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ロベール・クートラス「僕の夜」

…人間の生を負いつづけねばならぬか──そして運命を避けながら 運命を憧れわたるのか?…(リルケ「ドゥイノの悲歌」第九の悲歌より抜粋)

 先週の金曜日に松濤美術館を訪れるまで「ロベール・クートラス」という名前も作品も知らなかった。
 当然の話だが今も「知っている」とは言い難い。
 「知った」という取っ掛かりを得たに過ぎない。
 彼の作品に大作はない。かつてはあったのかもしれないが、現在、見られるもので形状的な大作はない。
 時に物理的な大作はその豊富な色彩と大きさで観る者を圧倒し感心させるが、どれほど広大で立派な美術館の壁面を支配していようと、より大きな空間に出た途端に印象は薄れてしまう。
 クートラスの作品の大半は小さい。
 カルト(手札、カード)と彼が呼んだように、それはタロットカードほどの大きさしかなく、人物面と紋様面とを表裏に分けていることからも、まさしくカルトなのだろう。
 そして彼はそれらの作品を「僕の夜」と名付け、6千枚ものカルトを残した。
 イコンを連想させるクートラスの作品は、彼の名に含まれている"couteau"(短剣)のように胸に刺さる。
 それはその場所を離れても痛みを忘れさせてはくれない。

 クートラス01

 クートラスは1930年3月17日、パリのポール・ロワイヤルでジョルジュ・クートラスとリュシイ・レイノの第2子として生まれた。
 父は職人であったが片足を失っており、母親は美しかったが浮気性であったという。2歳年長の兄もいたが幼くして亡くなっている。そして、クートラス自身の父親は母親の浮気が原因で誰かも判らないと彼自身は後に語っていたらしい。
 3歳になる頃、両親が離婚し小学校に上がるまで地方の農家に里子に出されていたという。母親がレオン・エンスミンガーと再婚しパリ13区に住まうようになるのが8歳。
 クートラスが9歳の時、第二次世界大戦が勃発(1939年)、1940年6月にドイツ軍の侵攻によりフランスは敗北し、継父が対独協力強制労働の徴用を受けチェコに移住。そこで彼は継父とともに工場で働くことになる。
 クートラスはヴィシー政府の対独協力統治とレジスタンス運動の混沌の中で少年時代を送った。
 15歳の時に終戦を迎えパリに戻ってくる。紡績工場で働く傍ら、時間を見つけては鋳物や木彫を独学で身に着け作品を作るようになった。しかし、芸術家になるという彼の夢は継父の反対に合い、それまでの作品を廃棄され、彼は自殺未遂を起す。
 この事件を受けて、結局は継父が折れてクートラスはアーティストの道を目指すことになる。
 工場で働きながら夜は美術学校へ通うと言う形をとるが、21歳の頃、中世の彫像に深く関心を寄せていたことから石工に転向。
 28歳頃から数々のコンクールに出品し優秀な賞歴を得て、画廊と契約し「現代のユトリロ」と呼ばれる。
 しかし、クートラスはカルトを「僕の夜」、グアッシュなどで描かれた肖像を「僕のご先祖さま」と呼んでいたように、その作品は彼自身の魂の分身であった。
 故に魂を分売する痛みに彼は耐えられなかったのだと思う。
 それが商業画廊と決別する理由となった。
 商業的な職業画家には成りきれない弱さと、自己の矜持を固持した強さとが、晩年の彼を経済的にも精神的にも追いつめてゆくことになる。

 クートラスは亡くなるまで約17年間、拾い集めてきたボール紙に油彩で下塗りをし、乾いたその上に絵を描くというカルト画(縦12cm×横6cm)の制作に没頭した。
 それは確かに貧困という環境が影響したことは事実だろうが「貧しいから」というだけでは無かった気がする。
 小さな切れ端を集めて大きなキャンバス仕立てにすることも可能であったし、描くこともできた。それをしなかった理由が必ずある。
 カルトを眺めているとパリのアパルトマンの小さな窓内で暮らす人々が見えてくるようだ。そこには一人暮らしの貧しさと気軽さ、孤独と狂気があり、人間は「所詮、個々でしか生きられない」と言う厳しさと寂しさの縮図があるように思う。
 手札にすることにより、彼は描かれた人(自分を含めた)の人生を掌に乗せることができた。
 彼が残した作品は物質ではなく、彼の残留思念そのものである。
 それらを見ていると、今もパリの小路にあるアパルトマンの灯のともる窓を覗いて歩くクートラスがいるように感じる。

