高校生の頃、放課後は毎日、歌ってたよね。ちょっと弾いてみてよ。うちの息子のギターあるから。」
 けれど僕はギターを手渡されてもとてもつま弾く気にはなれなかったし、歌うことなんてできませんでした。
 渡されたギターを丁寧にスタンドに戻して、「また今度ね」と。
 年月のブランクではなくて、僕のここ数日のできごとがそれを阻んだのです。
 涙もでない悲しみなのに、それは歌声をあっさりと塞いでしまう。
 だから僕はこう思うことにしたんです。
 「気がのらない」って。

 君は「時間が戻ればやり直せることが多いのに」って言っていましたね。
 でもね、時間を戻しても結果は恐らく変わらないのです。
 もちろん、これは僕に限ったことです。
 僕は現在の自分に満足しているわけではないし、後悔も山ほどあります。
 それこそやり直したいことをやり直すために過去に戻ったら、もう二度と現在に帰ってはこられないくらい。
 けれども、きっと僕はその場面で同じような選択をするのです。
 「現在」を変えないために。
 自分の通ってきた過去は胸を張れるようなものではないけれど、自分の知らない過去を通じて見知らぬ「現在」に至ることの方が遥かに怖いのです。
 すべてを消去して、やり直す決心をするとしたなら、それはきっと自分のためではないでしょう。
 自分を諦めてでも助けたい誰かのために。
 そういった強い心がないと「過去」は決して動かないと思うのです。
 ですから、僕はたとえ過去に戻っても結果を変えないための選択しか、恐らくできないのです。

 分岐点は幾つもありました。
 それらを選択した僕は、つねに成熟した思考をもとに行動したわけではありません。
 おざなりに、面倒がって、無責任に、選んだと言う意識もなく、周囲の勢いだけで進んだことの方が今となっては多いのかもしれません。
 それでも、きっとそれはその時点で僕の精一杯だったと思うのです。
 後悔がその時に選び取れなかった正しい答えを連れてきたのなら、それを「成長」という言葉で飾ってもいいし、決して間違いではないでしょう。
 現在は分断されたエピソードの集積ではないのだから。
 スピンオフは自分の見ていない世界の物語なのです。
 だから僕は自分の選択によってしわ寄せが起きた見知らぬエピソードの結末に幸いあれと祈ります。
 明かり灯る窓の内側は幸福なものだと信じたほうが気が楽なので。

 そして、今、僕は、君のために何ができるのだろう。
 そんなことを思っています。

 残りの休日が君にとって、君の周囲の人にとって、楽しいものであることを願っています。

 いつものように写真を2枚添えます。
 吉見のヒカリゴケと蚤の市で見つけたひな人形の首です。

 ひかりごけ 蚤の市



 それでは、また。




 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
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