窪川稲子「素足の娘」 ~ 劇場版「花咲くいろは」を観た夜に

 劇場版「花咲くいろは」を観て、昔のことをひとつ書いておきたいと思いました。

 「お兄ちゃん、つらそうだね」
 そのお婆さんは、自力で起きることもできない僕の顔を覗き込んで言った。薄眼をあけた僕はフォギーフィルターを通したようなぼんやりとした彼女の顔を見て「大丈夫ですよ」とだけ答えて目をつぶった。

 16歳の冬、僕は学校から帰宅するなり自分の部屋で倒れそのまま意識を失った。数週間前から体調は怪しかったのだが、ちょっとした疲れがたまっているのだろうくらいにしか思ってはいなかったし、食べたものを吐くのはストレスからくるもので僕にとってさして特別なことではなかった。
 だがこの日は違っていて歩行することも困難で、よく自宅に帰りつけたものだと思う。一歩ごとに眼前が歪み、嘔吐感と怠さから何度も路上に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
 結果、当時の国立習志野病院に救急搬送され、気づいた時には診察用ベッドに寝かされていた。なんのことはない単なる肝炎だったのだ。しかし医者は極めて固い口調で僕を叱りつけた。
 「こんなになるまで放っておいたら苦しいにきまってるだろが!まったく手遅れになったらどうするんだ。やせ我慢もほどほどにしろ。」
 とても医者とは思えない口調だった。しかし僕にはそれを不愉快に思う余裕はなく、ただ耳鳴りの向こうの音のようだったのを覚えている。
 「ああ、君、ベッド用意して。入院だよ、入院。どこでもいいから空いてるところにすぐ入れて!」
 そして僕は3日間だけ女性病棟に置かれることになった。

 入院当日はもちろんのこと、2日経っても変化のあろうはずはなく自力では体を起こすことも、食事を摂ることもできなかったし、口に入れたとしてもその場で吐き出してしまう状態だった。
 僕が臨時で押し込まれた病室は1人の少女を除きあとは高齢者の8人部屋だった。医者にしてみれば明らかに僕よりは彼女たちの方が深刻な病気を抱えていたのだろうが、彼女たちは入れ替わり立ち代わり僕の顔を覗き込みにきては声をかけていった。そして3日目の昼になって僕は個室に移動させられた。
 個室に移ってから2,3日経ったころだろうと思う。その頃には僕は少し体が楽にはなり、少々退屈を知り始めていた。そんな折、前の病室で最初に声をかけてくれたお婆さんがひょこっと入ってきた。
 「若いのに退屈でしょう。どう、少しは気分は良くなった?」
 「はい」
 お見舞いにきてもらうほど親しくもない彼女が何を目的にここに来たのか僕は訝しんだ。すると彼女は「あたしは入院している間に本をたくさん持ってきてたから読むかと思って」と切り出した。
 本…と聞いて僕は即座に反応した。
 「読書は好きです。ありがとうございます。」
 彼女は5冊の本をベッドの補助テーブルに並べた。
 佐多稲子「素足の娘」、司馬遼太郎「新撰組血風録」、池波正太郎「火の国の城」、水上勉「流れ公方記」、遠藤周作「ぐうたら社会学」。
 そしてその中から特に古びていた佐多稲子の一冊をとって「若いひとはこれからだから、この本なんてどうかしらね」と直に僕にそれを持たせた。
 お婆さんは若いころ出版社に勤めていて佐多稲子にも直接会ったことがあるらしかった。
 「たいした仕事もしていなかったんだけどね、本がすきだったから。それだけで入った会社だったけど、結局はお見合いをさせられて結婚して、2年足らずで辞めてしまったわ。もっとやらなくてはいけないこと、やりたいことも、あったはずなのにねぇ」と笑った。
 僕は「本をお借りします」と言ったが、彼女は「プレゼントするわ。気に入った本があったら大事にしてくれればいい」と目を細めて微笑んだ。僕は有り難くその本をいただき、彼女が部屋を出てすぐに読み始めた。

 素足の娘 箱 (装丁・佐藤敬、新潮社、昭和15年初版)

 …目覚めかけた私の耳に、雉の聲が入つてきた。 
 太い、威厳のある雉の聲であった。如何にも人に混つて、少なくとも人の歩くところをも悠々と歩いてゐるといふやうな雉の聲であつた。けれども雉の鳴聲のことだから重々しくはない。そとの明るい朝の光と、空の廣さとが分るやうな鳴聲であつた。
 -あゝ、違った土地へ來てゐた―
 と、私は急にその雉の聲ではつきり目が覺めた。…

 昨日、公開されたばかりの劇場版「花咲くいろは」を観に行った。
 映画の冒頭、緒花の母親・皐月がまだ高校生の頃、女将(緒花の祖母・四十万スイ)と喧嘩をして飛び出し、プールに飛び込むシーンで突然に「素足の娘」を思い出した。思い出したと言っても両者につながりがあるわけではない。

 映画のストーリーは、緒花が、連休限定で女将修行のため喜翆荘にやって来たライバル旅館の孫娘・和倉結名と物置を掃除していた際に、偶然、昔の業務日誌を見つけ、その中にあった母・皐月の言動を書きとめた伝六の一文を目にしたことから、緒花たちの現在と母たちの過去をフラッシュバックさせながら進行して行く。
 旅館、教師、板場それぞれの境遇と自分との間で常に闘いがある。その闘争は殴りあったりはしない。物理的に対立する暴力ではない。それだけに精神的に追い込まれることもある。
 希望と忍耐。叶えられる夢と願う夢との違い。「求める」と言うその切実な思いとそれを追う姿をテーマに掲げている。緒花には緒花の「輝きたい」と言う思いがあり、皐月には皐月の追いかけたい人の姿と夢があった。女将にも、菜子にも、民子にも。映画は丁寧にそれぞれが抱えている環境との戦う姿を描き出していた。
 登場人物個々のそれらは決して同じものではないけれど、同じ色をまとっていると思う。そして、何かを求めて成長しようとする過渡期の最も美しい姿もそこにまた同時に存在している。恐らくそんな印象が僕に「あのお婆さんのこと」と「素足の娘」を想起させたのだと思う。

 素足の娘・表紙 (装丁・佐藤敬、新潮社、昭和15年初版)

 「素足の娘」の主人公の少女は数えで15歳、満年齢で13歳である。貧しさから希望する女学校への進学もできず、家計の補助のため身にもつかない僅かな金銭のために手内職を強いられる。その中で「いつかは…」との思いが始終心を占め「場所が変われば新しい希望が生まれる」と胸を膨らませる。そんな折、瀬戸内の造船所で働く父に呼ばれて東京に祖母と叔母を残し単身で相生(おう)と言う港町へ赴く。そこでは今までの自分を知る者はなく、すべてが真っ白のなかから始まり、自分は自由を得て、少女らしい振る舞いを身に着け、恋をし、新しい自分を生きて行くことができる希望があった。
 しかし現実に用意された環境は彼女に更に別の足枷をつける。彼女が求める理想と環境との戦いは終わることがない。夢見がちな少女が身に起こった現実を受け入れて、それでも何かを求めて成長し行く姿には性別を超えた共感があると思う。僕は同じ世代にいる彼女の姿を思い描いて、この物語に没頭した。

 その文章も僕を惹きつけた。窪川稲子が描写する少女の最初の変化は、生理的な知識を持たない当時の僕にもすぐそれとわかる暗示的なものだったが、それは非常に繊細で詩情豊かだった。その記述だけでも僕には充分な価値があった。

 …目が覚めた瞬間、何かの反射作用のやうに、私は、丁度枕の上から目の向けられてゐる隣との境の襖の上に、ぱっと掌をひろげたくらゐの赤いものがにじむのを見たやうな氣がした。襖に赤いものが映つたのか、私の瞳の奥で赤い色が閃き、それを見たやうに感じたのか分らなかつた。丁度、ひどく頭を打つた時の瞳が靑い光を發するやうに、何か瞳孔自身が薄紅色をちらしたやうにも思へた。それは瞬間的なものだつたし、別に氣にとめたわけでもなかつた。…

 新天地で自分を可愛らしく見せたい、品良く思われたいと独りよがりの心の緊張を抱いていた彼女は、置かれた環境の中で次第に「人の、自分に對する取扱ひも敏感に讀みとつたけれど、また自分を、人の目で眺める習慣」を身に着けて行く。それは少女から若い女性へと移り変わる兆しだったのだと思う。 

 最終的に主人公は残して来た祖母たちの生活のため再び東京へ戻ることになる。しかし、そこにも彼女の人間性を無視した制度的な現実の壁が立ちはだかり、苦渋の生活を送る。それでも彼女は「何か」を懸命に求め続ける。

 …私は、しんしんと降りしきることで深い静けさへと引き込んでゆく雪に、激しい音を感じ、身内をほてらせてゐた。
 私を頼るやうな年寄りの表情にも私は何か言葉をかけねばならぬ、と思ひやり、明るい調子になつてしゃべり出すのであつた。
 「おばあさん、私がマンドリンなんて習つて、御苦労さまだと思つてゐるのでせうね。ごめんなさいさいね。だけど大丈夫よ。」
 「そりやァお前のしてゐることだから。」
 と祖母は私に合わせた返事をした。
 「いつまでもお稽古にいきやしないわ。少し弾けるやうになればいいの。楽しみなのよ。だつてねえ、仕方がないでせう、この位。だつて私、若いんですもの。」
 言ひながら自分で笑い出すと、祖母は彼女なりにその言葉を受けとつて、ほんたうにねえ、と濟まなさうに言ふのであつた。
 「ううん、そんな意味ぢゃないわ。」
 そんなこと覚悟してゐるのよ、と打ち消しながら、
 「今に、いいことあるでせう。」
 半ば、茶化すやうに言ひ放つた。が、その言葉には、年寄りを慰めながら、また自分の心の遥かな思ひも籠められてゐないことはないのであつた。
 ふと見上げると、街燈の周りに雪はぐるぐる廻るやうに落ちて、電柱も白くなつてゐた。
 「ひどい雪ね、大分積もるらしいわ。」
 気負いこんでさう言ふ私のはしゃいだ聲には、まだ子供が雪を珍しがるさういふ期待の響きがあるのだつた。
 「危ないわよ。」
 と、祖母にも言ひながら、私は自分の重くなった足駄をとんとんと蹴って雪をはじいた。…