 クートラス02

 渋谷駅前のスクランブル交差点を斜めに渡りきるのに僕は直線を選べない。足を止め、速度を緩め、或いは早めて人を躱してゆく。ジグザグに刻まれたその煩わしさは、生計のためにその時間の大半を消費しなければならない苛立ちそのものだ。
 けれども、人の往来、干渉が激しい日常は陽と共に暮れて行き、訪れた夜は自分だけの世界を想像させる。深夜ともなれば携帯電話の呼び出しもなければ、メールの着信も気にせずに済む。
 夜は自由の象徴だと思わせてくれる。

…僕は絵描きだ。描かなければ生きて行けない。紙が無ければ地下鉄の切符にだって、それがなければ道路に、壁に、どこにだって描くさ。…

 クートラスはその死の十日ほど前に一枚の絵を燃やしている。

…あれは僕なんだ、自分に冷酷なぐらい厳しくなかったら生きてこられなかった。…

 その絵は、怖い顔をした年配の男が目つきの悪い猫を膝に抱いて睨みつけている肖像だったと言う。
 
 
 「ひとりになりたい。僕には孤独が必要なんだ」と叫んだクートラスは、自分のルーツである「人」への憧れを愛情と嘲笑を以て描き出した。
 彼が描いたネズミの優しい眼は、裏切られることの無い友情への、本能が生み出す愛情と信頼という理想への眼差しだったと思う。

 クートラスは「夜」を通して自分の運命と向き合い続けた画家である。
 「埋葬された墓の中で目を覚ましたら恐ろしいし、虫に食べられるのも嫌だから火葬にしてほしい」と願ったこの芸術家はペール・ラシェーズに眠っている。 

 岸真理子さんは「クートラスの思い出」という著書の中でリルケの「ドゥイノの悲歌」を彼の生涯に重ねている。僕もそれに倣って引用させていただいた。

  
…運命とはこういうことだ、向きあっていること、それ以外のなにものでもない、いつもただ向きあっていること…(リルケ「ドゥイノの悲歌」第八の悲歌より抜粋)

 クートラス03

 クートラスの作品が、その遺産を管理している岸真理子さんと共に明後日(3月1日)のNHK「日曜美術館」で取り上げられます。お時間があればチャンネルを合わせてみてください。

「1930-1985 没後30年 ロベール・クートラス展 」
 場   所: 松濤美術館
        〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14 
        TEL. 03-3465-9421 FAX 03-3460-6366
 会   期: 前期・2月8日(日)~22日(日)
         後期・2月28日(土)~3月15日(日)
 開館時間: 午前9時~午後5時(最終入館は閉館30分前まで)




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森夜ユカ " Eat me or Drink me "

森夜ユカB5-1

 昨年の7月か8月か、覚えていないのだけれど汗を拭きながら歩いていた気がしたので夏だったと思いますが、なんとなくパラボリカ・ビスに立ち寄ったことがあって、特に誰かの個展が見たいというわけではなく、仕事上で時間があったのかどうだか、今となっては思い出せませんが、まあ、とにかくそういうことで立ち寄ったんです。
 何かしらの展示はされていたのだろうけれど、とんと記憶がありません。印象に残らない作品だったのか、単に興味がなかったのか、恐らくどちらも当たっているでしょう。
 普段はあまり見ないグッズコーナーをその日はじっくりと見て廻りました。
 それまで関心が無かったわけではなく、雑多な感じがする、ゴスロリの駄菓子屋的な印象を受ける販売ブースを僕のような者が徘徊していると、ロリ好きの危ないオヤジにみられる恐れがありましたので遠慮していただけです。
 書籍からフィギュア、ポストカード、缶バッジみたいなものなものまで、雑貨好きの僕には相応しく、面白いです。
 それまで心を惹かなかったものが手に取ることで少しずつ興味が湧いて来たりもします。
 本のページをめくったり、ポストカードを取り出してみたり、あれやこれやしていたら、喫茶コーナーにも商品が置いてあることに気づき、そちらへも。

 そこにベニテングダケらしきものを芳しげに手に持ち、今にも唇にあてそうにしている女の子の絵をみつけました。
 キャンバスにアクリル絵の具で描かれた柔らかな色彩の作品です。
 僕はキノコと少女が好きなんですよ。
 不思議の国のアリスの大ファンなもので。
 描かれている少女はアリスよりはお姉さんでしたが。

