原田康子「廃園」

 齢を経てからの空想というのは、若いころの空想と異なり熱を帯びていないと思ってしまうのはどうしてでしょう。どこか現実的で、悲観的で、厭世を纏って見えるのは邪推や算段が働きすぎるためなのでしょうか。
 ひとつの可能性、その根拠とも言えないようなわずかな心の引っ掛かりが妄想の連鎖を生み、それがあたかも現実に起こり得るかのように、自分で演出を加えてしまう。そして、それが事実の一端に辿りついた時、驚愕するのは、それらの一切を生み出していたのが日常の空虚さであったことです。
 日常の空虚さとは、自分では感じていない求める心が大きすぎて、現実がそれを埋め合わせることのできない隙間のことですが、人はその空虚さゆえに、時に残酷な悪戯を空想の世界から現実へと、その手管を伸ばしてしまうことがあるのです。暇潰しのような悪戯心が、結果として、自分自身を虚無に近しく荒廃させてしまう危険性があることを顧みずに。

 原田康子の「廃園」は、「夢」から始まります。

 廃園01 (筑摩書房、昭和33年初版)

 …わたしはなにかに追われていて、それが苦しく、声をあげようとして目が醒めた。掌やみぞおちのあたりが、つめたく汗ばんでいた。
 なんの夢をみていたのかしら、いったい。わたしはいつもと同じように、槇田と隣り合わせた寝床に入っていた。そのことがかえって、現実とは思えず、畳や、枕もとのスタンドや、灰皿や水差しが、ふしぎな青さをおびていた。あるいは、青っぽくみえたのは、夢の続きがそこにあったのではなく、未明の仄暗さのせいであったかもしれない。…

 物語は確信の無い妄想が引き金となっていきます。もちろん「確信の無い」と言うのは「事実を押さえていない」ということで、「謂れがない可能性」を指してはいません。
 「事実が無い」だけで「起こりうる可能性」が多分に内包されている人間関係のなかで、主人公が悪戯心で想像から発した演出を楽しむ様から一転して、それが既成事実に向かって行く様子を描いていきます。
 主人公と夫である槇田、槇田の恩人である簑島夫妻、そして、主人公と叔母夫婦の養子である「京太」。それぞれが思惑のなかで変容して輝きを失って行くのです。
 人が憧れるのは、自分が既に失ってしまった若々しさ、瑞々しさが生じさせる痛みであり、それらが湛えている脆過ぎる美しさなのです。
 しかし、それは突如として変質してしまうのです。まるで眠りのなかで見た夢の前半が明るく美しい風景であったはずが、目覚める前には暗い森のなかを鬼に追われているかのように。

 毎日の生活ではいろいろな愚痴や多少の不満は誰しもあるでしょうけれど、だからと言って不幸のうちに自分がいると確信している人はそう多くはないと思います。
 寧ろ、自分が不幸だと嘆けるほど幸福を感じているわけではなく、幸せだと言えるほど自分を騙せない、かつ、孤独だと言えるほど傲慢でもない「普通の人々」が大多数のはずなのです。
 そのあまりにも普通な私たちがちょっとしたことで疎外感を受けることがあります。それはある瞬間から唐突に感じられてしまうのです。たとえば、それまで違和感を感じていなかった周囲の風景や人々が自分とは全く無関係に感じてしまう。そうした隙間に危うい空想が忍び込んでくるのです。

 …空が青く、太陽が燃えているのに、わたしの周囲はふしぎなほどひっそりとしていた。鈍い海鳴りと、遠くの町のざわめきが、かすかにきこえる。それからどこかの家で鳴っているラジオ。あとな何の物音もしないのだ。近所の家々も、誰が何をしているのかひっそりし、私の家も庭も、わたしがいるだけで、やはりひっそりしている。庭があるので、よけい静かなのだろうか。…

 それは「人を知っている」ということについても同じです。
 自分は「その人の何を知っているのか」を不思議に思ったことはありませんか。主人公は夫に対しそんな感情を抱いています。
 
 …しかし彼の仕事は、わたしとは遠い距離にあるものだった。わたしの感じないものを感じ、考えられぬことを考える人。その人の皮膚を知っているということが、ときどきわたしにはひどくふしぎに思われた。…

 人には心の中核をなす自我が必ずあり、それとは別に自我を取り巻いている浮遊する空間があります。それを余裕と呼んだら思い上がりに過ぎず、だからと言って特別な名前がついているものでもない、そんな間があるのです。譬えにとれば家と庭と言えばわかりやすいでしょうか。
 家は人に譲れない自我そのものであり、庭は「情」を生み出す(或いは、植えて行く)場所。愛情や友情、万物に対する執着を含む場所。その庭が生み出すもっとも美しい空想が「愛」というものなのかもしれないのです。

 …愛、愛とわたしは心のなかで呟いていた。いまこの子が他愛なく口にし、かつてはわたしもいく度か捉われた愛、愛とは人間の憧憬や夢想がつくりあげた実体のないもの、生活や官能とは別物の、人の手がこしらえた蜃気楼にすぎない。…

 サルヴァドール・ダリの描いた「ナルシスの変貌」のように、自己の愛は破壊を生み虚無へと移り変わってしまうのでしょう。そこにまた美を見出す口実があったとしても、人は絵画のようには美しくは生きられないものなのです。

 …背中に粗い木の肌がはっきり感じられるのに、わたしは自分の家の庭の、木に凭れているのだとは思えなかった。わたしは何処かに立っていた。この庭ではない何処かの場所、しかも現実の土地にもない荒れた庭に。壊れかけた鉄門、枯れた丈高い雑草、春になっても芽ぶかぬ裸木、その木にわたしは凭れ、木とわたしと霧と風がもつれあって揺れていた。
 それはいつか何処かで見た庭のようだった。簑島家の前庭かもしれない、とわたしはぼんやりと考えた。しかし、あれは違う、あれは石の家だった、霧ではなく雪があった、それに誰かかがいた、わたしはその庭の住人ではなかった。…

 静けさだけが存在する庭。誰のもちものでもなく、誰もいない空間。乾いている心そのものが眼前の廃園であり、自分が身を置く場所。それを刹那的に忘れさせてくれるものに最後は縋るしかないというのであれば、その最後にあるものを「救い」と呼びますか、それとも「諦め」と呼びますか。
 物語は、主人公が虚無のうちに取り込まれるようにして終わりを迎えます。
 人の心を弄び、失ってしまった現実を容易くは修復できないでしょう。もとより起こってしまった事を「戻す」ことは不可能なのですから。