 素足の娘・藤田嗣治装丁 (装丁・藤田嗣治、大泉書店、昭和22年初版)
 
 この最後の足駄の雪を払い落す主人公の姿に僕は彼女の希望を見たいと思う。重くなった雪を落としただけではなく、彼女の自由への手掛かりになるのだと信じたいと思った。
 「素足の娘」は窪川稲子の自伝的要素が強いと言われている。そこから遡行するなら彼女は自分の希望する未来をある程度手にいれたのかもしれない。しかし、作者は自伝とはしていないし、小説として書上げるに際して小説に相応しい組み立てをしているはず。やはりこれは結果から遡行すべきでない架空の物語なのだ。そう考えて改めて「花咲くいろは」に重ね合わせてみる。
 ヘンな話にはなるが、僕はこの「素足の娘」のなかの少女を「いろは」の舞台に投げ込んであげたかった。逆でもいい。緒花たちとの邂逅はきっと彼女に良い兆しをあたえるだろうと思うし、何よりも楽しいと思える毎日が訪れると信じる。そして「素足の娘」の生きる姿に世代を超えた共感を感じてくれるだろう。
 求めることの一途な美しさとかけがえのなさは当たり前に普遍である。僕にこの本をくれたお婆さんもそれを伝えようとしたのかもしれない。そして「気をつけなさい」と、若さは一瞬であるとの思いも込めて。
 
 菜子 押水菜子(劇場版「花咲くいろは」来場記念色紙)

 




 
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最近…ですね?

 「最近、無理してアップしてませんかぁ?」
 そう言われてドキリ。
 「がんばってアップしないと切れちゃうのもわかるんですけどねー」
 見透かされてる?
 「一度中断しちゃうとそのままになっちゃうんですよねー」
 ごめんなさい… そのとおりです…。

 昨年は秋以降、忙しいにかこつけて中断に近い状態になってしまいました。
 そこで今年は何とかひと月に4回以上更新しようと努力目標を決めました。
 週にたった一度ブログをアップすればいいだけの話なんですけど…
 これが意外と大変です、僕にとっては。
 本来、怠け者ですから倍以上書く気でいないとすぐに甘えてしまいます。
 始めた以上は放り出さない。
 やめる時はきちっとやめようと。
 だらだらと取り留めのない、役にも立つわけもない独り言のようにここまで書いてきました。
 自覚していたわけですから、改めて指摘されるとグサっとくるものがあります(ちょっとだけね)。
 でも、もう少し丁寧にやっていかないとダメだなー。
 
 「もうひとつ聞きたいんですけど、いいですかぁ?」
 どうぞ
 「普通の時と違う書き方してるじゃないですか?ブログって。あれって違ってないとダメなんですかぁ?」
 う~ん…

 確かに仕事で受けた時と全く違う書き方をしているけど、違ってないとダメかと言われると…、わからん…。
 書いている内容にも、書き方にも自信なんてもとよりないわけで。
 全部ダメダメといわれれば、その通りです。

 「本のことが相変わらず多いですよねー」
 だね
 「オチはともかく、感想ってやっぱり必要じゃないですかぁ?」
 必要かな?
 「あったほうがいいですよぉ」
 う~ん…、難しいなぁ…

 仕事で面白可笑しく書くことはあります。思っていることもいないことも書きます。仕事ですから。
 でも、それは本のためになっているのだろうか…、いつも思うんです。
 「嘆きの美女」の「耶居子」ではないけれど、冗談めいて揚げ足をとるのは簡単だし、その方が僕も楽ではあります。しかしね…。

 たとえば作者自身のことについて調べ上げて背景として添えればトピックとしては興味がわくかもしれません。
 でも読書って、作者の人間について評価をするわけでも、人間性にもとづいて作品を論評するわけでもないと思っています。
 あくまでも「作品」を読めばいいわけです。専門の研究者にでもなれば別ですけど。
 その「作品」の感想も僕の意見を羅列することで悪影響のでることの方が多いと思うんです。
 「そうだったのか」なんて思われてしまったら、その人の自由度を狭めてしまうことになりますよね。
 そういう意味では反感を持たれた方が建設的であるわけです。
 とすると中途半端な感想は書けないわけで僕の性格からすると論文のようになってしまいます。
 論文はいけない。あれは最悪。作品に喧嘩をうっているようなものです。
 もっと仲良くやらないと…。

 出来ることならどんな駄作であっても良いところを褒めたいと思っています。
 だって書く側は真剣そのものなんです。
 どんなにくだらないと思われる一頁でも心血を注ぎこんで書いているわけです。無責任に垂れ流されているわけではないですよね。
 出版にはお金もかかることですし…。
 作者も、編集者も、出版社もシビアな世界でものを見ているわけですから。
 生み出された作品には何かしら意味があるんです。
 たとえ全然ウケなくても。
 「私って生きている意味あるんでしょうか?」
 その問いかけほど辛いものはありません。それは作品も同じことなんですよね。

 その時々に自分の思いにあった童話やら、詩やら、小説を取り出せればいいなとそう思うだけです。
 しかし、取り上げた以上、何かのヒントにならないと意味がないと言われれば…。

 僕が小説とかを検索する時って、その物語の粗筋とか、文体を知りたい時の方が多いのです。
 誰かの感想を参考にすることはまったくと言っていいほどないです。感じ方は千差万別なので自分で読まないとわかりませんから。
 感想を書くくらいなら思い切って二次創作にしてしまった方がいいとも思っています。
 その方が「僕ならこうする!」って言う姿勢がはっきりしてくるでしょう?読む側がモトネタをわかっていれば尚更明確になります。
 ですから二次創作って好きなんです。読むのが。

 しかし、この機会にちょっと考えてみます。変えるか否かは別として考えることは必要ですね。
 
 これが今月最後の記事かも。
 
 だったら情けないな、と思いつつ。

 ちょっと休憩します。

 ちょっと、ね。




 
 
 
 


 
 
 
 
 

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柚木麻子「嘆きの美女」

 嘆きの美女 (朝日新聞出版、2011年初版)

 「嘆きの美女」と言うブログがある。管理者が日常の日記をあげたり、「美女のお悩みレスキュー」と題された掲示板では自他ともに認める美女たちがネット上に集いその悩みを打ち明けたりしている。
 小説の主人公・池田耶居子は個人ブログに「揚げ足取りのコメントを大量に残し炎上させたり、個人情報を調べ上げたり、嫌がらせのメッセージを送ったり、ヲチ板を立ち上げてののしること」が生きがいになっている女性である。当然「嘆きの美女」をターゲットとし荒らすことを日々の糧にしていた。しかしその糧がこともあろうに長いこと更新がされずにいる。しびれを切らした耶居子は掲示板の書き込みから美女たちのオフ会の場所と日取りを推測し現地へ向かうことに決めた。それは「コンビニとTUTAYAとマクドナルド以外」では一年半ぶりの外出であった。もちろん単なる好奇心からではない悪意満々である。ヲチ板に彼女たちの素顔を晒すことが目的であった。
 ところが、とかく偶然と言うものは恐ろしいもので、「嘆きの美女」の管理人を狙うストーカーと現場で居合わせてしまう。正体がばれ逃走する男と揉みあいになり、ストーカーの身柄を確保するも交通事故に巻き込まれ耶居子は大怪我を負ってしまう。意識をとりもどし我に返った時には、なんと「嘆きの美女」の管理人の自宅で介護され、しかも彼女は小学校時代の同級生で親友であった。
 ちょっと主人公のご紹介をさせていただこう。池田耶居子、25歳。顔にはチョコレートやスナック菓子を大量に食べるため吹き出物が一面にこびりついている。汗染みのできたシャツを着替えることなく纏い、髪を何日も洗わなくとも気にならない。少し歩いただけで息切れがするほど運動不足で体重は65キロをとっくに超えている。「耶居子じゃねえだろ、お前はジャイコだろ!」と小学生のころ言われたことから察するに成長した彼女をイメージするのはそう難くない。顔の吹き出物を潰して「白い脂肪を絞り出す」ことと、それから「嘆きの美女」を荒らすことが生きがいなのは述べたとおり。
 その耶居子が捕虜同然に美女の世話になり、「楽な場所から世界を恨んでいた」自分の姿を受け止め、妬みの底にあったものに気づき、次第に自分に相応しい道を求めはじめる。また耶居子と暮らすことによって美女たちも自分が現状に甘えていたことを自覚し、自分自身や周囲の視線と向き合うことを決意していく、という粗筋。

 単純に面白いです。読み始めて2時間ほどで一気読みができます。特に深く感動するということもありませんが、ところどころ共感を呼ぶところもあり、さりげなく織り込まれた冗句には知らず知らずに笑ってしまったりもします。
 いわゆる「自分発見」の物語ですがお膳立てされた綺麗ごとの羅列ではなく、陰にこもった事件が起こったりもします。耶居子が自分の道をみつけるにあたっても順風満帆に進むかというと、別のアクシデントと身から出た錆によって阻まれたりすることでアクセントが加わって、終盤にだらけることもないです。
 耶居子が自分を卑下して美女を妬むことから「アラシ」を生きがいとしていた点について、個人情報の露出はともかく、「嘆きの美女」の書き込みについては「揚げ足取り」であって「中傷」や「罵詈雑言」の類ではないことが、物語のキーになっています。つまり口汚く罵っているように見えても「的を外していない」ことが最終的な理解への橋渡しになっているんですね。
 ただ物語中の美女たちが言うほど耶居子の書き込みが酷いとは僕には思えません。悪意があるにしてはスマートすぎますね。書きこんでいる耶居子自身が無意識に自分の防御を考えているということを匂わせているのかもしれませんけど。寸分の同意も得られない批判は却って自分を窮地に追い込むことになりかねませんから、敵愾心をもつ側の代表に留めているのでしょう。
 まあいずれにしろ「アラシ」の書き込みに対して、現実には当事者からそんな風に好意的には解釈はされないでしょうが、そういうことがあっても良いのではないかとは思います。
 