 森夜ユカB6 

 しかし気に入った絵を見つけたのものの、そこから悩みが始まります。
 これが変わったつくりの作品で、飾ることを前提とする僕にはちょっとネックになる代物でした。
 絵は額装して飾るのが一般的なのですが、この絵はそれに馴染まないのです。
 どういうことかと言うと、絵を描いたキャンバス2枚を組み合わせてファスナーをつけただけの、極めてシンプル手抜きなつくりのバッグになっていたのです。
 しかもバッグとしては絶対に実用には向きません。
 万が一、強引に実用にしたとしても、とても僕には持ち歩く勇気はありません。
 作品を傷つけますし、僕のようなオヤジが持ち歩いたのでは作品に申し訳ないですしね。

 
 森夜ユカB3

 同じ作りの作品はふたりの作家によって4種類が出ていた気がします。
 ひとりは作家名を覚えておりませんが、僕が気に入った絵の作家は「森夜ユカ」とありました。
 その森夜ユカのバッグは2種あり、交互に手に取って眺めすがめつして、結局は第一印象に従って決めました。
 因みに反対側の絵にはキノコはありませんが、こちらも気に入っています。
 作品名がありませんでしたのでわかりませんが、モチーフはアリスかもしれないですね。キノコとシロップ。
  " Eat me or Drink me "というタイトルは僕が勝手につけさせていただきました。
 キノコは踏まれていますし、シロップは撒かれてしまっていますけどね、そこは許容範囲ということで。

 森夜ユカB7 

 森夜ユカという作家についてはまったく知りませんでした。
 スタッフの方に「この作家さんのプロフィールを書いたものか、画集のようなものはないですか?」とお訊きしたら「今のところ出ていません」と無下に言われてしまいました。
 
 あれから日が経ちまして、先日、横田沙夜さんの個展に行った折、森夜ユカのポストカードを見つけて何枚か購入してきました。

 森夜ユカP1 森夜ユカP2

 どこかで個展が開かれるなら見に行ってみたい作家さんですね。

 バッグの絵はどうしたかと言いますと、一時は分解しようかとも思ったのですけど、壊すに忍びなくバッグのまま額装しました。
 MSの油彩額を加工してリバーシブル仕立てにしたのです。
 同時に2作品を並べて見られないのは残念ですが、気分によってひっくり返しながら眺めるのも良いものです。

 森夜ユカB1 森夜ユカB2



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横田沙夜「夢で見た靴」

 夢で見た靴 夢で見た靴

…わたしがまだ九つか十だったころのことです。
 夜、コトンと小さな音がして目を覚ましました。
 それほど遅い時間ではなかったと思いますが、お客様が来るというのにも不思議な時刻です。
 ひょこっと布団をめくって子供部屋から出て、音がした玄関のほうへ行ってみました。
 するとそこには見たこともない小さなスェード製の紫の靴がきちんと揃えて置いてあります。
 今しがた通り過ぎてきたダイニングの方からは母が洗い物をする音が聞えていました。
 他には取り立ててお客さまがいるような話し声は聞こえてきません。
 私はダイニングの扉を開けて、
 「おかあさん、誰か来なかった?」と尋ねました。
 すると母はちょっとわからないような顔をして、
 「誰も来ていないわよ。どうしたの?目が覚めちゃったの?」と訊き返してきました。
 「玄関にね、小さな紫の靴があったの。誰のかな?と思って。」
 「靴?」
 母はまったく見覚えがないというような困った顔をしました。
 わたしは母にそれを見せようと手をひいて玄関に連れて行き、
 「ほらっ」と上り框のところを指さしました。
 けれどそこはカラッポで、小さな靴の一足もありません。
 「夢でもみたのかしらね。あなた、紫の靴なんて持っていないでしょ?」
 母はわたしの髪を軽くなでながら言いました。
 わたしはぽかんと空いた玄関を見ながらキツネにでもつままれたような気分がしていました。
 あれは私が見た夢だったのでしょうか?
 けれどその靴はあまりにも鮮明で、今も夢だとはどうしても思えないのです。…


