夏の

 僕がこの夏、初めて蜩の声を聞いた日から2週間が経ちました。
 けたたましく鳴く蝉の声が耳の奥で渦巻のようになり、余韻と言えば聞こえは良いが、耳鳴りか幻聴のように夜になってもつきません。
 ああ、これは既に病気なのだと気づいたのがつい先日のことで、重い腰をあげて診察に臨みました。
 そうしましたら医師が「脳波に微妙な乱れがみられるね」と軽い口調で言うので、「ええ、僕は既に狂っていますから」とあたりまえに応答したら、「誰も彼も多かれ少なかれここでは狂っているんだよ。心配しなくていい」と言われました。
 そのほうが心配ですよ、との言葉を飲み込んで、カルテを閉じる医師を見守る。
 「それじゃ、MRIで頭を切り刻んでみますか。予約しておきますから、その日はきちんときてくださいね。」
 明るく笑いかけるその顔が幼稚園の先生みたいで、もちろんそんな先生に思い当たる節はないのですが「誰かに似ているな」と少しだけ記憶にさざ波が立ちました。
 
 誰だっけかな?

 思い出せない夜。

 7月も既に終わろうとしており、明日には8月に突入します。
 暑苦しい夏は様々なことを引き起こして、次に意識を取り戻した時には、恐らく僕は銀杏の枯葉の下にいるかもしれない。もちろん近寄って来る誰かを驚かしたりなどしません。じっとしていますよ、できるかぎりは。

 クリスマスなんか楽しくもない。

 たぶんそんな顔をしていたから「もう今年が終わった気でいるんですか?」と声をかけられ、驚いて振り向くとオレンジ・ペコーを注いだティーカップを持って彼女が立っていました。

 「どうぞ。」
 「ありがとう。」
 「お砂糖は要りますか?」
 「いや、このままでいいよ。香りを損なうから。」
 オレンジ・ペコーに香りもないものだろうと自嘲しながらそれを受け取る。

 紅茶の面に映る不機嫌そうな自分の顔に不快感を覚えながら、それを一気に飲み下す勢いで口を付ければ、「楽しくないことが予感できるのなら、楽しくすることを探してみたらどうですか?まだ時間はあるのですから」と至極もっともなご意見を賜りました。
 「できればそうしたいけど僕は不器用なんだよ」とそう言うと、「誰だって不器用に生きていますよ。器用だと思い込んで生きている人はいるかもしれませんけれど」とこれも真理を返してきます。
 「思い通りになることなど10のうち半分もない。ひょっとしたら一つもないかもしれない。ちょっと風向きが良かったのを考え違いしているだけなのかもね。」
 「偶然ばかりですからね。世の中は。でも結果論が人を救う手だてになることもありますよ。」
 
 そう、良い方に捉えるには運命論は万能なのです。怪しいものほど役に立つ。
 怪しげなものはカップケーキと一緒に台所の棚の奥にしまっておいたほうがいい。できれば普段は手の届かない高い場所に。そのうちにとっておきのおやつになる時がくるかもしれないから。

 彼女との会話を反芻しながら、きっとこれは鏡なのだな、と胸のうち。

 「蒸し暑いですね。太陽がまぶしいから…、そう言って引鉄をひいてしまいそうです。」
 「銃をもっているんですか?」
 「ワルサーP38のエアガンなら。」
 「痛いでしょうね、痛いだけでしょうけど。適度な怖い思いと痛い思いが体感できますね。」
 「そうなれれば理想的だね。少しの怪我と軽い笑い話で済むから。」

 で、そんな不毛な会話の原因を探したら、どうやら夏風邪だったようです。

 来週は頭の検査です。
 悪いところではなく良いところが見つかれば、なんて脳内遊びをしてみるのは、どこかに期待と不安があるからなのです。

 夏は、もう少し続きます。




 




 
 
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佐香厚子「マリエにお手!」

 「マリエにお手!」は、女性向け月刊誌「Nighty Judy」(小学館)で1995年3月号から連載が開始され全30話で構成されています。

 マリエにお手! マリエにお手!2

 単行本としては、1997年に Judy Comics Wide(小学館)から「マリエにお手!」全2巻が出版され、30話中前半の10話までが収録されています。現行本としては絶版になっていますが、小学館オンラインでデジタル・コミックス化され、ここに収録された前半の10話は購入することができます。
 その後、宙出版の月刊誌「最高の愛と感動」の再収録を経て、ファームマリエから「新マリエにお手!」の1巻と2巻が出版され、現在30話中の20話までを手にすることが出来ます。このコミック化にあたっては、かなりのご苦労があったようです。
 残りの10話が単行本として出版され、早く完全版を読める日がくることを願っています。