 2011年に初版が発行され、2013年1月にはNHK・BSプレミアムで実写ドラマ化もされています。ドラマの方はまったく見ていませんのでコメントのしようがありませんが、原作は疲れた時の息抜きに読むのに丁度良いと思います。
 部屋を片付けるにあたってツンドクの山から出てきた本ですが楽しめました。現状の僕にとって良いタイミングの本でした。

 この本の教訓、節度あるアラシは相互理解の懸け橋になります。それを踏み外してしまうとツルハシになって道はボコボコです。







 

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桜、花、物狂い … 櫻の森の満開の下

 二十二、三歳の頃だったと思う。飛騨の高山に住む友人の叔父を彼と一緒に訪ねたことがあった。僕にとっては物見遊山のちょいとした旅行だったが、友人にはのっぴきならない事情が介在していたようだった。それは彼が僕に「ちょっと高山までの遣いにいくことになった。つきあってくれ」と言ってきたことから何となく察しられた。
 彼の叔父というのは非常に気の置けない人物で初見の僕をも手厚く歓待してくれた。またその家の三人の娘も気さくで感じの良い姉妹だった。
 友人の叔父は話好きなというとかなり遠慮した言い方になるが、その長話の尽きないところは一芸とも思えた。しかし不思議なことに僕はそれをさほど苦痛には感じなかったし、注がれるビールと話の洪水をぐいぐいと飲み干しているのが楽しくも感じられたのを覚えている。
 高山では、祭屋台会館で一台きりしか展示されていない祭屋台に少し失望を覚えたが、清峯寺、千光寺などを訪ね円空仏を見て歩いて溜飲を下げ、景観保存地区では御幣餅やみたらし団子を食べ歩いては酒屋で試飲を重ねた。
 3日目の朝だったか、前日に「明日は朝市へいくか」と彼の叔父が誘ってくれてはいたものの、当日夜更けまでのビールの歓待のおかげで僕が目覚めたのは太陽が天頂に近づきつつある時刻だった。僕は起き抜けに窓の障子を開けて外を眺めた。改めて見ているとここは随分と見晴らしの良い位置にあるらしいことがわかった。不図背後から襖越しに声がかかった。その家の次女が様子を見に来たらしい。
 「どうぞ」と言うとゆっくりと襖が開いた。
 「起きましたか?ご飯にしますか、それとも少し出ていらっしゃいます?」
 「あいつはどうしましたか?」
 「かっちゃんなら、父と素玄寺の墓所に行きましたけど」
 「そうですか」
 僕はまた窓の外を眺めた。かっちゃんというのは友人の愛称であるらしい。あの体躯の良い、がさつな容貌には相応しからぬ呼び名だなと思った。
 「あのう?」
 彼女の逡巡するような声に我に返り、僕はこう答えた。
 「少し出てきます」
 どこをどう歩いたかは覚えていない。どこかの寺の本堂裏から山道に出た。足もとは山の湿気に泥濘んだ土に革靴をとられ、思うよりも急勾配な上りに息が切れた。木の幹をつかみ、脇に飛び出している岩を握り、気づけば意固地になって登り続けていた。なぜあれほどに登ることに拘ったのか理由が見当たらない。必死に登るということが何もかもを忘れさせて、僕をそのことだけに夢中にさせたのかもしれない。
 両脇に門構えのようにして立つ幹に手を掛け、身を押し出すように上り詰めた先に見事な百日紅があった。真っ赤な花を一面に鮮血のごとくに散らし、それでもなお尽きることなく花を降らし続けていた。
 僕はその妖艶な赤にとらわれて樹の真下に立った。花は服に手に首筋に返り血のように降り敷き、手の甲に堕ちた花弁はまるでふつふつと毛穴から噴き出す僕自身の血のようでもあった。
 僕は不意に恐怖心に駆られて飛び退くようにして樹の支配下から逃れた。このままでは危うい、と何かがそう思わせたのだ。
 あの時の百日紅の印象は未だに鮮烈に残っている。時間の経過とともに思い出すごとに、まるで「なかった出来事」のように僕の中で陰惨な真紅を増し続けている。あれほどの百日紅にはもう出会えまいと思う。
 僕はこのことをその当時、別の友人が主催していた同人誌に書いたことがある。何度もの転居のために当該同人誌は紛失してしまったけれど、その結びにこう書いていたはず。
 「あれが桜でなくてよかったと思った。もし桜であったのなら僕の命はあそこでともに散ってしまったのではないかと思う。」
 
 咲き乱れる花の散る様を美しいと感じるのは人が主導権をもつ時だけだろう。たったひとりきりで花の支配下に迷い込んでしまったのなら、人は強烈な孤独に襲われ、耐えられなくなるかもしれない。咲く花は死のために咲き誇っているのだと、あの時、僕は感じた。花は孤独にあり、散る様は死の孤独そのものなのだと思う。そして僕がそれを感じるよりも遥か以前に、僕などよりも卓越した洞察をもって孤独と狂気を感じ取った人々がいた。

 観世元雅の作に「隅田川」と言う謡がある。満開の桜咲く隅田川を渡り、行き別れた我が子「梅若」を探す母のあわれを題材にしたものである。
 桜を渡る先から「南無阿弥陀仏」と読経が聞こえ、母はその声の行方の奥に我が子の姿を認める。その一節を書き出せば次のくだりである。

 シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏」
 子方「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 地  声の内より。幻に見えければ。
 シテ「あれは我が子か。」
 子方「母にてましますか」
 地  互に手に手を取りかはせば又消え消えとなり行けば。
   いよいよ思はます鏡。面影も幻も。
   見えつ隠れつする程に東雲の空も。
   ほのぼのと明け行けば跡絶えて。
   我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。
   しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれ、
   なるこそあはれなりけれ。

 母が我が子と信じたものは幻であり、気がつけば茫漠たる浅茅が原のみであったというもの。
 桜と狂女を扱った能は「桜川」もあるが、ここでは母は子と再会し幸福を得ることになる。狂女物は得てしてハッピーエンドになるものが多い。その中で、子の死と母の絶望を結末とする「隅田川」は異彩を放っている。

 桜と物狂いで異彩を放つと言えば坂口安吾の「櫻の森の満開の下」(短編集「いづこへ」に収録)もその代表である。純文学に馴染みのない人でもアニメ(僕はさほど出来が良いとは思わなかったが)にもなっているので巷間で作品名を知る人も多いと思う。

 いづこへ いづこへ(眞光社、昭和22年初版)

 鈴鹿峠を根城にする盗賊と首遊びをする美女を扱った短篇である。この物語中で盗賊の美に対する見識が語られる場面がある。

 …その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形に結ばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくしてひとつの美が成り立ち、その美に彼が満たされてゐる、それは疑る餘地がない、個として意味をもたない不完全な斷片が集まることによってひとつのものを完成する、その物を分解すれば無意味なる斷片に歸する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。…

 ここに言う「不完全な斷片」による集合の美こそが樹木の支配下にある孤独の美と対比されるべき人の妄執から生み出される虚飾の美ではないか。盲執の美は欲望の醜さそのものである。どれほど美しかろうと紛い物。紛い物の美は本性が暴露され滅びなければならない。また自然を畏れ、心を同じくするものは同化されねばならない。無関心な風景の一部として取り込まれねばならない。奥底にある本質を露わにされる場、満開の桜が有する人を狂わせる冷たい美しさの理由とは絶対的な美しさを前にして自身の無力さを悟らされることではないかと思う。それは自分の正体を顕にされる怯えが生み出すのかもしれない。

 後年、坂口安吾は随筆「明日は天気になれ」の「櫻の花ざかり」で自身が感じた不可解さについて述べている。

 …私の住んでるあたりはちょうど桜の咲いているときに空襲があって、一晩で焼け野原になつたあと、三十軒ばかり焼け残つたところに桜の木が二本、咲いた花をつけたままやつぱり焼け残っていたのが異様であった。
 すぐ近所の防空壕で人が死んでいるのを掘り出して、その木の下へ並べ、太陽がピカピカ照つていた。我々も当時は死人などには馴れきってしまつて、なんの感傷も起こらない。死人の方にはなんの感傷も起こらぬけれども、桜の花の方に気持ちがひつかかつて仕様がなかった。
 桜の花の下で死にたいと歌をよんだ人もあるが、およそそこでは人間が死ぬなどということが一顧にも価いすることではなかったのだ。焼死者を見ても焼鳥を見てると全く同じだけの無関心しか起こらない状態で、それは我々が焼死者を見なれたせいによるのではなくて、自分だって一時間後にはこうなるかもしれない。自分の代りに誰かがこうなつているだけで、自分もいずれはこんなものだという不逞な悟りから来ていたようである。別に悟るために苦心して悟つたわけではなく、現実がおのずから押しつけた不逞な悟りであった。…

 花は共に見る人がいてこそ温かみのある色として心にうつり、その花だけを風景から切り出せば自分だけが置き去られている冷たい印象が襲い掛かってくる。花は孤独に咲く。囀る小鳥にも鑑賞する人にも無関心で無関係である。それが死体であっても。
 咲き乱れる花以外は無意味に等しく、その無関心はあまりにも残酷に映える美しさを携えている。
 記憶を何に結びつけるかの問題なのだろうが、満開の花の下でひとりで居ることは気を狂わすに充分なものだ。無数とも思える満開の花は、同じく無数とも思える孤独の集まりなのだと、やはり僕は思う。
 
 明日は天気になれ 明日は天気になれ(池田書店、昭和30年初版) 












 

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せがわ真子「あこがれのウィング氏へ」

 単行本未収録となっている、せがわ真子さんのデビュー作「あこがれのウィング氏へ」を参考までに全頁掲載しようかと思います。デジカメなので画像が良くありませんが、あくまで参考ですので。