 これは先だってパラボリカ・ビスで個展「Innocent Garden」を開かれた横田沙夜さんからお聞きした話を基にして手を加えたものです。

 Innocent Garden

 個展はイギリスのとある女学校の寄宿舎を舞台にした作品を中心として並べられていました。
 その中で僕の目を引いたのはそれらとはすこし違った雰囲気を持つ一枚でした。
 絵には「夢で見た靴」というタイトルが付けられていてメルヘンチックではあるのですが不思議な現実感を漂わせていました。
 僕はすぐさまお近くにいらした横田さんに「この作品を譲ってください」と申し出ました。
 横田さんはちょっと驚かれた様子でしたが、すぐに笑顔で「ありがとうございます。今、スタッフの方を呼んできますね」と部屋を出ていかれました。
 一通りの手続きを済ませてから絵の前に戻ると、横田さんはこの作品は幼い頃の実際にあった体験を絵にしたものだとおっしゃられました。
 それをもとにしたのが冒頭の話です。

 「今でも時々思い出しては不思議に思うんですよね。あれは本当に夢だったのかな?って。」

 作品に関わるイメージの意味は作者にしかわかりませんが、それが直感的に観る側に伝わってくることがあります。
 エピソードはエピソードとして存在し、そこから見ている人に新たな想像の世界を提供するのです。
 
 この日は「夢で見た靴」ともう一枚、個展の案内状にもなっていました「寄り添う日々」を譲っていただきました。

 寄り添う日々

 来月にはアートスペース銀座ワンで横田さん初のドローイング作品による個展が開催されます。
 彩色によらないデフォルメされた横田さんのモノクロ作品も興味深いものがあります。
 お近くまでいかれましたならお立ち寄りください。

 
 さよくろ展

 会 期  2015年3月15日(日)~21日(土)

 場 所  アートスペース銀座ワン
       東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル2F 202号

 問い合わせ先  090-8492-0332 (藤井)

 sayokuro.jpg


 
 

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「子ぎつね」のエピローグ

 「お祭りにいった子ぎつねがどうなったかにお心あたりがございましたらご連絡をいただきたくお願い致します。」

 半月ほど前にそんな不思議なメッセージをいただきました。
 お祭りにいった子ぎつねの物語。
 そのメッセージはありえないのです、僕にとって。
 何度もその簡潔な文面を開き、解析に努めました。
 否定に次ぐ否定。
 無視しようとした数日間。
 けれども僕の思う通りだったら、との気持ちを捨てきれず、早鐘をうちはじめた胸を落ち着けて、相手のアドレスに妙なところがないか、不正経由をしていないかなど慎重に調べて、更に数日後、返信をしました。
 返信をした翌日、すぐに答えが返ってきました。

 「母についてお話をしたいことがありますのでお越し願えませんでしょうか?」

 僕は場所と時間を相手にいくつかを指定していただき、都合のつきそうな日時を選んで約束をしました。
 
 市ヶ谷、午後1時。待ち合わせたのは外堀通りに面した喫茶店「ルノアール」。
 時間よりも20分ほど早く着くように調整してその場所へ向かいました。
 「母について…」とだけ書かれていたメッセージを頭のなかで幾度も反復し、対面する相手を想像し、起こるべき可能性を整理する必要があったのです。
 約束の時が迫ってくるのが早すぎるように思われ、もっと前にくれば良かったと後悔の背中を押します。
 ひょっとしたら来ないかもしれない。
 ただの悪戯かもしれない。
 しかし、僕は時間を過ぎても待つだろうし、悪戯ならそれでも良かったのです。
 携帯電話の画面を確かめると、あと2分。
 メールの着信があり、「今着きました」。
 それと同時にドアが開いて萌黄色のワンピースを来た若い女性が入ってきました。
 その狼狽をどう伝えればよいのでしょう。
 僕を残して彼女の時間だけが止まってしまったのかと思え、呆けてしまっていたかもしれません。
 柏木理恵さん?であるはずはなく、彼女の娘さんであるはずです。
 僕はゆっくりと彼女に向かって軽く手を挙げました。

 
 「始めまして、谷内綾子と申します。」
 谷内?
 ああ、そうか、彼女は結婚して姓が変わったのかと思いつくまで数秒。
 「母の姓で言えば、柏木綾子です。今日はお呼び立てして申し訳ありませんでした。どうしても母についてお伺いしたかったものですから。」
 「敬語は使わないでいいです。楽にお話ししましょう。それにしても驚きました。良く似ていますね。声も…。あ、いえ、声ははっきりとは思い出せないのですが、とても似ていた印象がして…。」
 「叔母からもよく言われます。あなたは本当に良く似ているって。」