 新マリエにお手00 新マリエにお手1

 「新マリエにお手!」は佐香先生のブログ http://bbs1.sekkaku.net/bbs/sijimi.html から通信販売で購入することができます。
  
 主人公は、OLから転職して高杉愛犬訓練所へやってきた見習い訓練士の相原毬絵(24歳)。高校卒業から専門学校などで学ぶ人が多い中で、訓練士を目指すには少し遅れぎみのスタートを切った彼女ですが、犬に対する愛情と熱意は他に引けを取りません。
 またOL経験者ということで社会でもまれた経験を持っているためか、人の機微を感じることに長けているようにも思えます。いうなれば犬にも人にも世話好きな性格なのです。
 毬絵が目指すのは家庭犬としてのしつけがメインのドッグトレーナーです。犬種のスタンダードや歩様などで判断されるショードッグではないところが物語への共感と奥行きを作っています。

 マリエにお手!1-0 マリエにお手!1-1

 主人公が見習い訓練士ということで初歩的な失敗もしますし、染まりきっていないからこその思い切り良さから結果を導きだすこともあります。
 家庭犬のしつけに関するHow toのようなものも挿入されていますが、それは物語の進行に必要な限度にとどめられており、あくまで中心は人と犬との心の繋がりに置かれています。
 コミカルな要素と人情噺的な要素とがうまくかみ合っていて作品の完成度しては高いのではないかと思います。

 新マリエにお手1-4

 「新マリエにお手!(1)」の第4話「恋するモップ犬」のラストの演出は、まさに本当の飼い主とのつながりを伝えるとともに、飼い主である少女の気持ちの切り替えを見事に描写していると思います。画文が一致するコミックだからこその場面です。あのシーンは文字だけで表現するとしたら非常に難しいでしょう。「漫画」って馬鹿にする人もいますが、そこだけでしかできない感動を生み出す表現というのは確かに存在しているのです。

 佐香厚子先生サイン
 
 読み切りの短篇で各巻構成されていますので、どの巻から手にとっても楽しめます。ぜひ、一度、ご覧になっていただきたい作品です。




  
 
 

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佐香厚子「しゃぼん玉シリーズ」

 「いちごパフェでデート」 (単行本未収録)

 まず最初に「しゃぼん玉シリーズ」ではありませんが、佐香厚子先生のデビュー作をご紹介しておきます。
 週刊少女コミック昭和52年4月24日号に掲載されました。非常にテンポの良いコミカル・ラブ・ストーリーです。
 
  いちごパフェ 

 キャンディ・ショップでアルバイトをしていた達郎に会った瞬間から気になって仕方のない由紀。仲の良い友達はみんな初デートの経験者。ひとり取り残された感じで、憧れのふたりで食べる甘いパフェに憧れつつも、初めてのデートの時にいちごパフェのいちごを取り落すような失敗をしたら大変と杞憂に悩まされる由紀です。そんな由紀の夢にまで現れるいちごパフェと達郎。ちょっとしたアクシデントからストレートに告白した由紀は、お互いの好意を確かめることに成功します。しかしある日突然に、彼が美女と同棲しているとの疑惑がもちあがり…。

 単行本未収録なのが残念です。あまり目にする機会のない作品になってしまっています。ぜひまとまった作品集に収録してくださることをお願いします。

 さて、「しゃぼん玉シリーズ」と銘打たれた4冊の作品をご紹介します。
 このシリーズですが、主人公もテーマもすべて異なり連続性はありません。単独の話として編まれています。 
 読み切りの短篇から、2~3回に分けられて掲載された中編、しっとりした恋愛からドタバタ・コメディ、ミステリータッチの作品まで非常にバラエティに富んでいます。  
 なぜ「しゃぼん玉シリーズ」と名前がつけられているのかについては、第1集の「立待月・居待月」の巻末にその理由が寄せられています。
 それによりますと、作品は自分自身の投影であり、しゃぼん玉のキラキラした被膜の鏡に映るいくつもの自分の姿と生み出す楽しさをそこに見立てて名前をつけられたようです。
 