 掲載は昭和49年の「少女コミック1月13日号」です。
 連載陣は、上原きみこ「ロリィの青春」、田中みつえ「金の舞銀の舞」、牧野和子「あの娘はだあれ!?」、はぎおもと「モトちゃん」、竹宮恵子「ロンド・カプリチオーソ」などでした。
 巻頭ではフジテレビ系列で新年に放映予定になっていた「新春スターかくし芸」の予告が特ダネ記事として取り上げられており、芸能トピックスでは、西條秀樹とアグネス・チャンの対談、あのねのね、水沢あきのインタビュー記事が載っています。

 あこがれのウィング氏へ(表紙) P-0
 
 さて、「あこがれのウィング氏へ」ですが、ストーリーは、幼いころ近所に住んでいた3歳年上の男の子・矢沢翼(ウィング)を高校生になった今も思い続けている女の子・牧田桂が、10年ぶりに彼女が通う高校のテニス部の臨時コーチと部員として再会するというラブ・ストーリーです。

 あこがれのウィング氏へ1 P-1 あこがれのウィング氏へ2 P-2 あこがれのウィング氏へ3 P-3

 あこがれのウィング氏へ4 P-4 あこがれのウィング氏へ5 P-5 あこがれのウィング氏へ6 P-6

 あこがれのウィング氏へ7 P-7 あこがれのウィング氏へ8 P-8 あこがれのウィング氏へ9 P-9  

 あこがれのウィング氏へ10 P-10 あこがれのウィング氏へ11 P-11 あこがれのウィング氏へ12 P-12

 せがわ真子さんはそれほど多作ではありませんが、現在はレディースコミックへ場を移して活動を続けられています。

 わたしの守護天使 15の感動クライマックス平成23年10月号

 平成23年に発表された「わたしの守護天使」は、両親から「嘘をついてはいけない」と教えられ社会人になった今も素直にそれを守っている世渡り下手な女の子が、社内の人事アンケートに正直に回答したがため、今は廃墟となりつつある会社の別荘の管理を任されることになります。女社長自らがサポートするという言葉を信じて、共に現地へ赴きますがそのボロ家っぷりに驚く主人公。しかし、その家には駆けだしの建築設計家であった頃の社長のかけがえのない思い出がやどっていたのです…、という物語です。

 夢のなかの明日1 15の感動クライマックス平成24年秋号
 夢のなかの明日2 夢の中の明日 第2部&第3部

 昨年の秋に「15の感動クライマックス・スペシャル」で発表された「夢のなかの明日」は、3部構成129頁一挙掲載の作品です。前掲のコミカルな作品とは大きく異なり、一度も働きに出たことの無い、世間知らずの主婦が主人公となり、互いに尊重し理解しあえる愛のありかたに目覚めて行くという物語です。

 簡単にあらすじを追いますと、夫に合わせることに疑問を持たず、それが自身の幸せだと思っていた彼女が、通販詐欺にあって60万円の借金を背負います。それを夫に内緒で返済するためにアンティーク・ショップでアルバイトをすることになるのですが、そこで出会ったオーナーや近くのティー・ルームのマスターなどを通じて、今まで自覚していなかった自分らしさや相互理解の意味に悩み始めます。そして、自分を理解しようとしてくれる人、その人を理解しようとする自分に幸せをみいだせること、その思いが彼女に新しい一歩を踏み出させます…、という流れになっています。

 最近の少女漫画のレディース化に伴い、本家レディコミも過激というか、ひとつ間違えば下劣に堕ちてしまう風潮のなかで、安心して読める暖かさがあります。
 せがわ真子さんの近作は、人物の描写などの目に見える部分のみならず、扱う主題も時流と共に確かに変化しています。しかし、その変化は奇抜なものでも、急激なものでもありません。今も変わることなく、登場人物に対する眼差しの柔和さが感じられ、「花詩集」当時からの作風はまだ息づいていると思えます。それらを根底で守ることの難しさも進歩のひとつなのだと改めて感じました。

 これから生まれてくる作品への期待と共に、かつての作品群ももっと広く読まれて再評価されるべき作家であると僕は思います。出会いというものがもつ暖かさや、恋愛の中心がまだ恋へのあこがれにあった頃の純粋さを、僕たちは忘れてはいけないような気がするのです。今回、偶然に読み直す機会があったことを僕は心から良かったと思っています。












 

 

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せがわ真子「ときめいてパコ」

 「ときめいてパコ」

 ときめいてパコ1 第1巻(秋田書店、昭和57年11月初版)

 明るくてかわいいパコが中心の式部家に、ある日、父の友人の東山教授の息子・トキオが加わることになった。
「トキオはパコの婚約者だよ…」父の言葉にびっくりのパコだったが、何とそのトキオがパコの家に来る途中、交通事故で行方不明になってしまった。そんなときパコの前に現れたのがトキオそっくりの転入生・本荘卓巳(タク)…。ひと騒動のすえ、別人であることがわかったけれど、なぜか、もうひとつしっくりこないパコなのである…!?

「ときめいてパコ」の第2巻にある「あらすじ」をそのまま引用しました。ちょっと書き加えますと。パコのお父さんは化学者で新薬(未来薬)の開発研究をしています。パコとトキオは幼馴染であり7歳のころに、ままごと遊びで婚約者になりました。それを両親たちが真に受けて、東山教授の海外赴任を機に婚約者として同居することになったのです。

 ときめいてパコ2 第2巻&3巻(秋田書店、昭和58年3月&10月初版)

 せがわ真子さんは「小学生のころ、ジュニアSFと呼ばれる種類の話が大好きで、夢中になって読みました。スペース・オペラのように大宇宙に想像の域を拡げるのと異なり、これは舞台が私たちの身近な町であり、通っている学校。そして級友に未来人がいたり宇宙人がいたりする。主人公の少女は、少年に負けず劣らずりりしくて、活発で、冒険をしたり恋をしたり。今もわくわく想像にひたりつつ描いています」と、コミック化当時にコメントしています。
 宇宙船の事故によって散り散りになった仲間を探す宇宙人。その宇宙人に姿を写し取られたトキオ、パコの友人でライバル製薬会社令嬢の加納かおり、宇宙船の乗組員を統括している「マザー」、タクの同僚(宇宙人)の林信也(ノブ)、教授とよばれるインコ、ムーという名の小さな男の子が入り混じって、ラブ・ロマンスを本線に置き、集団洗脳事件や新薬開発の陰謀などが学園を舞台に展開されて行きます。

 これまでのせがわ真子さんの作品と異なるところは一話完結ではなく、連続しているということでしょう。初期設定を丁寧に保ちながら、トキオとタクの関係を少しずつ「記憶の遡行」をヒントに読者に開示していきます。また、人間との関係を嫌い、接触をさけていたタクが次第に「人間らしく」なっていく過程や、管理される生き方に疑問をもち自分の力を試そうとするノブ、あくまでも規律にしたがい彼らを統制しようとするマザーの対比が明確に表現されています。惜しむらくはラストでパコを救うマザーの心境の変化(迷い)を何らかの形で折り込めると良かったと思います。
 
 ときめいてパコ3 第4巻&5巻(秋田書店、昭和59年4月&6月初版)

 「ラブ・ストリート」の終盤で一人物に注目し連作短編形式でその変化を追う手法をとっていましたが、この作品で長編ストーリーでも力を発揮できることを示したと思います。ただやはり最終回のありかたですね。一足飛びというか…。読者によって見解はわかれるでしょうが、僕は今一歩納得できないものがありました。

 ちなみに第5巻には、「プリンセス昭和54年4月号」に掲載された「ロマンチックな火星人」(トット・シリーズ)と同じく昭和58年11月号に掲載された「青い鳥おっかけて」が収録されています。


 「びっくり・サラダノート」

 びっくり・サラダノート1 第1巻(秋田書店、昭和60年3月初版)

 「ときめいてパコ」で長編作品に才気をふるった作者が、また少し違った手法で連載にのぞんだ感じのする作品です。

 形式は一話完結ですが、主人公・茨木夏央の精神的な成長を追った物語です。

 物語の動機は少女漫画らしい突飛なものですし、主人公が下宿する先の三兄弟はいずれもスポーツ万能、かつ、眉目秀麗で女の子たちのアイドルという特徴的な設定は健在です。
 しかし、いままでの作品に見られたストーリーの進行の性急さが抑えられ、恋に対する感情をゆっくりと前後しながら主人公に気づかせるように描かれています。その分、せがわ作品にあったテンポの良さが失われた感じがしますが、全くそうではありません。むしろ幼い少女の憧れといった恋から、少しおとなに近付いた少女の恋へとその描き方が心理的な面で動から静へと変化しているように受け取れます。
 
 「手を加えて凝ったお料理もいいけれど、さまざまな素材が、洗われただけでそのまま、大皿に盛られたようなサラダが大好きです。さまざまな人と、いっしょになって過ごした中学から高校時代は、私にとってとても楽しいサラダ時代でした」と序にあるとおり、視点を絞った良さがでていると僕は思います。

 この作品で非常に残念なのが「未完」で中断されてしまったことでしょう。
 「第13話・スリラー・サマー」で夏央が「真実の恋」と「恋への憧れ」との違いに漠然とながらも気づきます。しかしそれがどうであれ、現在の自分は心から相手(彼)の幸せを願い、それが自分の幸せな気持ちにつながっているのだと自覚するところで終わっています。最終話があるようですが単行本未収録となっているようです。機会があるならば是非とも完全版で読みたい作品です。

 びっくり・サrダノート2 第2巻&3巻(秋田書店、昭和60年9月、昭和61年4月初版)
 


  -つづく?-



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せがわ真子「真夜中のアリス」

 「ラブ・ストリート」

 「わたしの卒業した、志苑学院は大学、高等部、2つの中学校、幼稚園からなる総合学院である。明治に設立されて以来、人格を尊重するキリスト教的自由自治教育を特色としてきた。
 中でも記憶に鮮やかなのは小高い丘の上にある高等部。門まで続く坂道はエンジュの樹の並木道。夏には涼しい木かげを作り、冬には暖かな日ざしをとおす。
 多くの歴代の高校生が未来を語り、恋に悩み、肩をならべて歩いた通学路。いつのころからかラブ・ストリートと呼ばれていた。」