 この小説のなかには、僕が気に入っている美しいフレーズがあります。その一節の響きは春を信じさせてくれる力強さに満ちていると思うのです。

 …しなの木の枝先から滴り落ちる雫が、わたしの頬をぬらした。見上げると裸木の梢はつやつやと光っている。
 季節の微妙な変化に、わたしが軽いときめきを感じるのは、そんなときだった。また、硝子の破片のように薄くなった残雪が、小さな音を立てて崩れるとき、わたしは昏睡からいきなり醒めたような戸惑いをおぼえた。…

 終りが決められている小説とは違って、僕たちの現実はエンディングの「決まり」がありません。
 辛いからこそ、凍りついた大地を解かす春が来るのを夢見ることができるのはないでしょうか。楽天家だと笑われたとしても、そう悪いことではないと思うのです。
 空想の使い方にはいろいろあるのです。かの英雄が言ったように「人は空想から逃れられない」のですから。

 廃園02 原田康子署名




 
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そらのおとしもの

 今日、東京に出て行く用事があり、ついでといっては何ですが神保町まで足を延ばしました。丁度、「神田古本まつり」が開催されていまして、沿道には、結構、人が詰まっていて歩きにくい状態でした。時間が許すならそちらのほうも覗いてみたかったのですが、そういうわけにもいきませんで、足早に人垣をすり抜けて三省堂書店へ。

 1階で「何がベストセラーなのかな。『村上海賊の娘』が随分と山になってるな。売れてるのかなぁ?いただいたけれどそっちまで手が回らなくてすみません」などと思いながら、ちらっとひとまわりして2階へ。

 2階には現在、レジがないんですね。すべて1階で会計をする形式になっていたので、それを知らず本を手にしてすこしばかりウロウロと行きつ戻りつしてしまいました。

 で、何を買ったかといいますと、水無月すう「そらのおとしもの」の第18巻です。18巻の内容には触れません。まだお読みになっていない方もいらっしゃるでしょうから。
 ただ17巻までの本編の歩みとは一転して盛り上がってきましたとだけ申し添えておきましょう。第3期アニメシリーズ化は劇場版に仕様変更されてしまったみたいで残念ですが、本編は快調に、そして確実にクライマックスに向かっています。

 そらおと18巻

 「そらのおとしもの」ってパンチラばかりが目立つバカバカしいナンセンス・ストーリーだと思っている人が割といるんですよね。でも、中心のストーリーだけを追っていくと暗い悲壮な物語なんですよ。主人公の「トモキ」の日常がそれを和らげて(和らげ過ぎて)いるのでコメディに映ってしまうのですけど。じっくり読むことのできる漫画です。個人的には「GUNSLINGER GIRL」(相田 裕)に匹敵するシリアス・ストーリーだと思っているんですけどね。

 蒸し返すようですが、思うに矢張り第3期については「劇場版」でお茶を濁されてしまった感はありますね。いや、冷静に考えれば第3期のシリーズ化というのがストーリー上で当初から無理があったんです。

 原作ではヒヨリの特性だった気象操作をアニメシリーズ2期のカオスのエフェクトに加えてしまい、劇場版ではそのヒヨリを時空兵器に変更してしまったため、最凶のエンジェロイドであるカオスを凌ぐ形になってしまいましたよね。
 原作の初期設定を根底から変更してしまったので、シリーズ化となると設定の初期化が難しいのではないかと思っていた矢先に「劇場版第二作」の報が入ってきました。
 劇場版で一話だけなら「完結編」ということを踏まえて思い切った演出も可能ですし、全く別のオリジナルで作るのも遣り易いですから、「まあ、そんなところだろうな」と落胆しながらその話を聞いていました。
 
 しかし、劇場版は劇場版として「番外」として見ることはできるので、設定を原作通りに戻して何としてもシリーズ化にこぎつけて欲しかったです。本当に残念。

 愛と友情と・・・を通して壊れて行く「桜井トモキ」の日常を描いた感動巨編「そらのおとしもの」。劇場版制作もアナウンスだけで終わってしまわないことを願っております。「カドカワだからなー」っと半ば諦めている僕の期待を良い方に裏切って欲しいものです。


 

 

 
 

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蟋蟀の鳴音

 窓下で鳴いていた蟋蟀の声が聞こえない。
 ふたつの台風が通り過ぎて行った時にもあれほど鳴いていたのに、ひっそりと静まっている。
 窓を開けて耳を澄ます。
 夜気は冷たい。風呂上がりの息が白く変わる。
 いつもとは違う場所で微かな音がする、ディィ、ディィと。

 あいつの音ではない。

 先日の台風が来るちょっと前から、その音にノイズが加わり、音が広がらなくなっていたのには気づいてはいた。それを聞きながら「いずれ死ぬのだな」と当たり前の事を感じ、そして今は途絶えている。

 けれど、前にも一度、そう思った日があった。鳴きだすのが遅い日が。
 ついに死んだか、と思っていた矢先に、唐突にいつもの場所から音が流れ出した。それを耳にした途端、僕は小さく笑った。それは滑稽なことに、確かに僕を安心させたものだから。

 たかが蟋蟀ごときに。
 
 また別の日、弱くなる羽擦りの音に、こうも思ったことがある。
 いつも窓下で鳴く一匹を残して他の声が響いてこなかった夜のこと。
 「お前の歌を必要とする仲間は既に死に絶えたかもしれない。それでもまだ貧相になった羽を擦り合わせて鳴くしかないのか。お前は取り残されたことにも気づきもせず、最後の一匹という自覚もないまま歌うのか。」

 本能としてその小さな体の力が尽きるまで羽を合わせているだけなのだろう。そこに個の幸福感など所詮は存在しない。擬人化して思うなど僕のほうが馬鹿げている。

 蟋蟀の幸不幸など僕は知らない。自分の子を残せぬことの不運はあるかもしれぬ。けれど、あいつはその「嘆き」を知らない。ただ種の作用に従っているにすぎず、愚かにも鳴き続けるだけが宿命なのだから。

 ついに今夜は音が絶えた。

 それでも、ふとこんな気もする。

 あいつはまだ生きている。
 床下の、あれほどの雨にも安全な場所で、短くなり過ぎて音の出せなくなった羽を擦り合せて仲間を呼んでいる。自分の羽が役に立たなくなっていることも、すべての認識を無として、ただ命に従うまま無い羽を擦り合わせている。