 しゃぼん玉

 この第一集には表題作のほか、「窓にはたんぽぽ」「佳奈のほうき星」「あぷりこっと・アップリケ」の4作が収録されています。

 「立待月・居待月」(小学館、昭和55年初版)

 …それは夏の終り。たえ子はお月サマに願いごとをしました。今度の新月の晩までに大好きな相模光太郎くんにあわせてくださいな…

 立待月00 立待月01

 郷里を出て東京の大学に通う春日たえ子。彼女には思い続けている男の子がいました。彼は高校3年の時に隣の席に座った明晰で活発な男の子、相模光太郎。
 しかし彼女は実家の事情で呉服問屋の息子との結婚が決められていました。大学を辞めて結納のため故郷に帰らなくてはならない日が近づいてきます。それまでひと目、彼に会いたいと、東京のどこかの予備校に通っているとの噂を聞き、たえ子は予備校生の多い街角で彼に出会える偶然を待っていました…。

 窓にはたんぽぽ 窓にはたんぽぽ

 「竹丸にむかったら礼!!」(小学館、昭和55年初版)

 竹丸00

 仙台の東高校に通う竹丸。ある朝、青葉通りで牛の群れの暴走に巻き込まれ、単なる偶然で学校一のアイドル・薄野まどかを助けます。それを契機に高校のスーパースターになってしまった本当は弱虫の竹丸。そんな竹丸が、硬派の塊、鬼の応援団に入団させられるはめに。それを見守る幼馴染の生美は心配でたまりません。誤解から生まれたスーパースターは本当のスーパースターになれるのでしょうか?

 併録は、つばめに寄せた二人の出会いと別れを描いた「つばめ」。
 一枚の中古レコードが取り持った邂逅。タイムリミットは午後8時40分。一瞬から生まれる本当の恋心。この一日の行方は…。

 「矢萩の里の物語」(小学館、昭和55年初版)

 矢萩の里00 矢萩の里01

 忍者の隠れ里との伝承が残る矢萩の里。その貧しい山奥の村に分校の教諭として赴任してきた柾一臣。彼はそこで街の有力者の息子との結婚が決まっている矢萩久美と出会います。しかしその結婚は久美が望んだものではなく、貧しい村のための政略結婚。しかもその相手は一臣の妹を自殺に追い込んだ秦野君彦。さらに秦野の真の狙いは彼女の家に代々伝わる矢萩の里の財宝の秘密であることが判明する。
 久美と村を救うため一週間後の結納までに矢萩に伝わる謎を解き明かして財宝をみつけなければなりません。一臣たちは石碑の謎や忍び文字の古文書を解き明かすことはできるのか?…

 ミステリータッチに描かれた表題作と「こんこん粉雪」「ぼくのまりもちゃん」を収録。

 「風知り草」 (小学館、昭和57年初版)

 カゼクサ、イネ科スズメガヤ属の多年草。風が吹くと花穂が揺れることからこの名がつけられています。 別名は道端に多く生えているところから道芝などと呼ばれています。
 
 風知り草

 恵は小学1年生の夏にであったヒロ君の思い出が忘れられず、ずっと心の片隅で温めていました。あの日、神社でもらった縁結びのお守り。11年の月日を経ての再会。果たして、ふたりの縁の糸を出雲の神様たちは酔っぱらって結び忘れたり、絡ませてしまったりしてはいないでしょうか?

 風知り草01 風知り草02

 他に「昼下がりのコーヒー」「どんぐりころころ」「環状七号線」を収録しています。この中で「環状七号線」は深く印象にのこる作品です。

 環状七号線00 環状七号線 

 世田谷でアパート生活をおくる庄司。彼の部屋向かいのアパートに住んでいる若い夫婦とその飼い猫。話をすることもなければ、互いの名前も知らないままの出会いと別れ。ふたりを繋いでいるものは「みーしゃ」と言う名前の猫。庄司の中に芽生えたほの静かな恋心と思い出は一枚の猫の写真のなかに…。

 環状七号線01


 