 という主人公・槙本あいが尊崇する覆面作家・池端あおぎが「志苑学院通信」に寄稿した一文から物語はスタートします。
 月刊プリンセス誌上で昭和54年6月から昭和56年9月まで掲載され、せがわ真子さんの作品としては最長連載となりました。

 ラブストリート1 「1巻&2巻」(秋田書店、昭和55年1月・7月初版)

 巻頭の序で作者が「初めての街で出合う坂道には、心のときめきを覚えます。この坂道の先に何があるのか、坂の上に着くまでわからないから。そしてそれは、期待してものか、否か。作中では、ラブ・ストリートと呼ばれる坂道を、いろいろな人が、それぞれのペース、思いで、歩いて行くのを、主人公あいの目を通して描いてみました」と述べています。
 が、「坂道の物語」としてはあまり効果が出ていません。象徴としての坂道の取り扱いが弱すぎます。物語はもっぱら学院内、主に、あいと憧れの幼馴染・白鳥聖、不思議な隣人・高樹航が所属する剣道部を中心として動いていきます。そこに親友であり女優を目指す折原立子、家から離れ自身の力で将来を切り開こうする副主将の青山智文、祖父が決めた智文の婚約者・内海敬太郎らのレギュラーキャストが加わり、各話のゲストキャストの主題にそった物語が展開されています。
 
 ラブストリート1話&2話 「ラブストリート1話&2話」

 たとえば「二色の章」では、14年前の信州の事故で両親を失い、その際に行方不明になった弟を探して方々の施設を訪ね歩いている熱心なクリスチャンでもある倉橋元子が新任教師として着任します。彼女は「ワタル」という弟の名しか知らず、それが「航」と重なり、自分の弟ではないかと思い、そうではないとしても引き取って養育しよう決意します。しかしあいが保護し、航が手当した野犬のありかたを通じて、野のものは野におくのが自然であり愛情なのだと気付き、自己の負い目を償うために弟を追っていたことを心から悔い、呪縛から解放されてゆくと言う話です。あいと航、怪我をした野犬、そして倉橋元子とシスターとの交流が描かれています。

 ラブストリート2 「3巻&4巻」(昭和55年12月・56年5月初版)

 一話完結の欠点ともいえますが各話はどうしても展開に急ぎ過ぎの印象があります。最初から長期連載を視野に入れたシリーズ構成をしていればもっと奥のある物語になったと思います。一話積み上げ式で結果的に長期連載になったことから惜しい印象を強めてしまっていますね。当時の事情としてみれば仕方のないことではありますけど。

 ラブストリート3 「5巻&6巻」(昭和56年9月・11月初版)


 「ボビー・シャフト船出した」

 ボビー・シャフト船出した (昭和57年1月初版)

「わたしのお気に入り」の続編として描かれています。
 アーティの美しきおばさまミス・ファラ・ロークが独身でいる理由と待ち焦がれていた恋人ボビーとの再会、ウエディングまでをおった表題作と「幸福な家庭のつくりかた」。
 ボビーの養子ザザの冒険?とミス・ホックの恋の行方を描いた「ホープ・チェストにいれるのは」。テシーの幼馴染ケインの帰郷で揺れ動くテシーとアーティの話「りんごサラダの午後に」を収録しています。


 「真夜中のアリス」

 真夜中のアリス (昭和57年8月初版)

 「ひとみ創刊号」(昭和53年4月号)に掲載された「サウスウエスト62時間」に登場したサブ・キャラクターだったトット・アクエリアスを中心にした短篇3作「12月の魔法」「魔法くらべ」「真夜中のアリス」と「レディお手をどうぞ」を収録しています。
 「サウスウエスト62時」は単行本未収録となっていますが次にご紹介する「コミカル・ミステリー・ツアー」の第2部として再編されています。

 真夜中のアリス(本編)

 ところで、クリストファー・リーブ主演の「ある日どこかで」という映画を憶えておいででしょうか?タイムスリップを題材にしたラブ・ロマンスです。この「真夜中のアリス」も基本的には同じ路線の物語です。

 せがわ真子さんのストーリーの中心は美男美女が多いのですが、この作品では発明マニアでちょっとさえない男の子フェーブが主人公という点も好感がもてるかも。

 夏至祭の日、パートナーがいないフェーブはお祭りに参加する気もなく、町なかをぶらぶら歩いていました。すると目の前に一瞬、妖精と見まがう可愛い女の子が…。少女が去ったあと落ちていたペンダント拾ったフェーブはそれを届けようとあとを追いますが "A・Brown" と表札の下がった屋敷の前で見失います。「この家の子かな?」と思い佇むフェーブに向かってひとりの老女が「ここには盗めるものも女の子もいない」と言って彼を追い帰します。諦めきれないフェーブは塀を乗り越えて中へ入ろうとしますが、あやまって塀から落ちて、そのショックで気を失ってしまいます。女の子の声で目を覚ましたフェーブですが、目の前には先ほどの少女をそっくりの子がいました。彼は「あの子だ」と確信しますが、どこか話がかみ合いません。
 どうやらフェーブは庭師のこどもということになっていますし、トットのお祖父さんフランク・アクエリアスも信じられないくらいに若い、その他フェーブの知っている現実とはどこか微妙につじつまが合いません。それもそのはず彼は気を失った夢のなかでタイムスリップをしていたのです。
 夢の謎を解こうとするフェーブは45年前に自分と同名の男の子がいたことをつきとめます。そして、その男の子がアリス・ブラウンに思いを告げられなかったことを知り、どうにかしてそれを伝えようとするのですが…。

 この物語ではトットの手品はそれほど活躍しません。しかし、ラスト近くでの催眠術でフェーブを夢の世界にスリップさせるあたりは天才魔法少女?の面目躍如といったところでしょうか。

 良い話だと思います。作者自身も「とても気に入っている」と述べている通りに、せがわ真子さんの代表作に挙げても良い気がします。


 「コミカル・ミステリー・ツアー」

 コミカル・ミステリー・ツアー (昭和58年7月初版)

 先ほど触れたとおり「ひとみ創刊号」に掲載された「サウスウエスト62時間」を再編したものです。第一部「アパートの合いカギかします」、第二部「「サウスウエスト62時間」からなっています。
 街一番の資産家であるジョン・ジョージからその愛娘パトリシアと連名で一通のパーティの招待状がソル・グッドマンに届きます。単なるパーティの招待かと思いきや、やり手実業家のソルの母によって仕組まれた政略結婚を前提としたものであったのです。
 「安定した豊かな生活がつづくのが一番」であると世間を要領よく生きたいと願うソルは、あわよくばその政略結婚に乗ろうと足を運びますが、そこで出会ったパット嬢は想像していた女性とは大違い。しかしその物怖じしない自立心旺盛な少女に次第に惹かれていく自分を見つけます。そしてついにはふたりで駆け落ちをしてしまうのですが…。

 ソルの駆け落ち話だけではなく、第2部では次兄オリイのロマンスが主になります。
 オリイは本物のパトリシアとともにソルの住むカリフォルニアへ向かいますが、ジョン・ジョージ氏から愛娘誘拐の嫌疑で追われることに。しかも、列車内ではソルに良く似た某国のプリンスの皇位継承争いに巻き込まれます。危ないところをトット・アクエリアスに助けられたり、長兄のノーマンの機転で救われたりします。
 全体的にコメディ要素が強くでてはいますが、それほどドタバタ劇というわけではありません。トット・シリーズが好きな方には彼女の初登場の作品でもありますから楽しく読めると思います。





  ― つづく―




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せがわ真子「花詩集」

 先日、せがわ真子さんの「青春はラブ・40」をとりあげたのですが、僕の周りから「ほかのは?」と言う声があがりましたので何回かにわけて作品を取り上げることにします。

 「わたしのお気に入り」

 わたしのお気に入り (秋田書店、昭和52年初版)

 「青春はラブ・40」の第2巻が発行されたのが昭和52年2月28日です。同じ年の8月25日に、連作読み切り「わたしのお気に入り(全3話)」と短篇3作品「もみの木館10日目に」「わたしの恋した王子様」「エリカの小経を歩くなら」を収録した「わたしのお気に入り」が発行されました。
 この序には「短篇一作のつもりが登場人物すべてが気に入ってしまいポツポツ三作まで描きました」とあります。

 わたしのお気に入りPart2&3

 表題の「わたしのお気に入り」は、内面に女の子らしいセンチメンタルでナイーブな面を有しながら、スポーツ万能で男の子勝りのテシーと都会からのハンサム転校生アーティのラブストーリーを中心に、アーティの妹メーベルとその彼氏(ちょっぴり男の娘的な雰囲気を持つ)レジナの話を織り交ぜた作品です。


 「花詩集」

 花詩集1 (秋田書店、昭和52年・53年初版)

 「花詩集」は「月刊プリンセス」で昭和52年5月号から昭和54年2月号まで全22話が連載され、昭和52年12月30日に第一巻を発行以後、第四巻(昭和54年5月8日発行)まで発売されました。
 第一話冒頭には、僕がブログ(3月8日)でとりあげた川崎洋さんの「花」が引用されていたんですね。はっきり言って忘れていました。開いてみて「あれっ?」という感じでした。

 花詩集Part1 「Part1 かりん」

 各話のタイトルは、第10話、21話と最終回22話を除き植物の名前で統一されています。
 物語は、フラワーショップを営む「咲子」、幼馴染の「三四郎」、それに消息不明になった姉「かりん」の忘れ形見「くるみ」を中心にして、各タイトルをイメージしたキャラクターとストーリーで構成されています。中には少し無理があるかなと思える話もありますが、シリーズを通じて人情味の溢れるハッピーエンドになっています。
 