 綾子さんは僕にメッセージを送るまでの経緯を話してくれました。
 最初に僕のブログを見つけたのは妹さんだったそうです。

 「ねえ、これってお母さんのことじゃない?前に変わったお友達がいたって言ってたでしょう。これ、お母さんだよ。」
 「そんなはずないでしょう。偶然にしては出来過ぎてるけど、良く似た話はどこでにでもあるものよ。」

 その時はそれで話は終わってしまったそうです。
 しかし、日をおいて妹さんが「やっぱり気になるよ。ねえ、訊いてみてよ」と言いだし、綾子さんもちょっと気になりだして、直接、自分の身元を明かすのは危険だから、悪戯と思われ無視されても好いように謎かけのようなメッセージを送ることにしたとのことでした。

 お祭りにいった子ぎつねの話は、僕が彼女に頼まれて学生時代に書いた童話だったのです。
 僕は理恵さんが36才の誕生日を待たずに亡くなったことを知りました。
 綾子さんが12歳、妹さんが10歳の誕生日を迎えてふた月後だったそうです。

 「母は亡くなる一年半ほど前から息切れがすると言って、もう年なのかしらねと笑っていましたが、その頃には卵巣癌は既に手遅れの状態だったようです。それから考えるとお医者さんは、よく頑張った、と。」

 理恵さんは絵本作家になる夢は捨てていなかったと言います。
 短大を卒業後は小さいけれど出版社に勤め、綾子さんたちには手作りの絵本でお話をしてあげていたそうです。
 星座の物語が多いその中に、僕のつくった話が混じっていて、彼女はとても気に入ってくれていたらしい。
 そして「それをつくった人は変わり者でちょっと意地悪な人だった」と面白可笑しく話したそうです。
 初めてあった時、新興宗教の勧誘と間違われて追い払われそうになったこと。
 宗教じゃないといったら学習教材も間に合ってますと言われたこと。
 挙句には、生命保険もいらないです。
 その他のエピソードもあれこれ。
 童話作家を目指していた彼女らしく、尾ひれ羽ひれを加えてひとつのお話にしてしまったようです。
 それはどうやら僕をモデルにした本人には話しにくいコメディタッチのシリーズ化も図られていた様子。

 「お気づきでしょうけれど、これは母のお古のワンピースです。お気に入りだったんです。」
 綾子さんはそう言いました。
 僕はロイヤルミルクティーを、彼女はレモンティーを飲み干してから、僕は彼女の勧めでご自宅へ伺うことにしました。
 「家で妹も待っていますので。」

 柏木理恵さんがお住まいだった家は売却され、そこを買い取ったマンション販売会社が管理する別の高層住宅に居を移したそうです。
 前に来た時に見つけられなかったのは当然でした。家ごとなくなってしまっていたのですから。
 案内されドアの内側に入ると、妹さんの恵子さんがいらっしゃいました。

 「あら、想像していた人と随分違いますね」とくったくなく笑い、その表情のなかにも無邪気だった理恵さんの面影を見つけました。
 「すみません、この子、誰に対しても失礼なんです。」
 「構いませんよ。美男子とか、老紳士ってわけじゃないですからわかっていますよ。こちらこそ失望させてすみません。」
 「とにかく奥へどうぞ。お茶を用意していますので。」

 余計なもののないすっきりとした室内はベージュを基調として、最上階に近い光をいっぱいに取り込むことのできる窓は大きく取られ、レースのカーテンが陽射しを和らげるように掛けられていました。
 緑色の細い2本線で縁どられた大理石のテーブルは小さく、相対して4人掛けとは言え狭く感じられます。

 「このテーブルもカップも母のお気にいりでした。」
 そう言って並べられたのは木蓮が描かれたティーセット。
 「これ、僕があげたものです。アンティークショップで見つけたものです。」
 「はい、大事にしていました。6客のうちどれも欠けていません。」

 僕は本当に時を止めてしまったのかもしれません。
 ティーカップを手に包み込み、紅茶の温かみを感じながら。
 リビングボードの中に置かれた彼女の写真は、出会った時のそのままでした。

 「母の部屋に仏壇がありますのでお焼香なさいますか?」

 
 彼女に向かって、恐らく普通より長い時間、僕は手をあわせていたと思います。
 言葉につまって思いが溢れそうで、平静さを取り戻すための時間が必要だったのです。
 
 僕はお二人の問われるままに理恵さんと出会った頃のことを話しました。
 まず、僕たちは恋人同士ではなく、ごく普通の友人であったこと。
 このことはお二人を大層驚かせたようです。
 彼女たちの母親、つまり理恵さんは彼氏を語るように話したらしいですから。