 気を集中すればその微かな絶え絶えが聞こえるはずなのだ。

 じっと耳を澄ます。息を飲んで、目を閉じて、真剣に耳を澄ます。
 すると、どこか遠くか、弱弱しくか、聞きなれたあいつの音がする。

 それが幻聴であるとに気づくまでに、たいして時間を必要とはしなかった。
 僕は僕の願う音を耳の奥に聞いたに過ぎない。あまりにも当然なこととして。

 今夜は、自分の意思とは無関係に宿命として為すべきことを成して命を終われるあいつに、「人間とは違うのだ」と言う妬ましさを覚えた。

 間もなく、研ぎ澄まされた冬が来る。
 


 
 
 

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大原富枝「アブラハムの幕舎」

 …今度、海のあるところに行きましょうか。どう?
 行きたいわ。もう長いこと、本当の海を見てないような気がします。…

 そんなフレーズが突如として頭を過り、部屋のリフォームのために本が詰め込まれたダンボール箱を「あれじゃない、これじゃない」と当たりながら一冊の本を引き出してきました。

 「アブラハムの幕舎」 大原富枝

 アブラハムの幕舎01 (講談社、1981年初版)

 昭和54年12月に発売された「婦人公論」(1月号)に掲載された「千石イエスよ、娘を返せ」の手記を契機として社会的な話題となった「イエスの方舟」事件を題材とした小説です。
 小説の流れとしては教団(聖書学習会)の主催者を中心にしたものではなく、家庭や会社などに身を置くことが出来ない女性を主人公として「なぜその場に足を運んだのか」「何が彼らを集団とならしめたのか」を追っていくスタイルをとっています。
 決してカルト教団を扱ったものではなく、また異端に身を沈める人々を描写したものでもありません。
 これは「人は何を以て漂白となるのか」を主人公の視線を通して、彷徨う「弱者」と呼ばれる人々を描いた小説です。
 
 …七月末の金曜日の午後、田沢衿子は両親の暮らしている小さい町へ行く郊外電車に乗り換えた。電車は空いていた。だらだらと衿もとに流れてくる汗を拭いた。ここまでにもう電車を三つ乗り換えている。
 始発駅の構内にはたくさんのレールが鉛色にぬめりながらぎらぎらと陽を弾いて川のように流れている。ところどころにポイントの瘤をくっつけたまま、集まったり拡散したりして果ては車庫の中に消えている。レールたちは一様に不機嫌におし黙っていた。触れると火傷しそうな熱が眺めているだけで田沢衿子の膚に伝わってくる。彼らの暑熱の痛みをみんな自分に引き受けてしまわなければならない心地がした。…

 この書出しのなかに示されている田沢衿子の心境が物語の全容を覆っています。

 人生とは定員一名の個室電車に乗っているようなものです。あくまでも自分の人生をたった一人で生きているのです。その個室に別人が入り込む余地などないし、有り得ない。しかし、そのレールは複雑に絡み合い、様々な個室電車と並走し、交差し、時にニアミスを繰り返し、或いは、接触し、衝突し、傷つきながら進まざるを得ないのです。
 始発地点も違えば終着地点も異なる電車たちが、ある偶然を介してひとところに集まることがあります。操車場であるか、車庫であるか、ほんの一時でも集まる場を必要とすることがあります。
 たとえば、夫婦、恋人、友人、家庭、学校、会社。そして、それらに馴染めないものも当然に出てきます。そして馴染めないものは、馴染めないもの同士でひとつの集合体を作るのです。それを結びつけているものが「弱さ」と呼ばれる信仰なのです。
 自然に集まった弱者の中に強者は存在しません。その中心にいるものは、すべての弱さを引き受けようとし、その能力をもたない、ただ「受け入れる」という一念しかない更なる弱者なのです。

 …「アブラハムの幕舎」はもう天幕が破れそうになっている。私が無力なのは初めからだ。無力なことはわかっている。無力なものばかりが集まってこの幕舎ができた。…

 何が人を弱者にするのでしょうか。もちろん弱者とは体力的弱者や経済的弱者ではありません。精神的に追い詰められて行く「心の弱者」です。
 その心の弱者の出発点とは何なのか。大原富枝は主人公・田沢衿子が身を寄せている「アブラハムの幕舎」の主催者・相川を通して次のように述べています。

 …秘密というものは人を隔離します。孤独にします。毒を発散するので自家中毒に陥るのです。…

 ここに言う「秘密」とは単なる内緒事ではなく、内に秘めるしかない、誰にも打ち明けることのできない葛藤のことを指しています。耐えることしかできない「弱さ」を指しているのです。
 「耐える」ということは、それが自発的な意思の力であれば「強さ」となりますが、極端に受動的なものとなれば「弱さ」でしかありません。防御ではありえないのです。
 防御とはそのバリヤーの境界面で内と外の圧力が釣り合うか、壁の力が強い場合のみ成立しているのです。かかってくる圧力の全てを跳ね返すことができずに、ただ流れ込まれるままに満たされて行くことは「耐える」とさえ呼ばないのかもしれません。そして、それはいつしか自分の精神に充満して決壊させます。 
 ダムであれば決壊を防ぐために放水するでしょう。その放水という術をもてないものたちが弱者なのです。

 「弱さ」とは「頑なさ」という一面を有しています。その頑迷さの所在が無意識と呼ばれる意識世界にあることも事実なのでしょう。
 無意識とは表層では認識していない自分の意思ではなく、自分でさえ認識できない深層の意思を指しています。弱さとはその無意識に拘束され、その無意識に縛られるがゆえに自分の置かれた心境を外部に吐露できないことを言うのでしょう。
 そして、それらの人々は置かれた環境も原因も異なるのに磁場をつくりあげ引き寄せられるのです。それらの理由は決して重なり合うことはなく、明らかにされることもなく、また集まった当事者たちでさえ理解しあえるものではないのです。それを相川はこう述べます。

 …信仰はわかった、などというものではないでしょう。私もわかりません。パウロが言っているのは大切なのは愛というものだ、ということでしょう。愛は絶えることがない、と言っています。…
 
 小説は聖書の言葉を頼りにするとともに、アンドレイ・タルコフスキーの映画「鏡」を象徴として用いています。映画に登場する「女」の置かれた政治状況、生活環境を巧みに交えながら、主人公とその幕舎の人々の「閉塞」を効果的に描いています。
 更に、主人公を女性として置くことによって「エロス」と「アガペー」という二つの愛の葛藤についても触れていきます。
 肉体の愛である「エロス」は執着を生み、時に怨恨となります。精神の愛である「アガペー」は不変であり、寛容であるのです。
 しかし人は触れることのできない愛のみでは生きて行くことはできません。寧ろ神様ではない以上、真実の愛(アガペー)など知ることはできないのです。だから実感(エロス)を通して愛を知りたがるのです。そこに男と女というふたつの身に分かたれた人間の寂しさ、悲しみ、罪というものがあるのでしょう。
 彷徨うことでしか満たされない「愛」というものも確かに存在しているのです。