 花詩集Part5&10 「Part5 つゆくさ&Part10 いしのはな」

 僕がこれを読んでいたのはえらい遠い昔のことですが、意外に記憶に残っている話も多かったです。特に次の3話は非常によく記憶に残っていました。

 「Part5 つゆくさ」は、「三四郎」が所属する西校バスケット部のライバルである北校バスケット部のマネージャー「乙美」が「三四郎」に一目ぼれをし、「S.K様へ」と書いた手紙を渡してくれるように「くるみ」に頼みます。しかし、それがこともあろうに彼女が嫌っている北校随一のプレイボーイと評判のバスケ部キャプテンに誤配達されてしまうのです。なんと二人は「加賀三四郎」と「鹿島集」。イニシャルは同じ「S.K」だったのです…という粗筋です。この話で僕は友禅染の下絵に露草を使うと言うことを初めて知りました。

 「Part10 いしのはな」は、結婚を控えた姉が本心を隠したまま嫁ぐのではないかと思い込み、姉が憧れていた先輩に一目合わせようと奮闘する妹の姿を描いた話です。地味な話なのですがあの頃はこの回が気に入っていたんですよね。
 因みにタイトルの「石の花」は1933年にフランスのCARON社から発売された香水「Fleur de Rocaille」(フルール・ド・ロカイユ)のことです。スミレ、バラ、ライラック、ミモザ、ガーデニア、ジャスミンなどが基礎香料に使われています。

 せがわ真子さんは作中に香水や詩など多様な小道具を使います。そうした中のひとつですが、宮沢賢治の童話「ポラーノの広場」が背景に置かれている「Part12 つめくさ」も印象深かったです。

 Part12 つめくさ 「Part12 つめくさ」

 ケガをした迷子の子猫をひろった「くるみ」はその手当を終え、もといた場所に返しにいきます。その子猫の首のリボンに結びつけられた一篇の詩に興味を抱いた「巽」は「くるみ」とともに野原へ向かいます。そして、そこでひとりの少女に出会います。
 少女は二人を「ファザーロ」と「ミーロ」と呼び、暮れてきた野原に咲く詰め草の中に明りが灯り、その中から「5000という数字のつめくさをみつけたら、そこかポラーノの広場なの」と言います。少女のその不思議な雰囲気につられて一緒に探し始める「くるみ」。しかし受験に失敗し失意にある「巽」は夢を信じられない。ついには夢物語を信じ続ける彼女に向かって「いいかげんに目をさましらどうなんだ!!ポラーノの広場もなければ、ぼくもファザーロじゃない!時間が大切な浪人なんだ。何の悩みもないような君のお遊びにはつきあえない」との罵声を浴びせてしまいます…。

 ラストは少し切ない別れとなるのですが、そこには詰め草の小さな花にともるかのような希望が残されます。

 「巽」の「住みにくい世の中だけどそう捨てたもんでもないって思っただけさ」というセリフは思春期の小生意気な僕が受け売りで使うにはもってこいでした。

 そう、賢治の「ポラーノの広場」の最後にはこんな歌がおかれています。

 つめくさ灯ともす 夜のひろば
 むかしのラルゴを うたいかわし
 雲をもどよもし  夜風にわすれて
 とりいれまぢかに 年ようれぬ

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに  ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつつ
 はえある世界を  ともにつくらん

 花詩集3巻&4巻 「3巻・4巻」(秋田書店、昭和53年・54年初版)

 印象に残っていなかったのが意外にも最終回ですね。
 結果は覚えていたのですけど、どういう流れだったのか全く思い出せませんでした。改めて読んでみると覚えていなかったのも納得してしまうほどの性急な展開。
 21話と最終回22話は残念なできだなと思います。無理して結末を作らなくてもよかったのではないかと思います。「これからも続いていきます」的な終わり方のほうが良かったかもしれないですね。

 Part22 百花香 最終回「Part22 百花香」



   - つづく - 





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ことば

 ここのところ風の強い日が続きますね。
 昨日は穏やかな日ではありましたが、先だっては強風にプラスして塵霞で空が煙り、晴れているはずのなのに一日中夕暮れのようでした。埃っぽい空を見ながら雨が恋しいと思った一日でした。
 
 ところで昨日、某中学校で「詩を読む」という企画がありました。知人がそこの文芸部で顧問をしており、お誘いを受けましたので少しだけ拝聴させていただきました。最後まではいられなかったのですけど、皆さん、非常に情感を込めて朗読していました。

 詩を読むというのは考えてみれば難しいものですね。
 まず第一に詩自体に言葉が足りない。解釈の余地がありすぎて作品によっては雲をつかむようなことになってしまいます。
 また漢詩のようなものから現代詩まで形式も多様です。更には詩自体に意味がなく、ことばのリズムを味わわせるものもあります。かと思えば掌篇小説にも似た散文詩もありますよね。しかもそのどれもが字足らずときています。

 詩はことばを推敲に推敲を重ねて最小限に削り落としていきます。その最小限が二行のこともあれば、五百行のこともあります。あくまで詩人が推敲した結果ですから外部からその適正を図るのは不可能です。小説のようにオチもありませんので。
 
 朗読は解釈だけではできません。朗読する側がその作品を心から好きではないと何も伝わらないのです。そのために作品を何度も何度も熟読し、ことばについて考え、感動そのものについて考え、自分のなかで「あるかたち」を創り上げ、その結果が朗読を通じて鑑賞する側に伝わってきます。

 彼女たちの朗読する作品を振り返って、朗読会とは全く別の事を考えていました。ことばって難しいものだな、と切に思っていたのです。

 詩についてはいずれまとまった機会をつくろうかと思っています。今日は二作だけご紹介しておきます。


 「くずの花 」 田中冬二
 
 ぢぢぃと ばばぁが
 だまつて 湯にはひつてゐる
 山の湯のくずの花
 山の湯のくずの花


 「あめの日」 八木重吉

 しろい きのこ
 きいろい きのこ
 あめの日
 しづかな日


 二作ともあまりに短い作品です。しかし読み返すごとに、この静けさは何たることだろうと僕は信じられない気がします。

 「くずの花」では、ひと組の老夫婦が描き出されています。昔の恋を生き抜いて今日の歳月に至り、様々な柵を日常に負うているはずの老夫婦です。今は、争いも焦りも不安もなく自然な姿で湯につかっています。そして、湯に流れ来る葛の花。なんという平和な静けさでしょう。日常を離れて温泉につかっている安息そのものがここに感じられませんか?

 「あめの日」では、霧雨の中、作者の目にとまった小さなきのこが主役です。雨にあらわれて艶やかにその色をきらめかせて、ひっそりと山野の土に生きている姿。その静かな美しさとともに、またそれに気づいてしまう作者の微かな孤独が見えてくるようです。

 この小さな世界には、他人の美衣を借りてきたようなものではない、作者自身のことばがあります。
 百行の美辞麗句が、ほんの数行の純粋さに劣ることもあるのです。





 

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せがわ真子「青春はラブ・40」

 記憶というものはかなりいい加減なもので、自分で思っているほどの正確さはないものです。僕は記憶力には自信があるほうだと思っているのですが、思っているだけでその実は間違いだらけです。今回はそれを思い知らされた感があります。
 というのもこのブログを書き始めて間もない時ですが室生犀星の「信濃」を取り上げたことがあります。その日記を書き終わってから「そういえば、この詩を引用していた少女漫画があったな?」と思い出しました。しかし思い出したのはそこまでで、作者、題名、掲載誌などは皆目思い出せず、ただ単に「榊原先輩」というキャラクター名と、見開きでその「榊原先輩」が雪の降る中、掌でそれを受け止めつつ暗唱するシーンであったような印象のみでした。
 先ずはインターネットで「室生犀星 信濃 引用 少女漫画 昭和 榊原先輩 etc」のワードを検索しましたが出てきません。
 一度心にひっかかると探してみたくなるのが人の常。ことあるごとに気にかけては探しました。記憶をフルに回転させ、連載が終わったのが昭和57年か、56年頃ではないかとか。当時、僕が購入していた「花とゆめ」「少女マーガレット」「少女コミック」「少女フレンド」「りぼん」「なかよし」「ララ」などの連載陣を調べましたが出てこないんです。で、昭和53年まで遡りました。
 記憶にある絵の印象から佐藤真樹、高橋千鶴、あさぎり夕、文月今日子、神名幸子その他の作家の作品をあたりましたが見つからないんです…。
 周囲の人にも訊きまくりました。「恋愛漫画で信濃のでてくるやつ、知らない?」と。だけれど僕の説明の悪さと記憶の曖昧さのせいで見つかりません。ほとほと諦めかけた頃、震災でひっくり返ったままの書斎をそろそろ片付けようと整理していましたら、ありました。見つけました。灯台もと暗しとはよく言ったものです。青い鳥は自宅に居たんです。もう躍り上がるほど嬉しかったです。それが、せがわ真子さんの「青春はラブ・40(フォーティ)」でした。わかるまでに随分と時間がかかったものです。最初から片付けていれば簡単なことだったんですよね…。

 青春はラブ40-00 (秋田書店、昭和51年&52年初版)

 で、記憶のいい加減さですが、掲載誌自体がそもそも間違いでした。掲載は「プリンセス」です。しかも連載期間は昭和51年から52年。僕が思っていた昭和56~7年とは遡ること4年の隔たりがありました。つまり僕が買っていた雑誌ではなく姉が買っていたんですね。これは盲点でした。自分で買っていたとすっかり思い込んでいたのですから。

 昭和51、2年といえば、左翼活動家の放火により平安神宮の本殿が全焼するという事件があったり、かのロッキード事件で、小佐野賢次、児玉誉士夫、さらには田中角栄元総理大臣が逮捕され、「記憶にございません」の流行語まで生み出した時期であります。
 鹿児島の五つ子ちゃんの誕生、キャンデーズの「普通の女の子にもどりたい」宣言があったり、芸能界マリファナ汚染事件で有名芸能人が続々と逮捕されたり、王貞治選手が通算756号ホームランで世界記録を更新したのもこの頃のことでしたね。
 街なかでは「およげ!たいやきくん」と「山口さんちのツトムくん」がこれでもか!というくらいに流れていました。