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わたなべ雅子「聖ロザリンド」

 …そうでした。執事のわたしがはじめてロザリンド様にお会いしたのは八歳になられたばかりの二月でございました。
 イギリス博物館長のお父さまのお言いつけで、ギリシアのロドス島にあるこのお館へおいでになったのでございます。
 輝くような金髪がバラの花びらのような頬になびき、その瞳の色と言ったら、まるで…、そう…、天使が舞い降りた…とでも申しましょうか。気高く、可愛らしいお姿に一目でとりこにさせられてしまったのでございます。
 この天使のようなお嬢様が…じつは…世にも恐ろしい悪魔の子であろうとは…誰が信じ得たでしょうか!…

 総集編00 総集編

 蒸し暑くなってきましたね。クーラーでもかけてと思いますが電気代が怖いので、ここはまだもう少し我慢のしどころでありましょう。
 で、涼むにはほかの方法をと思いまして、取り出してきましたのが、わたなべ雅子「聖ロザリンド」です。
 昭和48年「少女フレンド」の第12~20号に前半(戦慄編)が掲載、続いて第33~41号に後半(総集編)が掲載されました。
 この作品が完全版として1冊にまとめられるのは1992年に集英社から発刊された「わたなべまさこ作品集 聖ロザリンド」が最初で、ついで、2005年にぶんか社から発刊された「聖ロザリンド」(文庫版)になります。

 戦慄編00 戦慄編

 冒頭にあらすじ代わりに書き出したのは、ストーリー中にでてくるロドス島にあるブールボン館の執事アルフレッドの手記です。

 ところで、ジャン・コクトーの小説に「恐るべき子供たち」というのがあります(萩尾望都がコミカライズしています)。そこでは子供たちの憧れが生じさせる嫉妬や残虐性を描いているのですが、それらは言うなれば同性或いは異性間の愛情に関する心理的な子供たちの変貌を取り上げていると言えます。
 一方、この「聖ロザリンド」はもっと純粋な形での罪の意識のない子供らしい単純な「欲しい」ということに対する残虐性をとりあげ、しかも作者はイノセンスという表現に相応しいキャラクター作りに成功しています。

 戦慄編01

 ロザリンドは、何となくウルトラQの「悪魔っこ」の少女を彷彿させますが、「悪魔っこ」は多重人格というか、霊体分離が事件の中心でしたけど。その分、「悪魔っこ」の方が救済の余地があると言えます(番組では線路を歩くふたりの少女を通して事件の非終息を伝えていますが)。
 それに比べてロザリンドには救う手だてがない、というのが最大の悲劇でしょう。罪の意識をもたず、人を疑うこともしない、可憐な少女。
 物語の終盤で指名手配されたロザリンドについて「ひとをうたぐるということをしないそうだ。すぐにつかまると思うが…」という警部の台詞は胸に痛いものがあります。

 カレンの赤い靴のようにロザリンドは「自分の欲しいもの」を、「約束」を代価にして手に入れ罪を犯して行きます。
 しかし、彼女が欲したものの持ち主たちは、ロザリンドほど誠実に彼女に対応して約束をなしたのでしょうか。そうではないでしょう。その場限りの口約束として流してしまおうとしたのです。或いは、意地の悪さから。
 ロザリンドは単にその約束にあった「時間」を待てなかったにすぎないのです。その「時間」は彼女にとって長短以外の意味を持たなかったにすぎません。そこにロザリンドのイノセンスそのものがあるのです。

 …うそをつくひとは天国にいけないのよ、知ってる?だからあたしはうそをつかないのよ。…

 戦慄編02

 作者が「聖」とつけたのは、ロザリンドという少女の中にあるその無垢な望みを伝えたかったのだと思います。
 彼女は愛情を疑わなかった。神の前において真実であることを棄てませんでした。問われれば自分の罪でさえ真っ白な心で、あまりにも無邪気に告白するのです。

 この物語のラストには「裁きの時」は訪れません。誰も少女を裁くことはできないのです。
 父親は深い愛情を持ってロザリンドを神の手に委ねます。母親の愛情を求めた少女が最後に神のもとへ携えて行ったのは「疑わない心」でした。「純粋さ」と言い換えても良いかもしれません。

 …「ここからは…ひとりでいくんだよ。ロザリンド。この…ずっとむこうにママが待っている。決して…うしろをふりむいてはいけない。まっすぐ…歩いて…いくんだ…いいね。」
 「ええ、パパ…、まっすぐあるいていくわ。」…