 作中には、イザヤ書第二章22節の「汝ら鼻より息のいでいりする人に倚ることをやめよ斯かるものは何ぞかぞふるに足らん」という文言が繰り返し登場します。
 簡略に解するなら「世間一般の人間に依存し関わることをやめなさい。そんな者たちは取るに足りない者たちなのです。あなた方にはもっと拠るべき神という存在があるでしょう」と言っているわけです。
 これを聖書でいうところのヤーウェ神と捉えるか否かは別として、人知を超えたものを信仰することで世間を気にしないことができれば何と幸せなことでしょうか。

 主人公はそれを言葉を変えて次のように言います。

 …いつも他人とはある距離を置いているところに、弱い者の仕合せがあるような気がしていますから。私、孤独はそれほど怖くないのです。人間ほどは ― 人間の方がよっぽど怖いの。…

 この「アブラハムの幕舎」は、化生の身となることで生きる力を得た弱者と、集団となることで変質して行く弱者の姿を通して、それぞれの幸せの形を問いかけているのです。

 最後に、主人公の終章の会話の一節を。

 …でもね、不幸そうに見える仕合せってものもあると思うのよ。幸福そうに見える不仕合せ、ってものも世の中にはたくさんあると思うの。ちがうかしら?…

 アブラハムの幕舎02 (大原富枝署名)




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岩崎なな&横田沙夜個展

 19日の夕刻。小雨がちらつく中、仕事のついでに浅草橋から江戸通りを蔵前方面に向かいながら「何か面白いものないかな?」と歩いていました。
 主に柳橋から蔵前にかけた隅田川沿い。かつては安宿や家内制手工業のような小さな会社が建ち並び、それとは不釣り合いな高級料亭があったりした界隈。
 ミシン、旋盤、型抜きの作業音やこの時間であれば夕餉の支度をする音がそこここから漏れ聞こえていたのに、どれほど歩いても僕が向島に住んでいた頃の面影は全くと言うほどになくなってしまったことを改めて思い知らされました。
 姿を変えてしまったとはいえ、ところどころに記憶に残る建物もありました。けれどもそれらに懐かしさを感じるはずもなく、こうして歩き回っている自分が異邦人か不審者のように思えてきました。
 想い出を頭の中に展開させながら「榊神社はこんなに狭かったかしら?」と鳥居をくぐり、手水でお浄めを済ませてから参拝をし、そしてまたぐるぐると露路をめぐりました。

 榊神社01 榊神社02 榊神社03

 ここにはもう何もないのかもしれない。そう諦めに似た心持のなかで、不意にたどり着いた、ビルに押し潰されそうな空間に建っている木造家屋。そこに見覚えのある表札を見つけて、思わず「呼び鈴を鳴らしてみようか」などと真剣に逡巡し、結局はそのまま玄関前を立ち去りました。
 30年以上も前の面影しか思い浮かべることの出来ない僕には、ようやく辿りついた記憶の欠片を確認する勇気が欠けていたのです。
 それから川へ向かって歩き出し、見るからに家賃の高そうなマンションの間をすり抜けて堤防沿いに出てみれば、「あらまぁ」という感じで綺麗に公園として整えられた光景。川向うには国技館、両国公会堂の青銅の屋根、渋滞する高速道路。期待したものに会えるはずがないことはわかっていたのですけど。

 柳橋付近(隅田川) 柳橋付近(隅田川)01 柳橋付近(隅田川)02
 
 柳橋病院まで戻ってくると往路では見過ごしたショーウィンドウがありました。中にあったのは椅子に乗せられた「スノーグース」の文庫本とその上空に浮かぶ2枚のパネル。
 椅子の下には個展の案内状が散らばっていました。その案内状を見なければそこが個展会場であったことに気付かなかったでしょう。階段の登り口に「Parabolica-bis」と書かれた紙が貼られていました。

 「スノーグース」はポール・ギャリコの短篇童話です。「ふたりの王女さま」と題された個展はその物語をイメージした挿絵が掲げられ、この夜は、イラストレーターの横田沙夜さんのライブペイントと甘束まおさんによる朗読会が予定されていました。

 狭い階段をあがると「受付はこちらへ」の小さな張り紙。それを頼りに中へ入ればゴシック・ロリータを思わせるショップ。レジ奥にいた方に恐る恐る声をかけて個展の案内状にあった「スノーグースの朗読会」に参加したい旨を告げました。

 開演は19時。まだ予定の時刻まで1時間半以上もあります。同時に開催されていた作品展「西織銀・手のひらの童話展」と「岩崎なな・SPACEAFFAIR Vol.16」を観ながら待つことにしました。

 パラボリカ・ビス00 岩崎なな02 横田沙夜02

 岩崎なな…連鎖する生命の素粒子

 まず興味を惹いたのは「岩崎なな」さんの作品でした。室内すべてを利用したアンビエント・アートの一種なのでしょう。石庭をイメージした中に置かれたコットンで造られた人形と壁に描かれた目玉のような粒。
 白で統一された、閉鎖された解放空間という矛盾した感覚を与える室内。それはアンバランスな印象を与えながらも、決して不安感を与えない不思議さに満ちていました。

 展示室内に入った時、ひとりの女性が三脚を立てて作品を撮影していました。見るからにまだ20代半ばと思われる女性。その女性が作者でした。一見すると細身で繊細な体つきですが、最初に交わした一言から見た目の印象とは異なる意志の強さが感じ取れました。
 ぐるっと室内を一瞥してから「これはこの全部でひとつの作品ですか?」と尋ねますと「そうです」と短く答え、さらに僕が「あの壁に書かれている丸は目でしょうか?」と重ねて質問をしました。実はこの時、「目」と尋ねたのは僕の遠慮からでした。僕にはそれが「カエルの卵」に見えてしまったものですから。
 彼女は「私はそれをツブと呼んでいます。記憶とか遺伝子とか、そういうものが入ったツブで、それらが集まってひとつの生命とか形を作っていると思っています」と答えてくれました。つまり、「カエルの卵」のほうが少しだけ近かったわけです。近いと言っても遠いですけどね。