 漫画の話にもどります。
 この作品がせがわ真子の初連載作品で、原作は「サインはV」「ドッキリ仮面」「花の子ルンルン」などを世に送り出した神保史郎でした。

 ストーリーは、テニス部キャプテン「榊原良」に憧れる「水村美々」の片思いのお話。
 テニス部に入りたいと思いつつ、持ち前の運動神経のなさと好きな人に自分のドジを見られたくないことから「茶道部」の入部申込みをしたのですが、間違えて隣の机の「テニス部」に申込みをしてしまったというところから話はスタートします。

 青春はラブ40-第1章
 
 タイトルと「テニス部」というところからスポ根漫画と思いきや、ほとんど関係はありません。あくまでも中心は美々の片思いと二人の兄や幼馴染の柏木比呂機、同級生の響江里子、早見玲奈などのラブロマンスです。
 主人公は、勉強はちょっと苦手で、運動は更にもっと苦手、思い込みが激しく、誰にでも優しくて、誰かを疑うこととは凡そ無縁なお人好しで、泣き虫のドジっ子、何事にも一生懸命というパーフェクトな女の子です。
 その美々が偶然に知った長兄・一也と良の美しき従姉・雪枝との恋の成就に大活躍するのですが、それが結果として憧れの人・榊原良を失恋させてしまうことになります。
 全10回という短い連載のわりに登場人物が多く、サイド・ストーリーも豊富に組まれています。豊富すぎて元天才テニスプレーヤー・日下卓平と良とのエピソードについては中途半端な感じがあります。これが少し残念。
 しかし全体的にはよく出来ています。非常に繊細で人物も個性が生きているし、各エピソードも落ち着き先がきちんと用意されています。
 また台詞もよくこなれています。例えば、テニス部の入部テストで失敗をくりかえした美々がなぜか他の人を差し置いて合格します。その理由を顧問の谷真介が「ライン引きがうまいものはテニスがうまくなる」と後日説明するですが、何となく説得力がありますよね?当時、そんなジンクスが本当にあるのだと信じたことなど思い出されました。

 この作品、今回のことで三十ウン年ぶりに改めて全体を読み返したのですが物語のピュアさに胸がジーンときました。
 
 さて、肝心の室生犀星の「信濃」ですが、引用されていたのは2度でした。
 最初は(といっても最終回の手前ですが)、第9章「お兄ちゃんのラブストーリー(その2)」の冒頭で、ヒロくん(柏木比呂機)が美々に現国を教えているというシュチュエーションでの朗読で、全文が掲載されています。

 青春はラブ40-第9章

 そして僕のでたらめな記憶の中にあったのが同じ章のラストシーン。
 一也が描いた肖像画を「雪枝だよ。奈都子じゃなく、今、目の前の生きている雪枝だよ」と雪枝に渡す場面を見守る良と美々。そして「ほんとうにすてきなひとだね、お兄さん。とてもかなわない」と美々に告げた後、良は降り積む雪を見上げて詩の一節を詠唱します。見開きではなく1ページ、しかも片側縦抜きのコマでした。

 青春はラブ40-第9章ラスト

 記憶がいかに曖昧なものか、ちょっとヒヤっとしました。調べられてよかったなと胸をなでおろしています。これを記憶頼みで書いてしまっていたら嘘八百の殿堂入りにチェックが入るところでした。

 俳人であり、随筆家でもありました金子晋さんが「僕は知らないことは書かないことにしているんですよ」とおっしゃっていましたが、まったくその通りです。

 「知らないことは書かない!」

 非常に大切なことです。以後、肝に銘じて忘れないようにします。



 
 

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カーブの先に

 今日、仕事の途中、とぼとぼと歩きながらふいっと横道に逸れてみました。いつもは歩かない路地なのだけれど何となく陽気もよかったので。
 風もなく日差しも柔らかく、住宅地だというのに人影もなく、枝葉の間に立ち寄っている鳥の声さえ耳元で聞こえるような静かさでした。それでも立ち止まってみると微かに遠く学校でしょうか、こどもたちの声が聞こえます。
 この先には何があるのだろうと歩を進めて行くと、わずかに下ってゆく左にカーブをとった坂道がありました。両側を住宅のブロックに挟まれたその道は、思っていたよりも急な曲線を描いていて、カーブを抜けた先が高台になっていることを突然として僕に知らせました。そして、その曲線の終りを腕で覆うかのように枝垂れ梅が咲いていたのです。
 僕は自分自身の狭隘な生活圏の中ですらこうして知らないことと出会うのです。知っているものは存外に少ないのだと、もっと歩かなくてはいけないのだと、そう感じました。変化がないと思いこむのは僕自身がそれを知ろうとする努力を怠っているからなのです。

 そして、その花の下を通り抜けながら僕は一篇の詩を思い浮かべました。

 花の名だけは知っていても
 花そのものは知らない
 そんな花があります

 愛という字は
 よく知っているのですが
 そして
 愛そのものも
 知っているつもりだけれど
 
 降るような花の下を行くと
 いったい 
 何を知っているのか
 と 急に思います 

 ― 川崎洋「花」(詩集「象」より)

 もう直に桜も咲き始めるでしょう。そうすれば僕の事務所がある辺りは薄紅の霞が立つような景色に覆われるはずなのです。

 川崎洋「象」
 (川崎洋「象」、思潮社、1976年初版)





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素 九鬼子「パーマネントブルー」

 「パーマネントブルー 八月のいろ ぼくのこころ」

 パーマネントブルー (筑摩書房、昭和49年初版)

 「旅の重さ」に続く素九鬼子の2作目の長編小説となります。
 瀬戸内海に面した四国の港町を舞台にした恋愛小説です。前作に続き松竹が昭和51年に映画化しています。

 過激派のメンバーとして警察に追われ逃げてきた女子大生に対して、不良少年の心に生まれた憧れと恋愛が破局するまでを追っています。もっともこの二人の関係を単純に恋愛と呼べるかどうかは検討の余地があります。全体としては少年らしい憧れと気負いのようなものに重点が置かれている作品です。
  
 物語は少年が女を拾うところからはじまります。

 「島のかえりのことだった。天から降ってわいたみたいなひとりの女にでくわした。海辺の砂に腹這いになっているその女をみつけたときにはそれこそどきりとした。てっきり死んでいるのものとおもった。髪は砂まみれで風にふかれていた。手足は砂にめりこんでいる。はなれたところからみると、まるで波にうちあげられたどざえ門だった。近づいてゆくと、女はむっくりおきあがった。よごれたくろい顔が、ぼくを見た。ぎょっとした。若い女だった。」

 この小説、少年の独白を中心としており、ほとんどが「ひらがな」で書かれています。恐らく作者は少年の未成熟や純粋さを表現したかったのだと思いますが、ひらがなと漢字で表記される個所のバランスが合っていないように思え、効果はそれほど出ていないようです。たとえば、過激派でインテリの女子大生という設定の中での女との会話では、女の言葉もひらがな表記に付き合わされてしまっています。その点を本能とか、性欲などのデフォルメをイメージしているのだとしても、またすべてが少年の独白の延長にあり「実際」ではないとしても、いずれにしろ違和感を残します。読者によっては読みにくさを感じさせる手法です。

 物語としては少年がいままで身近にはいなかったタイプの女性に興味を抱き、好奇心が憧れへと変化し、それを守ろうとする意思が生まれてゆく過程が丁寧に書かれています。
 相手にうまく伝えることができない少年の朴訥さ。女の心の底に入りこむことができず、ただ単にその身辺で感情を縺れさせ暴れまわるだけである少年の現実。そのことに対する苛立ちなどもよく伝わってきます。

 作品は2部構成になっており、前半は少年が女と出会い、自分の父親が経営する安宿で働けるようにし、複雑な感情を意識し始めるまでを描き、その章末は次のように引かれています。

 …胸がぬれてきた。やっと風がでてきた。夜つゆのおりた草むらに、ひとつ、またひとつ、蛍があらわれた。やがてかぞえきれないくらいにみえてきた。遠く近く、たかく、ひくく、流れ星みたいに、星くずみたいにみえてきた。
 だんだんその火がぼやけてくる。いつのまにか、ぼくも声をださずにないていたんだ。

 ここでふたりが見た安らぎや憧れの象徴としての蛍の「火」は、物語の終盤で女が見る「火」と対比されることになります。

 第2部はふたりで島へわたり、そこで女を守ろうとする少年の姿を通じて破局までを追っています。
 島での生活は現実離れをしています。現実に不可能という意味ではなく、生活を守るという点において不可能だということです。それはふたりの甘えとエゴから生じ、夢の延長上にある本能的な生活に堕ちて行く過程を描きます。それでも少年にとっては憧憬は限りなく恋愛に重なっているのです。

 …はっきりとちがってきたことがあった。ふたりでいると、自然のありとあらゆることが、これまでみたこともなかったようなもののようにうつってきた。すべてのものがうつくしく新鮮にかんじられてきた。ぼくらは山の上の墓地に行って、そこから村の風景を沖の風景を、あかずにながめた。
 雲のながれに、ぼくらはみとれた。海の青さに、ぼくらは目をみはった。しお風の音に、沈む太陽に、ぼくらはなみだぐんでいた。みんなはじめてのようにみずみずしかった。ほんの小さな鳥のさえずりにさえ、ぼくらは耳をすましていた。ぼくらは魔法をかけられていたんだ。ふしぎの国にまよいこんでいたんだ。
 一日の終りには、ぼくらはまるで汗水たらして働いたあとのようにぐったりしていた。…

 物語の其処此処から夏の漁港らしい臭気が漂ってきます。夏の激しさ、息苦しさ、夏ゆえの狂気、一陣の風がもたらす安らぎ。そういったもの全てが少年期の純粋さであるかのようです。
 ひと夏が少年にかけた魔法だったのでしょう。そしてそれは少年の目覚めを待ちます。童話を読み終えた感のある作品です。