 総集編01

 体も髪も凍るほどの吹雪の中を父親の言葉を信じて疑わず、母親のもとへ向かうロザリンドの姿は感動的です。
 手を前に出し道を確かめるように進むロザリンドが雪に足をとられてバランスを崩す描写は特に素晴らしい。あの後ろ姿こそ「聖ロザリンド」なのではないかと思いました。
 
 総集編02

 ロザリンドには確かに信仰はあったのです。誰よりも純粋な悲劇として、母親の愛に基づく神への信仰が。
 聖なることとは一体どういうことなのかを改めて考えさせてくれる作品です。

 
 

 
 

 

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牧美也子「少女たち」

 …日本人は必ず心の中に富士山をひとつもっていて、悪い考えをおこしたり、間違ったことをするのは、その時の心の中の富士山に雲や霧がかかっているからなのです。だから、霧や雲が晴れればみんな心の優しい人になるのです。…

 のっけから何を言い出すのかとお思いの方もおられましょう。
 先だって富士山が世界遺産に認定された理由の一つに精神的芸術的象徴というのがありまして、その新聞記事を読んだときに頭に浮かんだのが冒頭の文句でした。
 で、これはどこから引っ張り出してきたかと言いますと、牧美也子(作画)、西谷康二(原作)の「少女たち」からです。

 少女たち00 36年1月号

 「少女たち」は月刊「少女」の昭和35年11月号から昭和37年4月号まで本誌、並びに、ふろく漫画として連載されました。単行本も講談社から全2巻で発行されています。
 余談ですが、ふろく冊子の形状が昭和36年4月号からは新書版からB6版に変更され、同年10月号からは本誌での掲載はなくなり、ふろく冊子の方を増頁しています。

 36年3月&4月号 36年5月&9月

 主人公は富士山のように美しく、はずかしくない人に育つようにと「富士子」と名付けられた少女です。
 彼女は幼くして富士山の気象観測所員であった父を遭難事故で亡くし、静岡に移り住んだその後に母親も胸の病で亡くし、東京で乾物屋をやっている叔父夫婦に引き取られますが、そこでは女中同様の扱いを受けます。
 しかし富士子は意地の悪い叔父夫婦のもとでも明るく健やかに育ち、映画監督であるルミの父親に認められて女優への道を歩み出します。

 その秋本富士子を中心として、有名映画監督を父に持ち母を亡くしている梅野ルミ、大手の建設社長夫妻の娘である香取恵子、そこに後半からはスターの座を目指す浅田和江が加わり、それぞれの身の上におこるエピソードに少女らしいジェラシーや誤解、独占欲などの微妙なアクセントを交えて物語は展開されていきます。

 富士子00 富士子01
 
 この物語ですがこども向けと侮るなかれ、本当に複雑な感情が押し込まれています。
 物語当初はお金持ちで我儘し放題だった香取恵子が、自分は養女であったことを知り、打ちのめされ、その事件をきっかけに人の悲しみや苦しみがわかる優しい少女に変わって行きます。この物語では主人公と他の少女たちの橋わたし役にもなっていきます。

 恵子00 恵子 ルミ00 ルミ

 また、転向したての富士子の一番最初の友達である梅野ルミには母親の如く慕っている女教師がいました。その教師が常に富士子を気にかけていることに嫉妬心を抱き、それ故に、富士子を蹴落として自分がスターになることを狙っている浅田和江の詐言に惑わされ、富士子に冷たくあたるようになったりします。

 和江00 和江 和江01 救出

 けれども彼女たちは自分の心の富士山の霧を払うことに成功します。 
 浅田和江にしても最初は富と名声にしばられて富士子に敵対しますが、本当の幸せは名声やお金ではないことに気づき、最後は身の危険も顧みず富士子の救出に向かいます。

 物語の細部に至ると多少破たんしている部分もありますが、それは当時の小学4年生~中学1年生くらいを対象とした雑誌ですので許容範囲というべきでしょう。むしろそれ以上精緻な描写をすればドロドロの後味の悪さがのこる別の物語になってしまったことと思われます。