 ひとつの細胞がひとつの記憶なり、感覚を有していて、それが集まることによって総合的な記憶や感覚を形成することを表現しているのです。
 簡単に言えば、「果物が好き」という細胞と「リンゴが一番好き」という細胞が繋がることによって「果物のなかでリンゴが一番好き」という人格を形成するのです。そしてそれは細胞から細胞へと彼らが生き残るために伝達され、動物も植物も人間であることさえ無関係に、あらゆるものが一つの生命として再生を繰り返してゆくというテーマが込められているようです。
 僕にはこの彼女の描く「ツブ」が、連鎖し再生を繰り返す生命(或いは、記憶)の素粒子のように思えました。
 
 会場内の作品を撮影することはできないので、ショーウィンドウにあったパネルの一枚をご紹介します。
 
 岩崎なな01

 壁を覆いつくすように集合したツブは伝達される遺伝子、乃至は細胞。階段と扉は連続する時間と新たに開かれる空間を、人物の長く引き伸ばされた首は引き継がれる記憶を表しているのでしょうか。
 犬が覗き込む階段の出口から黄金虫のようなものが扉へ向かって歩いています。これは生命の連続性に着目して見れば、不死と再生を象徴するスカラベのようにも思えます。階段と人体は途切れることなくワームホールを潜るように循環して行くのでしょう。作品は11月4日まで展示されています。

 今までに制作された岩崎ななさんの作品は彼女のホームページ上に公開されています。アドレスをご紹介しておきます。

 http://www.spaceaffair.org/


 スノーグース…甘束まおさんの朗読

 横田沙夜03

 ポール・ギャリコの「スノーグース」は現代版「幸福の王子」と言った感のある作品です。ただ決定的に異なるのはギャリコはワイルドのように救いのあるエンディングとして昇天を描いていないことです。あらすじについては省かせていただきます。短篇ですのでお手に取ってお読み抱ければと思います。
 さて、先にも述べましたがこの日は朗読会と朗読に合わせて横田沙夜さんが木炭で絵を描くライブペイントのイベントが行われました。絵についてはまた後日取り上げようかと思います。今日は朗読についての感想を。

 「スノーグース」という話はギャリコらしいロマンティシズムに溢れた作品なのですが、記憶の断片を綴ったような物語で、かつ、読み方によっては救いのない悲劇と思われがちです。
 展開もアップダウンのある宝島や十五少年漂流記のような波乱万丈のワクワクするようなものではなく、またマッチ売りの少女やフランダースの犬のように悲哀をわかりやすく伝えてくるものでもありません。それは登場人物の感情を抑え淡々と進められます。
 従って読む側も聴く側も忍耐力を要す作品なのです。聴いている方は飽きてくれば気を逸らすこともできますが、読み手はそうはいきません。緊張感を保って読むには非常に難しい物語なのです。一度、自分で音読してみるとよくわかります。

 この夜、朗読を担当された甘束まおさんは心地よい声と明確な滑舌を生かして、この静かな物語を情感深く読み聞かせてくれました。

 本番前に、甘束さんが人の少なくなった展示室の片隅で朗読のおさらいをしていた姿を見かけました。その後ろ姿は声をかけることも、近づくことも憚られるような張りつめたものを持っていました。この舞台に臨む気迫と真剣さが展示されていた作品を静かに覆い、彼女が主役として空間を作っていました。あのリハーサル風景を見ることができたのは僕にとって、この日の最も幸運な瞬間だったかもしれません。

 横田沙夜01 ミニ色紙(ペン・水彩)

 朗読会が終わった後、帰りがけに「ご苦労さまでした」とだけ声をかけさせていただきました。
 緊張が解かれたであろう甘束さんに、他の言葉をかけるのは忍びない気がしましたので。
 見知らぬ人と会話をすることはとても疲れることですから、それが賞賛であっても。

 甘束さんが着けていらっしゃったスノーグースをイメージした白い羽のついたカチューシャ。
 弱い力とはいえずっと頭を締め付けられていると次第に痛みが増してきます。ヘッドフォンをつけっぱなしにしておくと耳が押さえつけられて痛み出す様に。
 恐らく本番はその痛みを感じながらの朗読であったでしょう。それに耐えて朗読を終えられたことも見事でした。
 またいつの日か、甘束さんの声を聴く機会があればと思います。
 お疲れ様でした。そして、どうも有難うございました。

 横田沙夜個展「ふたりの王女さま」は10月28日まで開催されています。

 会場:パラボリカ・ビス
 住所:東京都台東区柳橋2-18-11
 TEL:03-5835-1180
 *浅草橋駅(JRであれば東口、地下鉄ならA6出口)下車。江戸通りを蔵前・浅草方面へ、柳橋病院向かい側。
 HP:http://www.yaso-peyotl.com


  
 

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ポインター、花見川へ(安全運転で)急行せよ?

 昨日、花見川商店街のなかの郵便局に立ち寄った際、非常に見覚えのある変わった車が置いてありまして、「まさかなぁ」と思いつつ近づいてみると「これは!」とびっくり。

 ポインター01

 そうです、あの名作「ウルトラセブン」でウルトラ警備隊が乗り回していた「ポインター」ではありませんか!
 まさか「宇宙人現る」の通報があったわけでも、着ぐるみのウルトラセブンがスーパーの中から登場する気配も感じられないのに、ドカンとポインターだけが置かれているのです。

 ポインターの原型は、クライスラー社製インペリアル1957年型に改造を施していましたが、こちらは何をベースにしているのか、車に頓着のない僕にはわかりかねますが非常に良く出来ていると思いませんか?まるで本物です。

 ポインター03

 当日は「100円商店街」というイベントが行われていたらしいので、その一環として展示していたようです。ちょっと得した気分になった一瞬でした。

 ちなみにポインターの隣に写っているのはマツダ・コスモスポーツです。



 

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飛び起きし声のこと

 ポケットの暗がりの中を降りゆきて とある秋の日の山の平なり (河野裕子)

 息を切らし懸命に山を登り続け、やるべきことを果たしてか、或いは志半ばにしてか、人は山をくだります。その森閑とした藪の暗がりの中を降りて行くと さっと視界が開けて明かりが射す場所に出会うことがあります。いつのまにか坂を下りて平地に出てきていたことに気づかされるのです。その開けた瞬間に人はそれぞれ何を見るのでしょう。
 秋の短い一日、ひと時の安堵。それは病魔に侵された人に訪れる、瞬間的な鎮静のようなものかもしれません。

 4~5日前からの風邪がひどくなり、一昨日は人と話すことはおろか、起きて歩くのも億劫なほどでした。けれど昨日はどうしても行かねばならない用向きがあり、抗生物質と風邪薬を適量を超えて飲み、何とか出向くことができました。そのせいか否かわかりませんが帰宅して夕食をとってしばらく後、立っていられないほどの眩暈を覚え床上に直に寝てしまいました。