 …もえる青い海だった。沖の漁船がくゆってみえる。船の男がバッタみたいにはねている。あれは、夏の終りの、光線のいたずらなのだ。海はまるで、春先のかげろうみたいにゆらゆらもえている ― 。

 「パーマンネント・ブルー」とは「永遠に褪せることの無い青」です。


 

 
 

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Let's Go 痛車!! その2

 痛車のつづきです。

 そういえば当日(10月7日)は朝から雨だったんですよね。午後は晴れ間がさしましたけど。
 薄暗い空にひときわ目立つ痛車がありました。「ひぐらしの鳴く頃に」です。
 ひぐらし2 ひぐらし3 ひぐらし4
 覗くのが怖い…。過去最大級の「ひぐらし」を追求した痛車ではないかと…。 
 ひぐらし1 隠しごと…あります m(_ _)m

 怖い車から離れて爽やかにいきましょう。

 ARIAとAIRです。
 ARIA2 ARIA1
 パドルは普段はどうしているんでしょうねー?
 個人的にAIRは好きなんですよ。
 AIR1 AIR2 AIR3
 往人が無駄に爽やか、です。
 AIR4 AIR3 AIR6
 這寄る混沌、、、。
 ニャルコ1 ニャルコ2
 AIR6 ←因みに腕はワイパーです。動きます。
 お次は可愛い車。
 エスパーマミ1 エスパーマミ2 お部屋1 お部屋2
 偽物語も人気でした。
 偽物13351-04 偽物13351-03
 下田では、時々、女子高生が空を飛ぶらしい、です。 
 夏色1 夏色2
 前のときは「REWRITE」は少なかったのですが、今回は大健闘していました。 
 リライト1 リライト2
 「まどマギ」と「ブラック・ロック・シューター」です。
 まどまぎ BRS
 東方は強いです。
 東方1 東方2 東方3
 「星空に架ける橋」と「ワレキューレ・ロマンツェ」です。
 星空 少女騎士
 劇場版も頑張っていましたね。「ストライク・ウイッチーズ」です。
 ストウィ1 ストウィ2
 印象に残った痛車をどんどん行きます。
 シュタゲ RIMG1075 RIMG1068 RIMG1065

 R0013284 ブルドーザー パトカー RIMG1042

 痛車オーナー代表の弁。
 「本人も充分に反省しております。」
 反省しています

 当日の「おまけ」
 ガンダム花人形

 今年のGWもやるんですかね?痛Gフェス。
 楽しみにしています。






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Let's Go 痛車!! その1

 ようやっと昨年の「秋の痛Gフェスタ」の写真を整理しました。と言ってもまだまだあるんですけど…ね。コメントは手抜きして、とりあえず写真のアップいきます。

 痛チャリと痛単車からいってみよう!

 トップは「準備中!」です。オーナーさん、この次には間に合わせてくださいね。待ってます。
 準備中 バカテス まどマギ
 イタンシャ01 イタンシャ02 イタンシャ03

 ↓は実用チャリですか?見事すぎて溜息しかでません。
 イタンシャ04 イタンシャ05

 痛車でカイトって珍しくないですか?
 イタンシャ06 イタンシャ07 カイト

 次は「シンプル痛車」です。
 僕はモノトーンの痛車って好きなんですよね。好きなものが純粋に出てくる感じしませんか?
 イタシャ01 Bad Apple

 シックなところがルカの印象にあってると思います。
 巡音ルカ02 みなみけ

 お隣さんは個性の塊ですが…、大丈夫、消えていません。ちゃんと気づきましたよ、薄子さん。
 色素薄子さん 化物語

 人類は衰退しても金は不滅ですよ。エレガントさも。そのお車なら友達はきっとできます!
 人衰1146 はがない

 次は「爽やか痛車」です。目に鮮やかな青春の爽やかさです。
 RIMG1016 RIMG1066 RIMG1115

 そういえば昔使っていたスリーブケースがデジキャラットでした。
 シャナ デジキャラ ナディア

 ちなみに、僕の携帯の待ち受けは、現在「らきすた」です。
 らきすた ああ、女神様01 ああ、女神様02

 僕にもお手紙ください…。
 ラブプラス01 ラブプラス02 ひだまり

 一日に2つも記事をあげられるなんて僕としては画期的です。で、痛車ですが「その2」に続きます。次もコメントは手抜きでいきます(すみません)。







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佐々木丸美「雪の断章」

 「私はやっぱり雪がうらやましい。短くてもいいから雪に生まれたいと思った。雪に生まれたかった。」

 雪の断章S50 (講談社、昭和50年版)

 佐々木丸美という作家を意識して手に取ったわけではありませんでした。この装丁に描かれている絵に惹かれてのものでした。装画を受け持ったのは味戸ケイコです(元版、復刻版とも)。言葉では言い表せない不安感を漂わせた絵でした。内容を確かめもしなかったのです。ですから、この本を読み始めたのは購入してから一年以上も経ってからのことでした。

 マルシャークの童話「森は生きている」を背景に置いてこの小説は進んでいきます。
 5歳の倉折飛鳥は孤児院の先生とはぐれ、ひとり三丁目のベンチに腰かけていました。心細さが募り始めた頃、ひとりの男性が声をかけてきました。

 …私の足もとに鳩がよってきた。しばらく一緒に遊んだけれど急に飛び去ってしまった。淋しさと不安がつきあげた。先生はまだ私がいなくなったことを知らないのだろうか。このまま夜になったらどうしよう。坐っている自分の影がさっきより大きくなったと思った。
 「どうしたの?」
 ハッとして顔をあげると若い男の人が立っていた…

 これが滝杷拓也との最初の出会いでした。

 飛鳥は拓也に引き取られ育てられた恩ゆえに「…たとえ一瞬の夢にせよ私がそれを望むのは拓也さんへの冒涜をすることになる。恩人であり親でありあらゆる尊敬の象徴に向かってかりそめにも結婚などと考えてはならないのだ」と一切の恋愛感情を封印し複雑な思春期を寡黙であることを心の盾として過ごします。
 拓也も血の繋がらない女の子を育てるということへの大義のため自制を強いられ兄としての距離を保つことに苦心します。
 何事もなければより理解しあえるはずの二人は孤児と養父という不自然さの中で感情を募らせたまま、それぞれの幸せを願い思いやるがゆえに堅固な壁を築いてしまうのです。そして、その二人を追い詰めようとするかのように様々な事件がおこります。

 物語はミステリーの要素を含んではいますが、全体を通しているのは恋愛ファンタジーと言ってもいいでしょう。
 飛鳥はわずか7歳で孤児院から本岡家にメイド代わりに引き取られ、そこで狭いながらも資本主義社会の苦渋を味わいます。
 或る日、本岡家の長女・奈津子との諍いから冬の夕闇のなかへ飛び出し、あの日と同じ三丁目のベンチに腰かけていました。そこへ運命の配剤であるかのように三度目の滝杷拓也との出会いがあり、以後は彼と暮らすことになります。
 成長していく飛鳥は幼いころに本岡家で受けた富と権力の理不尽さを心の傷として持ち続けます。それは彼女の生きるための負の指針とも言えました。

 雪の断章H18 (ブッキング、2007年版)

 ストーリーにはいくつかの欠陥もあります。
 たとえば鑑識の甘さ。僕は法学を学び、法医学や鑑識法も役に立たない程度に少しかじりました。その中で幸いだったのは実際に現場に携わる人からのお話を伺う機会をいただけたことです。事件現場の、それも殺人の疑いがある場合には尚更に鑑識の捜査は非常に緻密なものになります。眼に映る家具、食器類から床下、サッシの隅にある埃までもが対象になります。物語中にあるような「見落とし」は考えられないと言えます。
 次に青酸カリについてですが、青酸カリウム(シアン化カリウム)は水や酸に溶けることで特徴的な臭気を発生させます。それがシアン化水素であり、そのガスが人体に非常に有毒なのです。探偵小説などでよく使用される薬剤ですが、その取扱い方に誤解があるようです。作中に使われる時はその性質をもう少し調べられたほうが良い気がします。
 ほかにもいくつかありますがそれらの欠陥はこの物語においては些末なことです。気が付かなければ良いことですし、気づいても無視できるほどの魅力があります。
 物語の主点は飛鳥の成長であり、人が生きていくための指針のありかたであり、恋愛のかたちなのです。作者はそのメルヘンを作中で次のように叙述しています。

 …ただ偶然出逢った別れたというのではなく、出逢いによって一つの心が明るく芽吹き希望となって形づくられるとしたらそれはもう一人の生き方を方向づけることであり、そこには目に見えないものの意志が存在するのではないだろうか。大きな自然の意志が出逢いを設定し、その瞬間に二つの心に対になったものを持たせてやるとしたら、そして隔てられていても互いに引き合い何年も経た後でも正確に一つの場所に吸い寄せかれるのではないだろうか…

 成長を描くというのは非常に魅力的に人をその世界に誘い込みます。自分とは違った生き方を夢見ることが可能な世界、それが小説や映画などのロマンであるのでしょう。
  
 「雪の断章」のあとがきには作者の次のような言葉があります。

 書いた私、その世界に生きた飛鳥、そして読んでくださった方々、この三者の無限の時間と空間においての一瞬の出逢いもまた一つのロマンスだと思うのです。現実に生きる人との出会いだけが生きる術ではないし、過去と未来を思惟するだけが人生ではありません。心というものは自在に、歴史のかなたへ、未来のかなたへ、原稿用紙の中へ、絵の具の中へと赴くことが出来ます。それならば、そんな心の旅先での感動と怒りと愛と、さまざまな影をとらえていくことが人の生きる方向だと信じます。

 飛鳥の頑なな心と純粋さがひとつのロマンスの結実に向かって氷解して行く過程を辿りながら、読んでいる人もともに成長して行くことを味わえる作品だと思います。
 因みに蛇足ではありますが、青酸カリは大気中に長時間そのまま放置しておくと二酸化炭素を吸収してシアン化水素を放出しながら、最終的には炭酸カリウムになってしまいます(2KCN+CO2+H2O → K2CO3+2HCN)。












 

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