 「それはきっと物語だったんですよ。お二人のための童話です。」

 
 尽きない話は僕のことならず、お二人の進路のことや母親としての理恵さんの事。
 時間は遅すぎもせず早すぎもせず呼吸よりも正確に過ぎて行きました。
 そして綾子さんは姿勢を正して最後にこう言ったのです。

 「母は父との間に私と恵子をもうけましたが結婚はしていませんでした。今の谷内という姓は便宜上のもので、戸籍上は私たちはまだ柏木のままです。」

 僕は言葉を失くしてその事実を聞いていました。
 返す言葉がまったく見つからなかったのです。
 恵子さんが言葉を添えました。

 「母は父を愛していなかったわけじゃないと思います。あまり思い出と言う思い出はないのですけど、姉も父も一緒にいた頃はすごく楽しかったんです。両親が喧嘩しているところなんて見たことないし、出かける時も家族全員一緒でした。母が結婚しなかった理由はわかりません。それ以前に私達には結婚していなかったと言うことがわかっていなかったんです。」

 綾子さんがそれに加えました。

 「わかっていなかったと言うより、不思議に思わなかったのです。それくらい恵まれていたんですね。」
 

 綾子さんによると理恵さんは最後の病床でこう言い続けたそうです。

 「私は充分私らしく生きたわ。だから悲しいとも不幸だとも思いません。けれど母親としてはあまりに不十分で不完全で綾子にも恵子にも何も残してあげられない。それだけはすまないと思っているの。お父さんは私が明日死んでもいいから入籍しようって言ってくれてるけど、私をこのまま逝かせてね。ごめんね、我儘な母親で。綾子や恵子がこれからどんなに大変な目に遭うかわかっているのに、本当にごめんね。」

 綾子さんはその理由を尋ねようとは思わなかったそうです。
 「理由なんてわからなくていいと思っていたのです。母がそれで幸せならそれで充分だったんです。」

 僕には柏木理恵さんが何を守ろうとしていたのかはわかりません。想像もつかなければ推測することもできません。
 けれど、これで良かったのだと言うことは信じられます。
 理恵さんのことを話す綾子さんと恵子さんを見て、彼女が整えた調度をそのまま大切にしまってある空間を見て、そう思えたのです。

 「父にも今日のことはお話してあります。時間が合えばお会いしたいと言っておりましたが、何分にも多忙な人なので、すみません。」
 「お父様に宜しくお伝えください。そして、お招きくださってありがとうございました。」

 思い出の終りは短篇小説のラストよりも唐突です。
 彼女は彼女だけ時間を止めてしまいました。
 僕が振り返る時、柏木理恵さんはいつもあの頃のままです。
 次に彼女に会える時、僕はどんな顔をして会えばよいのでしょう。
 ひょっとしたら「あら、想像していたのと随分違いますね」と恵子さんが言ったみたいに笑われたりはしないだろうか。
 あの無邪気な笑顔で。
 まあ、それでもいいか。
 笑ってくれるのなら、きっとそれでいい。
 僕も恐らく笑い返すだけで言葉は出てきそうにないだろうから。

 そして彼女は南の夜空を指さして、こう言うのです。

 「あれがね、フォーマルハウト。白い星です。」

 


 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 

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別府葉子「いつもあなたを想ってる」

 以前に書いたかもしれませんがブログを始めるにあたって僕がルールとして決めたことに「なかった事を書かない」というのがあります。
 事実に多少細工することはあってもその事実は事実として存在することが前提です。
 そんなことは当たり前のことなのですが、僕自身にはあまりに嘘が多くて、これを守ると言うことは僕自身の過去並びに現在の嘘と正面から向き合い鬩ぎ合うことになります。
 そして嘘を書かかないということは、肝心なことから目を背けるという結果を引き出します。
 「人体を切り開くように心を解剖し、絵に描きたい」とムンクは語りました。心の内部を解剖図のように赤裸々に描く、それが可能なのか否かは僕にはわかりません。ただ最後には、自分の思いの一端でもいいから正直な形で伝えたいとは思っています。
 
 大学を卒業する直前の冬、遺書を書いたことがあります。
 もちろん遺書ですので死を前提としたものですが、宛先は肉身でも友人でもなく全くの第三者に宛てたものでした。
 とうの昔に千切り捨ててしまったものですから内容の全文は思い出せません。でも、書きだしはおおかた次のようなものであったと記憶しています。