 時間にすれば一時間ほどだったでしょう。

 夢の中で僕は仕事をしており、現場なのかわかりませんが遊園地と学校が混ざり合ったような場所を視察していました。図面を拡げ定規で建物を採寸し、完成予想図とデザインが違っていることをみつけました。そして、それを担当したらしい人物(見たこともない人)に、これはどうしたわけかと問い詰めているのです。彼はしどろもどろにメリーゴーランドの説明をしながら、リトマス試験紙を口にくわえて僕に反応を見せようとします。夢の中の僕はその挙動に怒りをあらわにして彼を罵る大声をあげました。

 その自分の大声で僕は目が覚めたのです。

 何と叫んだのかはわかりません。もしかしたら大声を出そうとしたところで目が覚めたのかもしれません。しかし目覚めた僕の鼓動は現実であったかのように早鐘を打ち、残ったものは後味の悪さというか、怒りをあらわにしたことによる嫌悪感でした。
 
 夢でも現実でも、人を罵るということは後味の良いものではありません。

 僕は立場上、ミスがあれば叱らなければなりません。場合によっては罵倒に近い怒りかたをしなければならないこともあります。そして叱った後はいつも自己嫌悪に陥るのです。怒ることなく人を諭す方法はないものだろうかと。もっと別の言い方は無かったのだろうかと。

 仕事ならまだしも、現実ではもっと些細なことで腹を立ててしまうことがあります。

 混雑する電車を降りようとして「すみません、降ります」と声をかけながら人を分けている時に、耳元で舌打ちなどをされるとその音がいつまでも耳の奥に残り、「あの野郎」などと悔しさとも怒りともつかない感情がいつまでも反復してしまうのです。

 そんなつまらないことを反芻してても役に立つわけでもないし、精神上に良く働くはずもありません。その度に自分の心の狭さを思い知らされるだけなのです。

 夢の中に人をののしりをりしこゑ わが耳は聞きおのれを厭う (河野裕子)

 冒頭に挙げた短歌と共に河野裕子の「日付のある歌」という歌集に収められています。

 自分の声を一番近くで聞いているのは、やはり自分なのです。
 恥ずかしさが現実よりも空想の中においてより鮮明であるように、怒りもまた思い返すことで鮮明に残り、自己嫌悪を引き起こす原因になってしまうのです。

 自分の言動に耳を傾けながら言葉を操ることができたならと、いつも思います。
 浅慮な僕は、いつだって考えなしに単語の羅列を吐き出してしまうものですから。 

 

 
 
 
 

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別府葉子「月虹」

 ブログに書くことというのは自分で書きたいものを書いているわけですが、それには2種類ありまして、それは「書かなければならないもの」と「書いてしまったもの」です。
 
 誰からも強制されているわけではないのですけど、「これは書かなければ」と思うことってあるんです。自分にとって大切に思っていることですね。
 しかし肝心な時に、そういうものに限って筆は止まってしまうものなのです。止まってしまう原因にもいろいろあります。優先順位が自分の中で決まらないとか、書くことが煮詰まっていないとか。そうして時が過ぎてから、ようやく手が動き出すのです。これもそのひとつです。

 昔、スコットランドを訪れた時、僕にこう言った人がいました。

 「君は何回虹を見たことがある?そのうちの何個を思い出せる?もし幸せを量るものがあるとしたら、その人が見た虹のうち、いくつを思い出せるかで量るというのも面白いかもしれない。虹は見えない点を繋ぐ架け橋だから。」

 別府葉子さんが先の東京でのコンサートで披露した曲に「月虹」(げっこう)というのがありました。別府さんがネットで見たアフリカで撮影された「夜空にかかる虹」の写真にインスパイアされ誕生したものと伺っています。

 「かつて」と言うべきなのか、「現在も」と言うべきなのか、僕にはわかりませんが、アフリカという大陸は利益を生む栽培場所として使い捨てられ、或いは、兵器や薬品の実験場となってきました。
 多くの人が社会科や世界史で学んだことをここで述べることもないのでしょうが、アフリカ大陸はヨーロッパの大航海時代という華々しい光によって闇をもたらされました。ポルトガルなどによる奴隷貿易を手始めとして、列強各国によって分断蹂躙され、その争いは今も絶えていません。
 形として列強支配からの独立を得たとはいえ、アフリカ諸国はその歴史的背景と多数の部族対立により極度の政治不信や排外主義に覆われ、諸所での内戦勃発による荒廃を招き、さらにはそこへ自然災害が襲い掛かり、二重三重の難民を生むと言う悪循環ができあがりました。二〇世紀は「難民の世紀」だと言う人があるほどに。
 別府さんはその歴史的事情と犠牲になってきた一般の人々(子供)に光をあててこの歌をお作りになられています。

 本来、歌というのは曲と歌詞を切り離してご紹介できるものではないのです。ここでは歌詞でしかご紹介できないのを歯がゆく思います。しかもその歌詞は僕が聞き取りで採取したものが大部分で間違いもあり、また作者の意図した言葉を無視して当て嵌めてしまっている恐れも多分にあります。
 ですので、「別府葉子公式ブログ~葉子通信」の9月23日の記事に曲があげられております。是非ともご自身の耳でお聴きください。

  http://yokomusette.blog31.fc2.com/page-2.html


 「月虹」 作詞・曲 別府葉子

 白い滝、水飛沫をあげ、銀色の月の光浴びて
 浅い夢、目覚める瞬間に龍の涙みたいな虹が
 夜空に霧のように悲しいきらめきを振り撒き
 この空を見上げる子供たちの瞳を照らす

 冴え渡る満月の空に浮かびあがる七色の虹
 いにしえの悲しみと君の涙で輝いているのだろうか

 Oh Luna Rainbow

 美しい人が住むという世界が交わるこの国では
 黒い目やトパーズ色の目が青い瞳とほほえみ合う
 心に同じ風を感じてきたはずなのに
 なぜ歴史は悲しみで彩られているのだろう

 冴え渡る満月の空に浮かびあがる廃墟の城が
 いにしえの戦いの傷を今も深く刻んだまま眠る
 月夜の虹を目にしたものは幸せになれると言う
 きみの瞳にいつの日かきっと平和の光が映るだろうか

 Oh Luna Rainbow

 優しい花に抱かれた少女の手を、少年はそっと握りしめてる
 紫の花びら、風に吹き上げられ高く高く舞い上がってゆく
 夜空を染めるジャカランダの花は台地に根付き枝を拡げて
 何処までも世界の果てまで
 何処までも飛んで行け、自由に