 36年10月&11月号 37年1月&2月号

 各号の表紙のイラストも楽しいのですが裏表紙などに掲載されている広告も面白いです。
 たとえば37年2月号には「スーパー・ブレンナー」という明脳器が紹介されています。
 これを頭に締めて勉強すると「空冷作用で頭がスッキリと冷え、また永久磁石が頭のなかにイオンを発生させる」のだそうです。
 当時の販売価格は600円ですから、現在に換算すると3000円前後くらいでしょうか?
 効果はどの程度だったのでしょうね。僕は現物をみたこともないので、もしジャンクでも市場にでまわれば一個買ってみたい気もします。どんなに時間が経過しても永久磁石ですからね、たぶん使えるでしょう。

 37年2月号広告

 最終回は基本的にはハッピーエンドになります。それぞれの少女も自分たちの困難を克服して人間的に大きく成長した姿をみせます。

 最終話00 最終話01
 
 牧美也子先生が最終号の巻末に書いていらっしゃいますが「心に、いつも日本晴れの富士山を持て」と言うのは良い言葉ですね。毅然として誰に恥じることもなく、すべてに正対する姿は美しいです。

 誰の心の中にもある富士山。みなさんの富士山はどんな景色の中にありますか?

 ということで、選挙が近づいてきてますね。
 立候補者の心のなかに晴れ渡った富士山はあるのでしょうか?霧と雲に覆われていないことを願います。まさか晴れることの無い永久雲霞に包まれている、なんてことはないですよね?まあ、ある意味、雲霞のごときかも…。
 それから、もし頭が冴えていないと感じている立候補者がいらっしゃいましたら「スーパー・ブレンナー」のご使用をお勧めします。

 37年4月最終号 最終号






 



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立原あゆみ「黄色い鳥」

 少しづつですが僕がここで何を整理しようとしていたのがかわかりかけてきました。
 その過程で記憶の底に引っかかっていたことが、まだまだ本当のことには届きそうもないですが、ひつとひとつその形を現してきてくれています。これもそのひとつです。

 「ある狩人が山で迷い、何年も彷徨っているうちにヒゲがボウボウとなり、クマのような容貌に変わってしまいました。ある日、彼がいつものように山を歩いていると、ひとりの狩人に遭遇します。彼は助けを求めようと近づいていきましたが狩人は銃口を向けます。そこで彼は必死に『おれは人間だ!』と叫ぶのですが狩人には通じず、ついには撃たれてしまいました。」

 この山月記の変身譚をモチーフにしたようなエピソードが誰かの童話だったのか、どこの小説でつかわれていたのかが思い出せずにいました。
 僕が部屋のリフォームをしている最中なのは以前に少し書きましが、その折、古書を箱詰めしている時に何気なく手にとった単行本にその答えを見つけたのです。
 
 立原あゆみ「黄色い鳥」 

 …小田星子が飼っていた小鳥の”黄色”がある日、突然行方不明になりました。星子は「まいご鳥」のビラをあちこちの街角に貼って歩きます。すると動物探偵団と名乗る人物から電話が入り、「黄色」が見つかったというのです。「駅前の例の場所で待ちます」の指示に従いそこへ行ってみると、田村葦の介という童話作家を志す青年が待っていました…。

 黄色い鳥00 (集英社、1978年初版)

 この物語の中で星子が葦の介に自分が創作した「かなしいクマ」という童話の案を冗談まじりに話します。この星子の素案が先刻取り上げました僕が「童話」だと思っていたものでした。

 黄色い鳥01 (13頁)
 
 主人公の星子を今風に言うのなら「ツンデレ」に分類されるのかもしれません。但し、そのツンデレには内包された傷が隠されています。
 立原あゆみは作中でそれを表立って描き出してはいませんが、「黄色」に対する心情や電話に寄せる期待、自分の言葉の裏側を自覚しつつも裏切られる怖さから乾いた目でみようとする挙作、それらを通して読者に伝えてきます。余計な登場人物を加えず、たったふたりだけで物語が進められるのもその効果をあげているのだと思います。

 黄色い鳥02 

 「青い鳥は幸せの鳥」だから「黄色い鳥は不幸せの鳥」。

 自分に訪れたささやかな喜びは「作られた場面」であり、それが終わったとしても「映画を観終わった」程度に感じようとする星子の痛々しさが、しっとりと全編に滲み込んでいるように感じられます。
 恋も喜びもすべては「ふり」に過ぎないと思い込むことでしか自分を支えられない弱さを取り繕うために「ドライな自分」を演じ続ける星子。