 「あなたが僕を見つけてしまった災難に深くお詫びを申し上げます。そして、ここがあなたにとって日課の散歩道でないことを願ってやみません。この地は僕にとって縁もゆかりもない場所で、ただ人目に付きにくいのではという勝手な思い込みから選択しました。ですから、誰かが日課でこの場所を利用しているかもという僅かな可能性を考慮にいれないことにしたのです。それほどここは人気がない場所だったものですから。
 あなたが目にする物体は、できるのなら、すでに人間としての形を留めていないことを望みます。枯れ枝のように、乾いた粘土のように。
 あなたは、人間としての形を望まない者がなぜにこのような手紙を書いたのか滑稽に思われるでしょう。それは実に簡単な理由なのです。
 僕は法学部の学生でそれなりの成績を収められる程度には真剣に勉学に励みました。ですから身元不明の死体がどれほど多くの人々の手を煩わせるのかを理解しているつもりです。また自殺、他殺、事故など死因についても同様です。ですから、この死は僕以外の外部の要因でないことと身元を明らかにするため、そして、死ぬ理由は僕自身の生命力の弱さからくるものであるということを示したかったのです… 」

 死について考えるというのは僕にとって有益だったと今では思います。死ななくて良かったという感慨は今もってありませんが、死んでいた方が良かったという思いもありません。ただ真剣に死に向かったというのは事実として価値があったと思っています。
 ですから、如何なる形式であれ自分の思いの一点だけでも伝えたいという気持ちはある程度理解できます。
 「どうせ死ぬのだから」という投げやりなことではなく、誰もしらなくても自分だけは伝えたことを知っている、という思いです。
 たとえば、届かない手紙は不運ではあるけれど不幸ではありません。
 文字にしてもらえなかった言葉こそが不幸なのです。
 伝えたいことがあった。
 言い残したことがあった。
 だから手紙に綴った。 
 結果として相手に届くか否かということは必要条件ではあるけれど、大切なのは形にできたということだと思うのです。
 
 別府葉子さんの新しいアルバムは4曲を収録したミニアルバムです。けれどその中には数十曲を要してもあらわせない「思い」がつまっています。

 いつもあなたを想ってる

 
 「百万本のバラ」 

 ラトビアの歌謡曲である「Dāvāja Māriņa」(マーラが与えた人生)が原曲で、周辺国に代わる代わる併合されてきたラトビアの受難を歌ったものです。

…子供の頃、私が泣いていると、母はそっと寄り添い慰めてくれた。
 そしていつも、ほほえみながら私にささやいた。
 「マーラは娘に生命を与えたけれど幸せを与え忘れた。」

 時は流れ、母は世を去り、私は一人で生きていく。
 母の思い出に打ちひしがれる時、母の言葉をつぶやく私がいた。
 「マーラは娘に生命を与えたけれど幸せを与え忘れた。」

 そんなことを忘れていた或る日、私は驚かされる。
 私の娘が微笑みを浮かべて、あの言葉を繰り返している。
 「マーラは娘に生命を与えたけれど幸せを与え忘れた。」  …

 祖母、母、娘という3世代に渡って自由を奪われてきたラトビアの抗えない苦難に対する涙の歌なのです。 
 ここでは松山善三さんの詩によって恋の歌として歌われています。(このアルバムでは2つのヴァージョンが収録されています。)

 「六月の雨」 

 思いを残し人は去って行きます。そして、残された人は涙を浮かべながらも日常に戻らねばなりません。日々の歩みを止めることは逝った人を悲しませることになりますから。
 思うことで忘れない。
 思うことで優しく生きていく。
 春に秋に、風に雨に姿を変えても、思い思われ続けることで人は存在し続けるのです。

 
…桜の花を揺らす風が、いつか向日葵を吹き抜けて
 色づくもみじ流れる川が、雪に凍りつく頃も
 いつもあなたを、いつも想ってる。…

 別府さんのライナーノートによれば、アルバムのタイトルはこの一節からつけられたそうです。

 「月虹」

…月夜の虹を目にしたものは、幸せに、幸せになれるよ。
 きみの瞳にいつの日かきっと、平和の光が映る日が来る。
 ジャガランダの花は大地に根付き、どこまでも、どこまでも…