 月夜の虹を目にしたものは、幸せに、幸せになれると
 君の瞳にいつの日かきっと平和の光が映る日が来る

 ジャカランダの花は台地に根付き

 何処までも

 何処までも・・・ 
 



 蛇足ですがジャカランダの花言葉は「名誉」と「栄光」です。けれど、これはきっと間違っている。
 ジャカランダの花が見て来たものは何であったのか?見ることしかできなかったこの木は、今、何を思っているのか?「名誉と栄光」がこの木の花言葉であるとしたなら、その前には「まだ見ぬ」という言葉がつくはずです。

 この歌を初めて聴いた時、こんなことを思いました。

 「僕がこの歌を聴いている間に、どれほどの人が飢餓と銃弾で死んでいるのだろうか?僕が死ぬまでに戦争はなくなってくれるだろうか?」

 そして、最後にもうひとつ。

 ナイロビのジャカランダの木には、食べ物を得るために互いに争い、マサイの村を滅ぼしかけた二匹の大蛇が、神の力によって姿を変えたものだという伝説があるそうです。

 




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蝉の声の途絶えること

 10月4日を最後に、つくつく法師の鳴き声を聴かなくなりました。気温が30度を超える日がまだあるという異常な季節に「秋らしくない」と思う僕と関わりなく、自然の中の命たちは自分たちの季節を終え、そして迎えようとしています。

 ここ数日、決算処理と契約に関する訴訟の準備に追われ殺伐とした日々が続いています。殺伐としているのは今に始まったことではなく、もっと前からそうなのでしょうけど、目の前にことが起こればその印象しか抱けなくなってしまいます。

 僕は例外にもれず生活のために仕事をしているわけなのですが、その過程では、お金を稼ぐことに執心して齷齪したり(いつもですけど…)、地位や実績をあげて「俺様状態」で肩で風を切って歩いたり、ちやほやされ天狗になっていた時もありました。
 しかし最近は他人に褒められたいとも思わなくなってきましたし、名刺の肩書も邪魔にさえ思えてくることがあります。
 もとより僕は人間不信が強い方で、それを表に出さないように感情を抑えて生きてきました。
 「ポーカーフェイスの・・さん」などと呼ばれ、「能面男」「感情が見えない昆虫のような人」と言われてもきました。かといって「笑わない」とか、「怒らない」というわけではありません。しかし、それが素直に出せない、出てこない、出さないようにして来た結果、常に「つくり笑い」「計算づく」の域を超えない感情表現に留まってしまうのです。それは意識的にそうしてきましたから当然かもしれませんけど。

 そうして今になって「俺ってどうやって笑ってたんだっけ?」「友達って誰のこと?」とか思うようになりました。僕がどこかで忘れてしまったもの、落としてきてしまったものですね。

 僕は出かけるのが好きです。一人で部屋にいるのも大好きですけどね。
 出かける時は、遠く近くに限らず、日帰りでも泊りがけでも、突然の行動にでます。もちろん仕事に穴をあけるわけにはまいりませんので、それなりの準備はしなければなりませんが。
 
 僕はどうして出かけようとするのだろう?見たいものがある?
 確かに、興味があるものはあります。趣味的に、或いは、学術的に。しかし、それがすべてではありませんよね、誰だって。
 僕は自分が望んでいるものをその望むとおりに見たいだけなのです。自分のイメージする空間や存在をその場所に探しているだけです。
 考えれば何と傲慢で無意味なことなのでしょうね。そんなものはどこにもありはしないのにね。

 かつての友人が僕にこう言いました。

 「人には勝者も敗者もない。そこにあるのは弱者と強者だけだ。成功者が強者であるということもなければ、不成功者が弱者であるわけではない。成功は時の悪戯のようなもので趨勢には逆らえないし、何より生きる時代を選べない。
 君は何を必要としている?今欲しいものではなく、求め続けているものがあるはずだ。逃げ続けているものと言ってもいいのかもしれない。その逃げる先に求めるものも同じであろうから。
 君はどちらだ?」

 人間としての側面や内包されたコンプレックス、経済的事情や社会的地位、そのほか様々な要因があげられるでしょう。そして総合的に判断すれば一般論でいう弱者と強者は分別されます。けれど、それは本当ではない。
 自分がどちらに属するのかを、人は一生をかけて理解していきます。

 酒井雄哉師が次のようなことを話してくれたことがありました。

 「今、あなたが生きているのは生き残っているのではなく、仏によって生き残されているんだよ。神様によってのほうがいいかな。
 人はいろんな悪いことをする。しない人なんてないんだよね。悪さに大きいか小さいかはあるけどね。それはね、償わなくちゃいけない。どこかでね。
 だから、生き残されている人は苦しまなくちゃいけないんだな。やるべきことがあるからやらなくちゃいけない。『お前はもっと生きて、もっと苦しんで、もっとやることをやらなくちゃいけない』と、そう神様に言われているんだな。
 死んでいった人たちは『お前たちはよく頑張った。もう苦しまなくっていい。こっちへ来なさい』と呼ばれたんだよ。事故や病気で死んだ人も、戦争で死んだ人もね。
 だってね、自殺したいって思ってもそう簡単に成功するものじゃないの。変な言い方だけど自殺するための気力も必要だし、何より運が必要なんだよね。死にたくても死ねない人っているでしょ。あれは死ねないんじゃなく、死ぬことが許されていないんだな。『もう人のために、自分のために苦しまなくていい』って言う許可がおりてないんだよ。
 だから大事なことは、何もしていないから無意味なんじゃない。才能がなくて、貧乏だから無意味なんじゃない。生きていること、生き残されていること自体に意味があるんだよ。そう思ったらすこしはやる気みたいのが出てくる気がしないかな。」

 生きていることが生き残されていることであり、思い出すことが死の準備であるなら、僕の毎日はそう無意味なものではないのかもしれません。そう思うことで何かに頼っている自分は、やはり弱者に属するのでしょう。そしてそれは卑下すべき恥でも、無能でもありません。人とは本来がそういうものなのです、恐らくは。

 書出しの話題に戻りますが、ひょっとしたら狭いとはいえ、自分の足で歩き尽くすには広すぎるこの場所のどこかで、まだ、つくつく法師は鳴いているのかもしれません。「途絶えた」と確信をもって断言できるほど僕が知覚できる空間は広くはないので。
 だから、そのために出歩くのです。そして出歩くこと自体にも、僕が知らないだけで、いつか役にたつ時が来るのかもしれません。