 期待しなければ裏切られない。愛も憎しみも、そのこと自体に関心を示さなれば通り過ぎることができます。愛憎は反意関係にあるのではなく同列のものです。
 心の中で、ある一定の許容量を超えた時に愛は憎しみに変わります。幸せと不幸せも同じことなのです。対象に関わろうとするからこそ生まれ出る感情なのです。無関心で居続けられれば、それらを感じずにすみますから。
 星子は必死にそれを守ろうとしていたのです。

 黄色い鳥03
 
 たぶん僕は当時、この作品を読んで「星子の哀れさ」だけしか感じていなかっただろうと思います。単なる「ほの悲しくさせる可哀そうな少女の物語」くらいに。

 そして僕は大切なことを思い出したのです。
 もうとうの昔に紛失したはずのこの本が、あの子から借りたままであったことを。







 

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つまらない話 … 蝶の恩返し?

 先日、とあるショッピングセンターの駐車場でコガネグモの巣にかかったアオスジアゲハを見つけました。蜘蛛の巣にどっぷりかかったというのではなく、羽の一部がひっかかって、糸付きのトンボ状態になっていました。しばらく眺めながら「外れそうで外れないもんだな。蜘蛛の糸って丈夫だな」とひとり感心しておりました。
 肝心の巣の主は力の限りに羽をバタつかせる蝶の勢いに圧されてか、それとも冷静に力の尽きるのをまっているのか、網の端でじっとしております。
 そろそろその場を離れようと思い立ち、ついっと駐車場から一時は出かけたのですが、なんとなくアオスジアゲハが不憫にも思えました。
 しかし、「巣落ちのヒナは触らない。小鹿がいくら可愛くてもライオンの狩りは邪魔しない。野の草は植え替えない」というのは自然の原則。
 今度は巣の近くまで行って「お前、自力でなんとかしろよ」と見上げながら励ましておりました。その中空をぼーっと眺める様は他人からはどう映ったことでしょう?目出度くも、子供の手を引く母親から「あっちを見たらダメよ」のお墨付きをいただいたかもしれません。
 いくらエールを送ろうとも糸は頑丈で、蝶は非力。そういうことで僕も掟破りの一手を出すことに決めました。
 けれども手で蜘蛛の巣を払うにはやや遠く、草むらに踏み入れば何とかなりはするのですが咲いている花を掻き分けて折るのも…。ということで、そばにあった背の高い雑草の茎を引き抜きまして、さらっと宙をひと撫でしたところ、あっさりと蝶は糸から離れ、彼方の空へとたちまち飛び去って行きました。
 
 その話を事務所の立木くんにしましたら「それじゃ、その蝶が恩返しにくるかもしれませんよ。美少女の姿をかりてきたりしたらどうします?」なんて、絵にもならない空言を繰り出します。
 「あのねぇ、立木くん。蝶が恩返しにくるのなら、蜘蛛が『俺の食料を奪いやがって』と恨みを言いに来る可能性のほうが高いんじゃないかな。ああみえても虫が蜘蛛の巣にかかる確率って低いんだよ。」
 「そうなんですか?」
 「あの巣の主だって何日も食べていないかもしれない。」
 「それがわかっててなんで助けたりしたんです?」
 そう言われてみればその通りです。で、ちょっと思い返して、はたと気づくものがありました。
 「アオスジアゲハだったからだよ。それからね、立木くん。あの蝶は雄だよ、たぶんね。」
 「どうしてわかるんです?」
 「さあ、どうしてだろうね?何となくかな。」
 「何となくですか…?まあ、そんなものかもしれませんね。」

 蝶が恩返しにくる可能性と蜘蛛がお礼参りにくる可能性とを量りにかければ、後者のほうが確率は高いでしょう。なにせ、蝶はひらひらと風に舞う妖精ですから。

 そして昨暁、眠れぬ中でぼやっとした夢を見ました。
 小学生の頃によく遊んだ林の中、野アケビや山芋の弦が絡み付く大きな桑の木がある開けた草地で、気持ちよさそうに飛ぶたくさんのアオスジアゲハ。
 夢のなかの僕はそれを見てこう思ったのです。

 「めずらしいから助けてあげたのに、こんなにいっぱいいるじゃんか。」

 でも、それで良いのです。そんなものなんですよ、おそらくは。
 
 アオスジアゲハ 写真:J-nature.jpより

 
 


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