 耐える者は耐えることを永遠に強いられるのでしょうか。
 望みに手が届くことはないのでしょうか。
 アフリカの子供たちを撮った写真集のなか、その目は僕よりも遥かに澄んだ瞳をしていました。
 真っ直ぐに、光を宿したその瞳はこう伝えてきます。
 希望は確かに今も存在しています、と。

 別府さんが書かれた詞は、「百万本のバラ」の原曲に通じていくものがあります。その隠された思いがこのアルバムをひとつの形に結びつけているのでしょう。

 別府さんご自身のブログにも楽曲は紹介されていますが、ぜひこのアルバムを実際に手にとってみてください。


 


 

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佐香厚子「片寄波」

…この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人びとにはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料(ねた)不足を託つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお挑え向きの、したがって高みの見物席の弥次馬諸公にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因(もと)になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない智恵をずいぶん絞った。…

 という書出しで始まる井上ひさしの「吉里吉里人」。
 この吉里吉里という地名は岩手県上閉伊郡大槌町に実際にあります。
 小説のなかでは独立国を目指した吉里吉里ですが、ここには世界でも珍しい海岸があります(ありました、と書いた方が良いのか迷っています)。
 波板海岸という寄せる波だけで返す波がない海岸です。
 この波は「片寄波」と呼ばれ、その原因については、砂が細かいために寄せている間に吸い込まれてしまい、視覚的には返す波がないように見えるのだと言われています。
 僕がこの「片寄波」のことを知ったのは昭和59年の初夏のことでした。
 その夏が暑かったのかどうかを思い出すことはできませんが、その存在を知り、三陸へ向かったことは確かです。
 僕にこれを教えてくれたのが、昭和59年6月に発売されたプチコミック7月号に掲載されていた佐香厚子さんの「片寄波」と言う作品でした。

 片寄波ー佐香厚子 プチコミックS59-7

 
 主人公の窪川元美は大手広告代理店に勤めるOL。優秀で美人、ガードが堅いと言われる彼女。しかしその家庭は複雑で、元美が幼い頃、母親は弟だけをつれて愛人のもとへ去り、以後、厳格な父親の手によって育てられます。
…おまえにはしあわせになってもらいたい。あの女のような生き方だけはしてほしくない。…
 その父の願いの裏側で元美は同じ会社の上司である倉沢隆と不倫関係にありました。
 ある晩、六本木のバーで倉沢と待ち合わせてた元美は松崎史也というフリーライターに出会います。
 松崎は倉沢の背任問題のスクープを追いつづけ、その情報原のひとつとして元美に近づいたのですが、次第に彼女に惹かれて行きます。
 物語は、元美の妊娠、堕胎と倉沢の妻の出産を経ていくことで、倉沢の嘘が見えてくることになります。そして、ついに倉沢と別の愛人関係にあった女性からのリークで倉沢は失脚します。

 この物語、単純な不倫物と片付けられない要素が多く見られます。
 父親の母に対する確執と不作為による復讐。
 離婚が成立しないことで法的に不存在となる弟。
 自分だけを置いて出て行った母に対する憎しみと、捨てきれない母への愛情。
 それらを繋いでいる「片寄波」です。

 波というものが起きる原因としては様々なものがあり、「これです」と限定できるものではありません。
 地震や海底火山もありますし、台風によるものもあります。けれどその元をたどって行けば地球自体の動き(自転、引力)とそれによる風の影響と見ても差し障りはないでしょう。
 その地球によって生み出される波。
 普通は寄せて返すを繰り返しますが、ここでテーマに選ばれているのは「返らない波」なのです。見返りのない波とも言えます。
 それは自分の見えないところで生まれ寄せられてくる感情のように受け取れ、そしてまた、遥か遠くから絶え間なく注がれる愛情とも。
 ここでは愛情の余韻を感じさせる終わり方で描かれています。

 現在、波板海岸は3.11の震災の影響で地盤が沈下し、その性質が多少変わってしまったような話を聞きました。自分でも確かめてみたいとは思うのですが、僕が初めて見た打ち寄せるだけの波の不思議さを失いたくないという思いもあり訪ねられずにいます。
 絶えることなく寄せてくる波は、ただ砂に吸い込まれ、それ自体が無力であるかのようにも感じられますが、確かな海の息吹は存在していました。
 僕はその波を見た時、「神様みたいだ」と思ったのです。
 特定の信仰をもたない僕がそんなことを感じたことが自分で可笑しくて、少しだけ笑ったのを覚えています。

 

 

 
 

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