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市川「鳥たちの病院」②…ピッキィとちょみ

 僕がコザクラインコを2羽飼っていることは前にすこしだけ書きました。今回はその子たちが病気になった時のことを話そうかと思います。

 1.ピッキィの産卵

 1羽目がピッキィと言う名前で雌の5歳です。この子が先日、産卵で体調を崩して市川にある「鳥たちの病院」のお世話になりました。
 卵を産んだ後、羽を広げて蹲り、手に乗せようとしても掌に捕まっていることさえできませんでした。当然、餌もまったく食べません。
 市川の「鳥たちの病院」に連れて行き、僕が第一に叱られたのは「産卵を甘くみていた」ことでした。
 ①何に対して②いつ発情するのか、を飼い主としてきちんと把握していなかったこと。
 次に体重は定期的に量っていたとはいえ、そのスパンが長すぎ、細かく記録しはじめたのは「体調を崩してから」であったこと。
 第三に「体重の増減」で卵を宿したことに気付かなかったこと、でした。

 人間であっても出産は命がけです。ましてや掌より小さな小鳥です。もっと気をつかって観察していなければならなかったのです。外に出して遊んでいるときにも観察を怠るべきではなかったのです。

 この「産卵」について僕は頭ごなしに叱られました。それも仕方のないことだと思っています。

 そして、産卵の次に問題になったのは餌のあげかたでした。

 僕は通常、餌は自分で配合しています。
 あわ:ひえ:きび=3:1:1(すべて殻つき)の割合です。それに少量の牡蠣殻を混ぜています。健康な状態であればこれで良いのですが、常に「良い」と言うわけではありません。ピッキィが体調を崩した時にまずその点をきつく言われました。
 「食べない時は食べるものを何でもやる。ヒマワリでも、カナリヤシードでも何でも、好きなものをたくさんあげる。そして、元気になったらもとの餌に戻す。」
 もうひとつ食欲がなくなった時に大切なことは「小屋の中を常に明るく、羽をふくらませているようだったら温かくしておく」ことです。
 その指導に従って、小屋にかけていたシーツも取り外し、部屋の電気を消さずに明るくしておきました。それから通常の餌のなかに麻の実、オーツ麦、ひまわり、ソバの実、サフラワーを混ぜてみました。麻の実とソバの実は良く食べました。ひまわりは割っているだけで食べている様子はありません。サフラワーはまったく食べませんでした。ですから、麻の実:ソバの実:オーツ麦:あわ:ひえ:きび=2:2:1:2:1:2にして、ヒマワリの種をオモチャ代わりに5個。さらにエサの食べが悪い時は、麻の実を倍量に増やしました。
 20日間の入院と1週間の毎日の通院、そのあとは週2回の通院。完全に回復するまでにふた月ほどかかりました。今はすっかり元気で問題なく過ごしています。
 
 ピッキィ ピッキィ

 2.ちょみの素嚢炎

 2羽目が「ちょみ」で雄の4歳です。
 この子がヒナの時、うちに来て5日ほどで体調を崩しました。エサを食べなくなったのです。原因は「素嚢炎」でした。

 鳥には「素嚢」(そのう)というものがあり、口にいれたものを一度そこに溜めてから消化器官に送り出します。ヒナのうちはここに最大の問題があるのです。
 ヒナにあたえるアワ玉はお湯でふやかしてからあげるのですが、餌の与えすぎや体の冷えなどで、これが素嚢のなかで冷めてしまい消化不良の状態になり、うまく消化器官におくりだせなくなってしまいます。
 またヒナ用のアワ玉には卵黄が添加されているものが多く、この卵黄が素嚢のなかでアワを腐敗させる一要因となってしまうことがあるのです。
 アワ玉を口から吐き出してしまう(嘔吐)が見られたらこの症状を疑うべきです。

 ちょみはまだ嘔吐まではしていませんでしたが、自分から餌を食べることを拒んだのです。
 「餌を吐いて死んでしまった」という話をたまに耳にします。「餌を喉に詰まらせてしまったんだろう」とも。
 しかし、それは「詰まらせてしまった」のではなく、消化不良で素嚢炎を起した可能性が高いのです。僕も実はピッキィを飼う前に、一羽、この素嚢炎で死なせてしまっています。

 素嚢炎を防ぐためには餌の量と温度の管理が不可欠なのです。ヒナの小屋の中を暖かくしてあげねばならないのです。赤外線のペットヒーターがあるから大丈夫と安心するのではなく、ヒナの様子をみて温度を判断しなければならなかったのです。

 最初のヒナは暖かな春先でした。室温からすれば人間には充分だったのですが、ヒナにとっては赤外線の小型ヒーターだけでは「寒かった」のです。そして、餌の与え方を失敗していたのです。消化できる分の見極めができていなかったということです。
 
 最初のヒナを素嚢炎で死なせてしまった経験から、すぐに病院に連れてきたつもりでしたが、それはあくまで「つもり」であって、実際は「危篤」状態でした。

 「鳥たちの病院」にかかったのはこの時が最初でした。先生からは上に述べた点を手ひどく叱りつけられました。

 鳥は寒ければ羽をすぼめ、羽毛を膨らませ体温を守ります。暑ければ羽を広げて体温を調節します。ですからヒナの小屋には充分な温度を保てるヒーター(ひよこ電球)をいれて、寒ければ近づけるように、暑ければ涼しいところまで離れられるように心がけなければなりません。これは四季に関係なく注意すべき点であるのです。夏だから「寒くない」というのは人間の感覚であって、ヒナの感覚ではありません。
 気温の寒暖とは無関係に素嚢炎は起こる危険性があります。ですから小さなヒナのうちは細心の注意を払わねばならないのです。

 ちょみ01 ちょみ

 市川の鳥たちの病院の先生は厳しすぎる、患者を罵倒するとの声を聞きます。しかし、本当にそれは「罵倒」なのでしょうか?
 罵倒されているとしたら、それは飼い主の甘えを指摘されているのであり、罵倒されて当然の行いがあったのではありませんか?
 非が自分にあり、その罵倒が正鵠を射ているのなら、それは罵倒ではなく激烈な叱責です。
 僕は自分の飼い方の非を認めます。いつまでたっても「正しい飼い方」はできないかもしれません。それでも一日でも長く一緒に鳥たちと過ごすために、厳しすぎるアドバイスを少しでも守ろうと思っています。

 ピッキィ似顔絵00

 ピッキィが体調を回復し通院しなくても良くなった時のレセプトに、先生が描いたピッキィの似顔絵が添えてありました。

 「大変よくがんばりました。」

 それは、生きようとしているピッキィに対してであり、同時に飼い主である僕に対する激励でもあると、今は感じています。






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